【東京「君が代」裁判第3次訴訟 2010年7月7日】
◎ 音楽科教員の立場から 原告意見陳述
池田幹子(元都立高校音楽科教員)
原告の池田幹子です。私は、「君が代」ピアノ伴奏を行わなかったために、2005年4月の入学式で戒告処分、2006年11月の創立記念式典、2007年3月の卒業式、2009年3月の卒業式で減給処分を受けました。昨年定年退職しましたが、1976年に都立高校の音楽科教諭となり、その前3年間非常勤講師として勤務し、通算36年間都立高校の音楽教員でした。
教員にとって、生徒たちが自分の生きる力を自覚し、その力を育み輝く姿に接することは、大きな喜びでした。音楽というものは、「自分が自分であること」を腹の底から自覚させる力を持ち、それは生きる力の源になるものだと思います。
他方で音楽は、超越的なものに人を同化させ、自分自身を見失わせる力も持っています。昭和の戦争の時代に、日本を神の国と信じ込ませ、天皇のために命を捨て勇ましく戦う心を駆り立てた音楽の力も、振り返らねばなりません。
「君が代」の強制は、教員たちにも生徒たちにも、理屈抜きで「お上」に服従する精神を注入し、いつしか服従していることをも忘れさせる力を持っているのではないかと私は恐れます。私は教育公務員の立場にあるからこそ、学校の式典で「君が代」を強制することに疑問と恐怖を覚え、この曲を伴奏し生徒たちに斉唱を促すことができませんでした。
「君が代」を戦時中と寸分変わらない歌のまま復活させて、学校教育の中で生徒に歌えと教え込むことは、主権在民の憲法にも教育基本法の精神にも反すると考えました。戦後、文部省が「君が代」を復活させた後、意味も曖昧なまま変遷させて、「君、僕」の「君」だから、天皇ではなく国民のことだと考えればよい、と校長たちに説明させてみたり、最近では象徴天皇をいただく我が国のことだと、と解釈してみたり、同じ歌なのに政治状況に合わせてコロコロと意味を変えることに、音楽教員として違和感だけでなく、生徒を騙すことのようにも感じます。結局、「意味など考えないで歌う」ことにならざるをえません。
この曲は、メロディは雅楽の旋法なのに編曲したドイツ人が主音の異なる西洋の機能和声とむりやり合体させたものであり、和洋折衷の音楽的安易さにも、私は違和感を強く感じます。楽譜も元は縦書きの「縦譜」だったものを五線譜の音高とリズムにあてはめて横書きの五線譜の音楽にいわば「翻訳」したわけで、やはり雅楽での演奏が一番ぴったりしています。歌詞がぶつ切れに聞こえる欠点も、音高の調整も、オーケストラ伴奏のほうがまだ欠点が目立ちにくいのに、わざわざ一番不自然さが目立つ「ピアノ伴奏」で歌わなければならないというのも、音楽的に考えれば馬鹿げたことです。
音楽というものに何の愛情も見識も持たない人たちが実施指針を決めたに違いないと感じます。国旗国歌法成立のあと、オーケストラ版や歌いりなど数種類の「君が代」伴奏のCDを都教委が自ら全都立高校に配布したのですから、ピアノ伴奏などしなくてもCD伴奏で用は足りるのです。
自分がなぜ「君が代」伴奏命令に苦しんだのか、今も繰り返し考えます。「日の丸」「君が代」をめぐる軋轢は、まさに近代日本の歴史が生んだものであることを、直視しなければなりません。反対する人間を学校から追い出し、絶滅させれば済む問題ではないことを、冷静になって考える必要があります。
私の祖父は、敗戦時に民間人ながら捕まり馬で引かれて処刑されたそうです。母方の叔父は長崎で原爆の直撃を受けて亡くなり、父方の伯父は軍医でしたが、捕虜の生体解剖に関与していたと思われます。母は、亡くなる半年ほど前から「お父さんが殺される怖い夢を見る。」と繰り返し言っていました。母は祖父が殺された場面を実際に見たわけではないのに、夢に見るというのです。約半世紀間、母はその問題を封印して口にしたことがありませんでした。多くの人たちが戦争の加害と被害への思いを胸にしまいこんだまま亡くなっていったのではないでしょうか。多くの日本人と日本の国家は、戦争において何が行われたか、なぜそうなったかを問い直すことをせず、責任の所在も問わずに、やり過ごしてきたのだと思います。
「日の丸」と「君が代」も、日本国内と植民地で果たした役割を問い直すことなく、ほとぼりが冷めた頃に復活させ、多くの教員たちへの処分を重ねながら学校教育を通じて普及してきました。それを考えても、「日の丸」に敬礼し「君が代」を歌うことはできないと感じます。
10.23通達に基づく詳細な職務命令を初めて読んだとき、私は、求められているのは「君が代を伴奏すること」だけではない、「何も考えるな、何も考えずに従え」ということが求められている、と感じました。座る椅子まで指定して教職員を監視する実施指針と通達の狙いは、教員の服従を通して、明らかに「生徒たちに逆らい難い場の圧力を感じさせながら国歌斉唱を実施する」ことに向けられていると感じました。その後の「3.13通達」によって、まさに教員を通して「生徒に服従を教えること」に狙いがあることはより一層鮮明となってきました。今では卒業式、入学式の司会台本に「起立しない生徒がいたら再度起立を促す」と明記し、実行されるようになっています。
10.23通達以前、多くの都立高校では、生徒の「卒業対策委員会」が中心となって創意工夫を凝らした卒業式が行なわれていました。卒業式は生徒たちが高校3年間で何をつかんで巣立ってゆくのかを確認し、また後輩たちにその高校の精神を色濃く伝えてゆく場となっていました。卒業式で何の歌を歌うかは多くの生徒たちの関心事ですが、私が都立高校に在職した33年間に、卒業式・入学式で「君が代」を歌いたいという声が生徒から上がったことは一度もありません。しかし、10.23通達によって、生徒も教員も卒業生や新入生ではなく壇上の日の丸に向かって座り、これに敬礼し、起立して君が代を斉唱するという、鋳型にはめた儀式を強いられるようになりました。
教育とは本来、生きるためのものです。生きるために、「自ら学び、自ら考える力の育成をはかること」が高等学校の教育目標です。「何も考えずに従え」という精神を教え込むことは「学習指導要領」に定められた高等学校の教育目標からもかけ離れていると思います。
以上、私が「君が代」のピアノ伴奏を行なわなかった理由を述べました。教育の本質に関わる矛楯と度重なる処分に直面して、3回目の処分のあと、2007年に私は抑鬱状態から5ヶ月間病気休暇をとるに至りました。
裁判所には、この訴訟が教育の本質と教師としての良心、そして生徒たちの自主的な精神の育成に関わる重大な意義をもつことを十二分に踏まえ、憲法に根ざした公正な判断をされるよう、切に希望いたします。
以上
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫
◎ 音楽科教員の立場から 原告意見陳述
池田幹子(元都立高校音楽科教員)
原告の池田幹子です。私は、「君が代」ピアノ伴奏を行わなかったために、2005年4月の入学式で戒告処分、2006年11月の創立記念式典、2007年3月の卒業式、2009年3月の卒業式で減給処分を受けました。昨年定年退職しましたが、1976年に都立高校の音楽科教諭となり、その前3年間非常勤講師として勤務し、通算36年間都立高校の音楽教員でした。
教員にとって、生徒たちが自分の生きる力を自覚し、その力を育み輝く姿に接することは、大きな喜びでした。音楽というものは、「自分が自分であること」を腹の底から自覚させる力を持ち、それは生きる力の源になるものだと思います。
他方で音楽は、超越的なものに人を同化させ、自分自身を見失わせる力も持っています。昭和の戦争の時代に、日本を神の国と信じ込ませ、天皇のために命を捨て勇ましく戦う心を駆り立てた音楽の力も、振り返らねばなりません。
「君が代」の強制は、教員たちにも生徒たちにも、理屈抜きで「お上」に服従する精神を注入し、いつしか服従していることをも忘れさせる力を持っているのではないかと私は恐れます。私は教育公務員の立場にあるからこそ、学校の式典で「君が代」を強制することに疑問と恐怖を覚え、この曲を伴奏し生徒たちに斉唱を促すことができませんでした。
「君が代」を戦時中と寸分変わらない歌のまま復活させて、学校教育の中で生徒に歌えと教え込むことは、主権在民の憲法にも教育基本法の精神にも反すると考えました。戦後、文部省が「君が代」を復活させた後、意味も曖昧なまま変遷させて、「君、僕」の「君」だから、天皇ではなく国民のことだと考えればよい、と校長たちに説明させてみたり、最近では象徴天皇をいただく我が国のことだと、と解釈してみたり、同じ歌なのに政治状況に合わせてコロコロと意味を変えることに、音楽教員として違和感だけでなく、生徒を騙すことのようにも感じます。結局、「意味など考えないで歌う」ことにならざるをえません。
この曲は、メロディは雅楽の旋法なのに編曲したドイツ人が主音の異なる西洋の機能和声とむりやり合体させたものであり、和洋折衷の音楽的安易さにも、私は違和感を強く感じます。楽譜も元は縦書きの「縦譜」だったものを五線譜の音高とリズムにあてはめて横書きの五線譜の音楽にいわば「翻訳」したわけで、やはり雅楽での演奏が一番ぴったりしています。歌詞がぶつ切れに聞こえる欠点も、音高の調整も、オーケストラ伴奏のほうがまだ欠点が目立ちにくいのに、わざわざ一番不自然さが目立つ「ピアノ伴奏」で歌わなければならないというのも、音楽的に考えれば馬鹿げたことです。
音楽というものに何の愛情も見識も持たない人たちが実施指針を決めたに違いないと感じます。国旗国歌法成立のあと、オーケストラ版や歌いりなど数種類の「君が代」伴奏のCDを都教委が自ら全都立高校に配布したのですから、ピアノ伴奏などしなくてもCD伴奏で用は足りるのです。
自分がなぜ「君が代」伴奏命令に苦しんだのか、今も繰り返し考えます。「日の丸」「君が代」をめぐる軋轢は、まさに近代日本の歴史が生んだものであることを、直視しなければなりません。反対する人間を学校から追い出し、絶滅させれば済む問題ではないことを、冷静になって考える必要があります。
私の祖父は、敗戦時に民間人ながら捕まり馬で引かれて処刑されたそうです。母方の叔父は長崎で原爆の直撃を受けて亡くなり、父方の伯父は軍医でしたが、捕虜の生体解剖に関与していたと思われます。母は、亡くなる半年ほど前から「お父さんが殺される怖い夢を見る。」と繰り返し言っていました。母は祖父が殺された場面を実際に見たわけではないのに、夢に見るというのです。約半世紀間、母はその問題を封印して口にしたことがありませんでした。多くの人たちが戦争の加害と被害への思いを胸にしまいこんだまま亡くなっていったのではないでしょうか。多くの日本人と日本の国家は、戦争において何が行われたか、なぜそうなったかを問い直すことをせず、責任の所在も問わずに、やり過ごしてきたのだと思います。
「日の丸」と「君が代」も、日本国内と植民地で果たした役割を問い直すことなく、ほとぼりが冷めた頃に復活させ、多くの教員たちへの処分を重ねながら学校教育を通じて普及してきました。それを考えても、「日の丸」に敬礼し「君が代」を歌うことはできないと感じます。
10.23通達に基づく詳細な職務命令を初めて読んだとき、私は、求められているのは「君が代を伴奏すること」だけではない、「何も考えるな、何も考えずに従え」ということが求められている、と感じました。座る椅子まで指定して教職員を監視する実施指針と通達の狙いは、教員の服従を通して、明らかに「生徒たちに逆らい難い場の圧力を感じさせながら国歌斉唱を実施する」ことに向けられていると感じました。その後の「3.13通達」によって、まさに教員を通して「生徒に服従を教えること」に狙いがあることはより一層鮮明となってきました。今では卒業式、入学式の司会台本に「起立しない生徒がいたら再度起立を促す」と明記し、実行されるようになっています。
10.23通達以前、多くの都立高校では、生徒の「卒業対策委員会」が中心となって創意工夫を凝らした卒業式が行なわれていました。卒業式は生徒たちが高校3年間で何をつかんで巣立ってゆくのかを確認し、また後輩たちにその高校の精神を色濃く伝えてゆく場となっていました。卒業式で何の歌を歌うかは多くの生徒たちの関心事ですが、私が都立高校に在職した33年間に、卒業式・入学式で「君が代」を歌いたいという声が生徒から上がったことは一度もありません。しかし、10.23通達によって、生徒も教員も卒業生や新入生ではなく壇上の日の丸に向かって座り、これに敬礼し、起立して君が代を斉唱するという、鋳型にはめた儀式を強いられるようになりました。
教育とは本来、生きるためのものです。生きるために、「自ら学び、自ら考える力の育成をはかること」が高等学校の教育目標です。「何も考えずに従え」という精神を教え込むことは「学習指導要領」に定められた高等学校の教育目標からもかけ離れていると思います。
以上、私が「君が代」のピアノ伴奏を行なわなかった理由を述べました。教育の本質に関わる矛楯と度重なる処分に直面して、3回目の処分のあと、2007年に私は抑鬱状態から5ヶ月間病気休暇をとるに至りました。
裁判所には、この訴訟が教育の本質と教師としての良心、そして生徒たちの自主的な精神の育成に関わる重大な意義をもつことを十二分に踏まえ、憲法に根ざした公正な判断をされるよう、切に希望いたします。
以上
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫