・メモ

菊とポケモン、この題は「菊と刀」、「菊とバット」

に対応するものとして決めたんだろうが、そのセン

スのなさはすごいなw ということでポケモンがな

んであるか殆ど知らないままに読んでみた。これは、

日本のポップカルチャーが米国で受け入れるまでの

紆余曲折を歴史を追いながら解き明かそうという試

みだな。子どもの頃日本語の達者な外国人というと、

スポーツの活動で、武道の修行で、美術に魅せられ、

宗教の伝道の活動で、日本に来た限られた人たちと

いう印象が多い。しかし今は子どもの頃日本の漫画

やアニメ、ゲームに夢中になり、そこから日本の

文化に興味を持ち、大人になって日本に来た人達が

かなり多いと聞く。私なんかから見ると一過性に

過ぎないと思っていたが、そう思うのは、現状を

直視できない50代以上の人間の典型的な発想ら

しいとか。。うーん耳が痛い。

 

本書の中で、日本が戦後の混乱の中から米軍の

廃棄品を利用したおもちゃをきっかけに、鉄人、

アトム、マッハゴーゴーゴーなどを中心に徐々に

米国に受け入れられていった段階がまず語られる。

しかしここでは需要はかなり限定的であり、「

日本製品は陳腐で安物」というイメージは払拭

できていない。

 

流れが変わったのは「パワーレンジャー」の

米国でのヒット、日本では「ジュウレンジャー」

名義で放映されたアクション戦隊ものを、

変身前のシーンを米国人キャストに置き換え、

ある程度の成功を収めることができた。ここで

注目したいのは、米国側が行った「日本特有の

色」を薄め、米国に受け入れられるように「

グローバル化」を施したところだな。この流れ

はその後の「セイラームーン」「たまごっち」、

さらに「ポケモン」にも施されていく。

 

ただ、「ポケモン」では流れが大きく変わる。

この物語というかゲームは、米国人の大好き

な勧善懲悪、絶対的なヒーローが存在しない。

善悪のサイドが曖昧なまま、主人公たちの行

動の位置付け、意味づけも明示されないまま、

展開されるストーリーは完全な「グローバル化」

は行わうことができず、部分的な修正なまま

全米に公開されることになる。米国での大人の

反応はストーリーを理解できず困惑するものが

大半を占めたが、逆に青少年、幼年層は、それ

を面白がり、楽しむという態度で受け入れて

いったという。最近では「グローバル化」を

嫌い、日本語の作品に直に触れることが

「クール」で「いけてる」ことになってきた

らしい。うーん、隔世の感があるね。

 

筆者はこういった一連の流れを、日本の伝統が

根底にあると考えているが、私の頭が古いのか、

これは例えば手塚治虫とかポケモンゲームの

生みの親田尻氏の個人の資質によるものだと

思えてしまう。が、筆者の主張を聞いていると

それもありかなという気もしてくる。うーん。

 

結局のところ、日本では当たり前の

「かわいい」

という発想が修正をせずに日本以外で

も受け入れられ始めたということなの

ではないかと思う。

 

誠剛君はこう言ってる。

 

[菊とポケモン/¥5,616]

[リチャード・ホーフスタッター/みすず書房(2010/8/30)]

[403p/978-4-10-506221-7]

[かわいい、ストーリを作りすぎ?キャラクタ、アトムの成り立ちは戦後日本の復興のストーリと一致、多様変容、ノマディシズム、ファンタジードリブンのクール、神話的世界→テクノロジの世界、近代化、いやし+携帯性、ゴジラ、アトム、結論ありき、日本は平和という幻想、恐竜・変身・武術、日本文化というよりグローバル性、ポップカルチャー、ハローキティ、セイラームーン、たまごっち、パワーレンジャー、マジンガーゼット、鉄人28号、ポケモン、メイドインジャパンは陳腐で安物、田尻氏、千1643]

[単行本][初図][021]