4「第三国人」の排斥
 このころ第三国人という言葉が氾濫した。余計者ということだ。マスコミが煽ったこともあり、大衆的なレベルで朝鮮人排斥が横行した。当時、外地から引揚げた日本人が多数いたので、60万の在日は仕事がなかった。そこでヤミ市で商売をした。これに対し朝鮮人のヤミ市だけが非難の対象になった。「密造酒のドブロク」「露店のヤミ物資が統制経済を乱す」というキャンペーンが全国紙・地方紙を含めて張られ、「ヤミ市に根をはる朝鮮人」「朝鮮人がすべて悪い」という言い方をされた。しかし調べてみるとヤミ市に露店を出す朝鮮人は、上野で130人、新橋で60人、渋谷で18人に過ぎない。日本人のほうがずっと多い。
 このキャンペーンを受け国会でも、大野伴睦が質問のなかで(非日本人の破壊行為は)「あたかも平和なる牧場に虎狼の侵入せる感を禁じ難きものがある」と述べ、大村内相が「あたかも戦勝国民なるがごとき優越感を抱き」(不法越軌の行為を行った)と答弁している。戦前、目下(めした)だった国が急にいばりだしたというキャンペーンである。

5 BC級戦犯
 教育と選挙権の問題を話した。もっと重要な問題としてBC級戦犯の問題がある。
 BC級戦犯は日本人として捕虜虐待を問われ処罰された。サンフランシスコ講和条約後、日本人戦犯は徐々に釈放されたが、朝鮮人は釈放されなかった。理由は外国人だからだ。日本人として戦犯になったが外国人なので釈放されない、こんな馬鹿な話はない。
 また樺太に置き去りにされた朝鮮人の問題もある。彼らは日本人として徴用され樺太に渡った。戦後、日本人は帰還できたが、朝鮮人は帰還できない。当時韓国とソ連には国交がなかった。朝鮮に戻るには日本を通過する必要があったが、外国人なので通過できないというものだった。
 もうひとつ、上野や新宿の街頭にいた白衣の傷痍軍人の問題がある。あの人たちは日本人ではなく朝鮮人だった。外国人という理由で、傷病手当を打ち切られた人たちだった。大島渚のテレビドキュメンタリー「忘れられた皇軍」で描かれている。これが戦後の日本の姿だ。これが民主国家だろうか。日本政府に「人権」などという資格はないと思う。
 最後に、吉田茂のマッカーサー宛書簡の話をする。49年に送った書簡で、吉田は「食糧事情が悪いのに輸入した食糧の一部で朝鮮人を食べさせている。朝鮮人の大部分は経済復興に貢献していない。しかも犯罪者が大きな割合を占める」と述べている。いかに日本の戦後民主主義が虚妄だったかがわかる。
 さらに45年8月から48年5月までの朝鮮人の累計犯罪者数91,235人というデータを挙げている。この当時、外国人登録令違反にならなかった人は少ない。目を付けるだけでいい。わたしも前科3犯だ。夏の暑いときに銭湯にいった。帰りに友達と銭湯の前でおでんをつついていると、顔見知りの原宿署の警官がやってきた。「登録証をみせろ」というが風呂の帰りなのでそんなものを持っているはずがない。すると「登録令違反だ。ちょっと来い」と署にしょっ引かれた。署で聞かれたのは、その直前に帰国した弟から手紙が来るかということだった。しかし登録令違反である。光栄なる「前科3犯」である。

☆1952年に在日が日本国籍を離脱するまでの間、日本政府がどのように二重政策を行使したかよくわかった。日本が敗戦を迎えても「在日は二級の国民から余計者という扱いに変わったに過ぎない」「日本は唯一の単一民族国家なので、異民族が定住すると大変だ。出て行くか、日本の学校に入るか二者択一しろ」という言葉は、いま在特会などの団体が路上で叫んでいるのと同じフレーズで、耳に痛かった。また姜さん自身の数々の被差別体験は生々しかった。

 
 『多面体F』より(2009年11月27日 集会報告)
http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/e/de87519085ff7597cb7d2c1f02faf0f1