<<Prof. Shima's Life and Opinion Shima教授の生活と意見。>>
御影暢雄さんの娘さんが、カナダのフランス語圏で研究をされているということで、Les Lettres Fran醇Maises 2月号に掲載の「蟹工船」書評記事の翻訳をお願いした。このほどその訳をいただいたので、ここに掲載する。
Le lutte des classes existe toujours
階級闘争は未だ存在す
~80年の間、フランスでは知られてこなかった小林多喜二の「蟹工船」は日本では著しい人気を博す、世界における重要な文学作品である。~
手に取るとすぐ、どうして仏語翻訳が出るのに80年もかかったのかと疑問に思う。日本文化の専門家がいるにもかかわらず、小林多喜二の作品に目を向けるよう促す人がいなかったとは想像しにくい。少なくとも、非公式の検閲が具合の悪い本を普段からどこかへ追いやってきたのでなければ・・・そういう意味で、1929年にまで遡る小林多喜二の代表作を知らせてくれたヤゴ出版の積極性に敬意を表したい。
1920年代というのは革命運動に身を投じた日本の作家の興隆期である。日本の国威を貶めるものとしての共産主義への激しい弾圧にもかかわらず、又、その内部の党派争いにもかかわらず、活発で影響力を持ち、多くの場合それはプロレタリア芸術としてあらわれた。その中でも特に才能があったのは他でもない小林多喜二である。彼の生涯について我々が知っていることは活動家として作家として立ち向かわねばならなかった暴力に彩られている。そして、それは1933年に決着をつけられることとなった。警察に逮捕され、拷問死に至ったのだ。多喜二虐殺は、昭和の絶対主義天皇制に対する抵抗運動への応酬であった。
「蟹工船」は、特に相互扶助の伝統もない、ほとんどが失業により他業種から駆り集め集められた、一文無しの海上賃金労働者(プロレタリアート)が置かれた悲惨な状況から始まる。しかし、真のテーマは、その状況よりも、そこから抜け出す手段である。取るに足りない賃金、打ちのめされ、ちょっとした低能率へ罰金を科せられ、かび臭く、胸糞が悪くなるような場所に押し込められ、溺れ死ぬ危険にさらされ、船員の間に抵抗運動への機運が盛り上がるようになる。弱さを抱え、よく展望が見えない運動を始めるといったあらゆる不安にもかかわらず、船員らの運動への欲求が高まっていくのを、読者は読み取ることができる。船員らは、誰にも期待することができない・・・自分達自身以外は。海では全ての権限をもっているはずの船長は一度たりとも船員を助けることがない。船長は臆病と利害によって、むしろ船の所有者とその代弁者である監督の側にいるのである。監督は巧みに、皆何か守るものがある男たちの不安を操る。そして結局彼らが行動に移るのは、劣悪な労働条件が命に関わるものとなって来てからである。
一方、もう一つの船員達の屈従の仕掛けとなるのがナショナリズムである。漁場はロシア領サハリンと接する。駆逐艦の護衛下、船は水産資源を奪取するためにソビエト領海域を侵す。監督は都合よく、共産政権であるロシアへの憎しみを煽り、船員らにあたかも大日本帝国の為の真に愛国的責務を果たさねばならないかのように説く。
「蟹工船」は「戦艦ポチョムキン」の雰囲気を思い起こさずにはいられない。階級闘争の誕生にまつわるすべての要素を盛り込んでいる。必要に迫られ、闘争は自らそれぞれ困難な道を切り拓かねばならないが、道が見えると人はその発見によって変わる。船員らは置かれている暴圧的で様々な形の恐怖の状況を克服する。団結のみが、極端に非人間的な状況に対して、対峙し行動を起こすことができるのであった。
闘争はボロボロの船員らの大義を掲げる闘士に変えていく。
蟹工船での闘争は新生日本のサムライなのか、否、不敬虔な展望だ。
作者は、無産者を英雄にして人民が主人公の日本を想像したことにより死なねばならなかった。作者は、天皇制を粉砕できると考えるすべての勇ましい者達に対する見せしめに殺されたのである。
「蟹工船」は傑作である。レジル・オドリー氏が秀れた翻訳者であることからも、出版社が小林多喜二の他の作品を扱ってくれることを願う。
御影暢雄さんの娘さんが、カナダのフランス語圏で研究をされているということで、Les Lettres Fran醇Maises 2月号に掲載の「蟹工船」書評記事の翻訳をお願いした。このほどその訳をいただいたので、ここに掲載する。
Le lutte des classes existe toujours
階級闘争は未だ存在す
~80年の間、フランスでは知られてこなかった小林多喜二の「蟹工船」は日本では著しい人気を博す、世界における重要な文学作品である。~
手に取るとすぐ、どうして仏語翻訳が出るのに80年もかかったのかと疑問に思う。日本文化の専門家がいるにもかかわらず、小林多喜二の作品に目を向けるよう促す人がいなかったとは想像しにくい。少なくとも、非公式の検閲が具合の悪い本を普段からどこかへ追いやってきたのでなければ・・・そういう意味で、1929年にまで遡る小林多喜二の代表作を知らせてくれたヤゴ出版の積極性に敬意を表したい。
1920年代というのは革命運動に身を投じた日本の作家の興隆期である。日本の国威を貶めるものとしての共産主義への激しい弾圧にもかかわらず、又、その内部の党派争いにもかかわらず、活発で影響力を持ち、多くの場合それはプロレタリア芸術としてあらわれた。その中でも特に才能があったのは他でもない小林多喜二である。彼の生涯について我々が知っていることは活動家として作家として立ち向かわねばならなかった暴力に彩られている。そして、それは1933年に決着をつけられることとなった。警察に逮捕され、拷問死に至ったのだ。多喜二虐殺は、昭和の絶対主義天皇制に対する抵抗運動への応酬であった。
「蟹工船」は、特に相互扶助の伝統もない、ほとんどが失業により他業種から駆り集め集められた、一文無しの海上賃金労働者(プロレタリアート)が置かれた悲惨な状況から始まる。しかし、真のテーマは、その状況よりも、そこから抜け出す手段である。取るに足りない賃金、打ちのめされ、ちょっとした低能率へ罰金を科せられ、かび臭く、胸糞が悪くなるような場所に押し込められ、溺れ死ぬ危険にさらされ、船員の間に抵抗運動への機運が盛り上がるようになる。弱さを抱え、よく展望が見えない運動を始めるといったあらゆる不安にもかかわらず、船員らの運動への欲求が高まっていくのを、読者は読み取ることができる。船員らは、誰にも期待することができない・・・自分達自身以外は。海では全ての権限をもっているはずの船長は一度たりとも船員を助けることがない。船長は臆病と利害によって、むしろ船の所有者とその代弁者である監督の側にいるのである。監督は巧みに、皆何か守るものがある男たちの不安を操る。そして結局彼らが行動に移るのは、劣悪な労働条件が命に関わるものとなって来てからである。
一方、もう一つの船員達の屈従の仕掛けとなるのがナショナリズムである。漁場はロシア領サハリンと接する。駆逐艦の護衛下、船は水産資源を奪取するためにソビエト領海域を侵す。監督は都合よく、共産政権であるロシアへの憎しみを煽り、船員らにあたかも大日本帝国の為の真に愛国的責務を果たさねばならないかのように説く。
「蟹工船」は「戦艦ポチョムキン」の雰囲気を思い起こさずにはいられない。階級闘争の誕生にまつわるすべての要素を盛り込んでいる。必要に迫られ、闘争は自らそれぞれ困難な道を切り拓かねばならないが、道が見えると人はその発見によって変わる。船員らは置かれている暴圧的で様々な形の恐怖の状況を克服する。団結のみが、極端に非人間的な状況に対して、対峙し行動を起こすことができるのであった。
闘争はボロボロの船員らの大義を掲げる闘士に変えていく。
蟹工船での闘争は新生日本のサムライなのか、否、不敬虔な展望だ。
作者は、無産者を英雄にして人民が主人公の日本を想像したことにより死なねばならなかった。作者は、天皇制を粉砕できると考えるすべての勇ましい者達に対する見せしめに殺されたのである。
「蟹工船」は傑作である。レジル・オドリー氏が秀れた翻訳者であることからも、出版社が小林多喜二の他の作品を扱ってくれることを願う。