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  板橋高校卒業式「君が代」刑事弾圧事件 最高裁に口頭審理を要請中
  ★ 立川、葛飾に続く「言論表現の自由」圧殺を許すな! ★
  最高裁は「表現そのものを処罰すること」の憲法適合性を判断せよ!
  ◇ 5/31欧州人権専門家の『legal opinion』を最高裁へ提出!! ◇

「コムクドリ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》


 ◎ 国歌・「君が代」は、柩を挽く歌である!

藤田勝久

 昔、原田康子の「挽歌」がなぜか流行った。
 高校生の私もなぜかしみじみとして読んだ。
 まさかのち、その舞台・道東の地に7年過ごすとは・・・。

 「君が代」は、どうも重苦しくて、「・・・むーすーまーで」で終わって、さて、むすまでどうしたいのか何なのかは、すでに前段に含まれていて歌うにはすっきりしないなあと思ってきた。この歌が、挽歌であると明示されて、氷塊が溶けるようにただちに了解された。
 この稿は、ひとえに二松学舎教授、溝口貞彦氏(1939生)と横浜市立大学名誉教授、矢吹晋氏の論考にはたとひざを打ちその引用で書かれている。

 「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」

 本歌は何か。


 『万葉集』巻2の挽歌の一つ、「河辺宮人が、姫嶋の松原で乙女の屍を見て悲嘆し作れる歌」、

 「妹が名は 千代に流れむ姫嶋の 子松が末に 苔むすまでに」である。

 現実には果たせなかった乙女の長寿、永生の姿をこの歌に託して見ようとしている悲痛きわまる歌である。

 のち、『古今集』巻7、「読み人知らず」の、
 「我君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」となり、

 藤原公任撰の『和漢朗詠集』において、「我君」が「君が代」に転じて完成する。

 溝口貞彦の結論は、こうである。
 「君が代」の歌詞の意味は、「千代に八千代に」という永遠の願いを、死後の「常世」に託したものであり、それは「死者の霊」に対する鎮魂の歌にほかならないと。

 紀貫之が『万葉集』の挽歌の一句を断章取義してしまった、つまみ食いしてしまった、ようするに間違ったのである。
 彼は、この歌を「賀歌」ではなく、「挽歌ないしは哀傷歌」のうちに含めるべきであったのだ。

 薩摩の砲兵隊長、大山巌は、「巌」の字が入っている故に、天皇を奉る礼曲としてこれを強く推した。
 かくしてとんでもない悲喜劇が生じることとなった。
 祝いの席で弔辞を読む羽目に陥ったのである。

 「君が代」がかねて「葬送の歌」にこそふさわしいと感じていた私の実感は、正しかったのである。

 溝口は、現世における長寿を願う「賀歌の系列」と、死後の来世における永生を祈る「挽歌の系列」と二つの流れがあることを明示して、「君が代」は挽歌だと厳しく論考したのである。

 さざれ石も巌も、ともに霊石とみなされ、神性を帯びる。
 これは死んだ親あるいは祖先の「化身」とみなされる。
 「巌」は、万葉集では「墓地」あるいは「墓所」を指し、その「巌に苔生す」苔は、「再生、転生の象徴」であり、死後の再生、転生を経てしかるのち初めて、「千代に八千代に」という永生が得られるのである。

 「君が代」の歌詞は、「祝い歌、言祝ぎ歌」ではなく、「死者を悼む挽歌」であり、柩を挽く者が歌う「哀傷の歌」であったのだ。

 いかなる民族も慶弔は峻別してきた。
 そのような醇風美俗をもつ日本において、為政者の無知蒙昧により、祝賀の日に葬送の歌を歌うことを強制するのは、はなはだ奇怪な光景ではないか、と矢吹は言う。

 溝口の論考によれば、「さざれ石の巌となりて」という一句は、
 老子→説苑→大智度論→白楽天→仮名序とつらなる古代中国の「土を積む思想」と、
 法華経→真名序→仮名序とつらなる仏教の「微塵を積む思想」とが融合して作られたとする。
 まさに、いろはカルタ、「塵も積もれば 山となる」の淵源は、老子と釈迦に発するのである。

 偏狭なナショナリズムは幼稚な嬰児の思想である。
 思想と言うか、それは泣き喚きにしかすぎない。
 真のナショナリズムは排外主義とは無縁である、むしろ国際協調の精神と親和性をもつものであると溝口、矢吹らはこの研究を通して実感しているのであろう。

 全国の学校の卒業式で「君が代」が強制的に歌わされているのを聞いて、泉下の紀貫之は、「あらあー、しまったあー」とでも言っているのであろうか。

 かって、石原慎太郎は1999・3・13日、毎日新聞朝刊で次のように言っている。
 「 日の丸、君が代を学校の行事に強制しますか。
  石原  日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。
    歌詞だって、あれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。
    新しい国歌を作ったらいいじゃないか。
    好きな方、歌やあいいんだよ。」
 石原は、こう言えば良かったのだ。
 「歌詞だって、あれは一種の滅びの歌、黄泉の雰囲気の内容だ。」と。

 「葬送の歌」を輝かしい喜びの場に歌わせようと狂奔する都知事・石原、
 そしてその配下の都教委の連中とは一体何者であるのか。
 まこと、「アプスュルディテ」、馬鹿馬鹿しい限りではある。

 明治以来、唯一「君が代」を歌わない賓客がいる。
 彼らは、この歌が自分に捧げられているということは正しく理解しているが、挽歌だとは知らないようだ。

 話は、突如変わって、某年某月、新国歌の募集が行われた。
 「上を向いて歩こう」は、世界で最も知られた日本の曲として有力候補の一角にあった。
 「ふるさと」は、相当上位に行きそうであった。
 国民誰でもが、提案出来た。
 老いた私は、「赤色エレジー」を推薦した。

 ・・・愛は愛とて 何になる
    男一郎 まこととて
    幸子の幸は どこにある

    男一郎 ままよとて
    昭和余年は 春の宵
    桜吹雪けば 蝶も舞う

 ・・・さみしかったね どうしたの
    お母さまの 夢見たね
    オフトンもひとつ ほしいよね
    いえいえこうして いられたら

 ・・・あなたの口から サヨナラは
    言えないことと 思ってた
    裸電球 舞踏会
    踊りし日々は 走馬灯

 ・・・幸子の幸は どこにある
    愛は愛とて 何になる
    男一郎 まこととて

    幸子の幸は どこにある
    男一郎 ままよとて
    幸子と一郎の 物語
    お涙ちょうだい ありがとう

『藤田先生を応援する会通信』(第41号 2010/6/3)