[ Shima教授の生活と意見]2009年02月13日 より転載。
カテゴリ 1932年という年 太宰と多喜二の接点を追って、今日は1932(昭和7)年の『赤旗』と『プロレタリア文学』『プロレタリア文化』に目を通してみた。
その結果あらためてわかったことは、「文学作品を作品としてだけ切り離して見ているのでは、なにもわからない」ということだ。
1931年春に太宰の住まいを使って印刷されていたガリ版刷の『赤旗』がこの年活版になり、地下活動に移った多喜二は仮名でその『赤旗』に小説を発表している。
「沼尻村」から「地区の人々」までの間に、全集には未収録の多喜二の小説がいくつもあるということ。
まさにその時期に、多喜二晩年の数多くの評論が、これも仮名で書かれているということ。
そこに重ねて、太宰の「転向」の時期があるということ。
さらに視野を広げていくと、「五・一五事件」が起こり、「大森銀行ギャング事件」が起こり、「エロ・グロ・ナンセンス」の風潮がピークを迎えているのがこの頃なのである。
考えてみれば実に奇妙な時代だ。
多喜二研究ということだけを考えてみても、この時期に『赤旗』に書かれた小説をきちんと視野に入れた研究はほとんど無い。
しかしそうしたことも含めて、多喜二が置かれていた状況を立体的にとらえなければ、「党生活者」の意味も本当には理解できないのではないだろうか。
たいへんな作業が予想されるが、そこに踏み込んでいかなければならないだろう。
カテゴリ 1932年という年 太宰と多喜二の接点を追って、今日は1932(昭和7)年の『赤旗』と『プロレタリア文学』『プロレタリア文化』に目を通してみた。
その結果あらためてわかったことは、「文学作品を作品としてだけ切り離して見ているのでは、なにもわからない」ということだ。
1931年春に太宰の住まいを使って印刷されていたガリ版刷の『赤旗』がこの年活版になり、地下活動に移った多喜二は仮名でその『赤旗』に小説を発表している。
「沼尻村」から「地区の人々」までの間に、全集には未収録の多喜二の小説がいくつもあるということ。
まさにその時期に、多喜二晩年の数多くの評論が、これも仮名で書かれているということ。
そこに重ねて、太宰の「転向」の時期があるということ。
さらに視野を広げていくと、「五・一五事件」が起こり、「大森銀行ギャング事件」が起こり、「エロ・グロ・ナンセンス」の風潮がピークを迎えているのがこの頃なのである。
考えてみれば実に奇妙な時代だ。
多喜二研究ということだけを考えてみても、この時期に『赤旗』に書かれた小説をきちんと視野に入れた研究はほとんど無い。
しかしそうしたことも含めて、多喜二が置かれていた状況を立体的にとらえなければ、「党生活者」の意味も本当には理解できないのではないだろうか。
たいへんな作業が予想されるが、そこに踏み込んでいかなければならないだろう。