私は初の国連事務総長として、この平和記念式典に参加できたことを光栄に思います。そして今、深い感動に包まれています。
広島と長崎に原爆が投下された当時、私はまだ1歳でした。私がここで何が起きたのかを十分に把握したのは、しばらく後になってからのことでした。
私は少年時代を朝鮮戦争のさなかに過ごしました。
炎上する故郷の村を後にして、泥道を山中へと逃れたことが、私にとって最初の記憶の一つとして残っています。
多くの命が失われ、家族が引き裂かれ……、後には大きな悲しみが残されました。
それ以来、私は一生を平和のために捧げてきました。
私が今日、ここにいるのもそのためです。
私は世界平和のため、広島に参りました。(この一文は日本語)
私たちは65年前に命を失った人々、そして、その一生を永遠に変えられてしまったさらに多くの人々に対して哀悼と敬意の念を表するため、一堂に会しているのです。
命は短くとも、記憶は長く残ります。
皆さんの多くにとって、あの日はまるで、空を焼き尽くした閃光のように鮮明に、また、その後に降り注いだ黒い雨のように暗く、記憶に残り続けていると思います。
私は皆さんに、希望のメッセージを送りたいと思います。
より平和な世界を手にすることは可能です。
皆さんの力は、それを実現する助けとなります。
被爆者の皆さん、あなた方の勇気で、私たちは奮い立つことができました。
次の世代を担う皆さん、あなた方はよりよい明日の実現に努めています。
皆さんは力を合わせ、広島を平和の「震源地」としてきました。
私たちはともに、グラウンド・ゼロ(爆心地)から「グローバル・ゼロ」(大量破壊兵器のない世界)を目指す旅を続けています。
それ以外に、世界をより安全にするための分別ある道はありません。なぜなら、核兵器が存在する限り、私たちは核の影に怯えながら暮らすことになるからです。
そして、私が核軍縮と核不拡散を最優先課題に掲げ、5項目提案を出した理由もそこにあります。
私たちの力を合わせる時がやって来たのです。
私たちには至るところに新しい友や同志がいます。
最も強大な国々もリーダーシップを発揮し始めました。国連安全保障理事会でも、新たな取り組みが生まれています。また、市民社会にも新たな活力が見られます。
ロシアと米国は新しい戦略兵器削減条約に合意しました。
私たちはワシントンでの核セキュリティーサミットで重要な進展を遂げることができました。その成果を踏まえ、2012年には次回のサミットが韓国で開催される予定です。
私たちはこの勢いを保たなければなりません。
私は9月にニューヨークで軍縮会議を招集する予定です。
そのためには、核軍縮に向けた交渉を推し進めなければなりません。
それは、包括的核実験の禁止に向けた交渉です。
また、兵器用核分裂性物質生産禁止条約(カットオフ条約)に向けた交渉でもあります。
また、被爆者の証言を世界の主要言語に翻訳するなど、学校での軍縮教育も必要です。
地位や名声に値するのは核兵器を持つ者ではなく、これを拒む者であるという基本的な真実を、私たちは教えなければならないのです。
皆さん、
65年前、この地には地獄の炎が降り注ぎました。
今日、ここ平和記念公園には、一つのともしびが灯っています。
それは平和の灯、すなわち、核兵器が一つ残らずなくなるまで消えることのない炎です。
私たちはともに、自分たちが生きている間、そして被爆者の方々が生きている間に、その日を実現できるよう努めようではありませんか。
そしてともに、広島の炎を消しましょう。
その炎を希望の光へと変えようではありませんか。
核兵器のない世界という私たちの夢を実現しましょう。私たちの子どもたちや、その後のすべての人々が自由で、安全で、平和に暮らせるために。
(2010年8月6日09時43分 読売新聞)
原爆落下中心地碑に献花する潘基文国連事務総長夫妻
=5日午後0時9分、長崎市の爆心地公園
来日中の国連の潘基文事務総長は5日午前、長崎を訪問した。
現職の国連事務総長の長崎訪問は初めて。
被爆者の高齢化が顕著になる中、爆心地から初めて「核兵器なき世界」を一日も早く実現する必要性を世界に訴える。
潘事務総長はまず、市内の長崎原爆資料館を視察した後、日本人や在日韓国人の被爆者と面会。
爆心地公園にある原爆落下中心地碑で献花し、そこで「核兵器なき世界」に向け、国連事務総長として全力を尽くす決意を世界に対して表明。
近くの長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑でも献花。
その後、カトリック長崎大司教区の高見三明大司教の案内で、被爆マリア像のある浦上天主堂を訪問し、記者会見を行う。
同日午後に広島に移動、翌6日に平和記念式典にも国連事務総長として初めて参加し、「核の脅威は現実だ」などとして核廃絶の必要性を訴える。
【産経ニュース 2010.8.5 10:16】