MOON

             

「はじまったのか、おわったのか。」

 ボタンをはずす指先から視線をちょっとずらしながら考える。答えがわからず、男の右手をぎゅっと掴んだ。

「いつもはじまりでいつもおわり。今がはじまりで今がおわり。これじゃ、答えになってない?」

 その声を封じるように右の耳たぶをやわらかくふくまれてしまう。

「会いたいって時は、なにかがおわった時かはじまった時だろ。」

「ん?」

「だろ?」

「そうかな?」

「だろ?」

「なんか、それって、相当ひどい人みたい。」

「好きすぎず、溺れず、薬にも毒にもならない。ちょうどいいよな、俺?」

 

この男とどこで出会ったか覚えていない。ただ、死にたくなるほどの絶望の淵にいた時に出会った気がする。

 確か、初めて会った日に、

「今日は、良い天気ですね。」

というくらいの軽さで、

「俺はEDだから、全く安心安全です。」

と言っていた。不意打ちのカミングアウトだったが、瞳の奥に深く青みがかった哀しみが見え隠れした気がして、簡単にその言葉を信じてしまった。

 わたしは、今よりずっとずっと若く、そして、もっともっとちゃらんぽらんな女だったから、よくわからないこの男とたまに会ったり、会わなかったりした。

 

「会いたい。」

と、電話したのはわたしだ。

人恋しさで押しつぶされそうな苦しみをひとりでは癒せず、どうしようもないやるせなさをどこにも置けず、無意識に男に電話してしまった。咄嗟にこの男を選んだのは、他のなにかによって私を塗りつぶされたくなかったからだろう。そう、わたしは、ずるいのだ。

 会った途端に泣いた。できるだけしずかに音をたてないように泣いた。

男は、以前よりもっと大人で、ほんの一瞬だけ困った顔をしただけで、ただそばにいてくれた。

「なあ、部屋とってもいい?抱きしめてやりたくてたまらないんだけど。さすがにここじゃまずいだろ。」

卑怯だと思ったが、決壊したダムみたいに流れ出すわたしをとどめてくれる器は、ここにしかなかった。

小さくゆっくり頷いた。

 

シンプルな真っ白い部屋だった。壁には、月の絵が一枚だけ掛けられていた。

抱きしめられてみると、やっぱりこの人は男なんだと思った。

「おまえ、けっこう欲情してる?」

わざとおどけた素振りで男は言った。自分が哀しいのか欲情しているのか、壊れているのかわからなかった。だから、返事しなかった。いや、返事できなかったのだ。

「ガラスみたいだよな。」

「ガラス?」

「ガラスコーティングされていて、いつも中身には届かない。触れようと強く扱うと怪我してしまいそうだ。」

「それって?」

「お、ま、え。」

「わたしのこと?」

「ああ。」

「ねえ、キスして。」

「いくらEDでもな、俺だって男なんだぞ。」

「じゃー、今だけ、男になってもいいよ。」

「絶対に目は閉じるなよ。」

そう言うと男の唇も指先もだんだん饒舌になっていった。

 結局、やはり、EDのままだったが、わたしのすべてが深く満たされた。

「ガラスの中の本当のおまえに触れることができたら、本当に男になれる気がする。あの時、おまえに声をかけたのも、もしかしたら、お前なら、って思ったからだし。」

「ありがとう。」

 

 あれから何年経ったのか。

あの後、同じように数回会った。いつもなにかがおわって、はじまる時だった気もする。

「ねえ、キスして。」

「目は閉じるなよ。」

小さく笑った。

「あと、おまえの中にいるそいつのことは、今だけ忘れろ。」

「はじまりだよね?」

「馬鹿、こんな時くらい、素直になれって!」

「うん。」

「たまにはそっちからこいよ。」

そう言って男が笑ったら、泣きたくなった。

あの夜、壁に掛かっていた絵画のような月が出ていた。まるで、絵の中から盗んで貼りつけたような月だった。

ぎこちなく、わたしからキスしたら男はちょっと照れて、笑った。

三日月くらいがちょうどいい。そう思った。

「わたし、ずるいよね?」

「心配するな、俺もずるいから。」

そんな男を愛しいと思った。

今夜は、本物のおまえに会える気がする。」

「ん。それって。」

「もし、そうなら。」

まだ、触れられていないのにビクンとした。

「なんか、キュンってした。」

「おまえって、子宮で考える女の典型みたいだよな。」

「初めての女って忘れない?」

「さあ?」

いつもより強く抱きしめられる。

「素直になれよ。」

「うん。」

「おまえ、好きな奴としかしない主義だろ?無理するなよ。」

「うん。ごめん。」

「謝るなって。」

「ごめん。」

「馬鹿、もうなにも言うな。」

「ごめん。」

「しょうがないな。じゃーしばらく月の存在理由でも考えておけ。そのうち、なにも考えられないようにしてやるよ。」

まるで蛹の中にいるように男に包まれる。

「やっぱり、欲しい。」

男の心音がちょっぴり強くなった気がした。

 窓から覗く月がゆっくり欠けてゆく。そうだ、今夜は月蝕。どんなこともありえる夜なのだ。

いつもより強く抱きしめられた気がする。

あと少しで月がなくなる。あと少しで…。

 

 

MOON

             

「はじまったのか、おわったのか。」

 ボタンをはずす指先から視線をちょっとずらしながら考える。答えがわからず、男の右手をぎゅっと掴んだ。

「いつもはじまりでいつもおわり。今がはじまりで今がおわり。これじゃ、答えになってない?」

 その声を封じるように右の耳たぶをやわらかくふくまれてしまう。

「会いたいって時は、なにかがおわった時かはじまった時だろ。」

「ん?」

「だろ?」

「そうかな?」

「だろ?」

「なんか、それって、相当ひどい人みたい。」

「好きすぎず、溺れず、薬にも毒にもならない。ちょうどいいよな、俺?」

 

この男とどこで出会ったか覚えていない。ただ、死にたくなるほどの絶望の淵にいた時に出会った気がする。

 確か、初めて会った日に、

「今日は、良い天気ですね。」

というくらいの軽さで、

「俺はEDだから、全く安心安全です。」

と言っていた。不意打ちのカミングアウトだったが、瞳の奥に深く青みがかった哀しみが見え隠れした気がして、簡単にその言葉を信じてしまった。

 わたしは、今よりずっとずっと若く、そして、もっともっとちゃらんぽらんな女だったから、よくわからないこの男とたまに会ったり、会わなかったりした。

 

「会いたい。」

と、電話したのはわたしだ。

人恋しさで押しつぶされそうな苦しみをひとりでは癒せず、どうしようもないやるせなさをどこにも置けず、無意識に男に電話してしまった。咄嗟にこの男を選んだのは、他のなにかによって私を塗りつぶされたくなかったからだろう。そう、わたしは、ずるいのだ。

 会った途端に泣いた。できるだけしずかに音をたてないように泣いた。

男は、以前よりもっと大人で、ほんの一瞬だけ困った顔をしただけで、ただそばにいてくれた。

「なあ、部屋とってもいい?抱きしめてやりたくてたまらないんだけど。さすがにここじゃまずいだろ。」

卑怯だと思ったが、決壊したダムみたいに流れ出すわたしをとどめてくれる器は、ここにしかなかった。

小さくゆっくり頷いた。

 

シンプルな真っ白い部屋だった。壁には、月の絵が一枚だけ掛けられていた。

抱きしめられてみると、やっぱりこの人は男なんだと思った。

「おまえ、けっこう欲情してる?」

わざとおどけた素振りで男は言った。自分が哀しいのか欲情しているのか、壊れているのかわからなかった。だから、返事しなかった。いや、返事できなかったのだ。

「ガラスみたいだよな。」

「ガラス?」

「ガラスコーティングされていて、いつも中身には届かない。触れようと強く扱うと怪我してしまいそうだ。」

「それって?」

「お、ま、え。」

「わたしのこと?」

「ああ。」

「ねえ、キスして。」

「いくらEDでもな、俺だって男なんだぞ。」

「じゃー、今だけ、男になってもいいよ。」

「絶対に目は閉じるなよ。」

そう言うと男の唇も指先もだんだん饒舌になっていった。

 結局、やはり、EDのままだったが、わたしのすべてが深く満たされた。

「ガラスの中の本当のおまえに触れることができたら、本当に男になれる気がする。あの時、おまえに声をかけたのも、もしかしたら、お前なら、って思ったからだし。」

「ありがとう。」

 

 あれから何年経ったのか。

あの後、同じように数回会った。いつもなにかがおわって、はじまる時だった気もする。

「ねえ、キスして。」

「目は閉じるなよ。」

小さく笑った。

「あと、おまえの中にいるそいつのことは、今だけ忘れろ。」

「はじまりだよね?」

「馬鹿、こんな時くらい、素直になれって!」

「うん。」

「たまにはそっちからこいよ。」

そう言って男が笑ったら、泣きたくなった。

あの夜、壁に掛かっていた絵画のような月が出ていた。まるで、絵の中から盗んで貼りつけたような月だった。

ぎこちなく、わたしからキスしたら男はちょっと照れて、笑った。

三日月くらいがちょうどいい。そう思った。

「わたし、ずるいよね?」

「心配するな、俺もずるいから。」

そんな男を愛しいと思った。

今夜は、本物のおまえに会える気がする。」

「ん。それって。」

「もし、そうなら。」

まだ、触れられていないのにビクンとした。

「なんか、キュンってした。」

「おまえって、子宮で考える女の典型みたいだよな。」

「初めての女って忘れない?」

「さあ?」

いつもより強く抱きしめられる。

「素直になれよ。」

「うん。」

「おまえ、好きな奴としかしない主義だろ?無理するなよ。」

「うん。ごめん。」

「謝るなって。」

「ごめん。」

「馬鹿、もうなにも言うな。」

「ごめん。」

「しょうがないな。じゃーしばらく月の存在理由でも考えておけ。そのうち、なにも考えられないようにしてやるよ。」

まるで蛹の中にいるように男に包まれる。

「やっぱり、欲しい。」

男の心音がちょっぴり強くなった気がした。

 窓から覗く月がゆっくり欠けてゆく。そうだ、今夜は月蝕。どんなこともありえる夜なのだ。

いつもより強く抱きしめられた気がする。

あと少しで月がなくなる。あと少しで…。

 

 

ひとりいる母は晩秋柚子の実をもぎとりあかりのひとつとするなり

「エンディングノート」とともに「ざんねんないきもの事典」を買ったと母が

「エンディングノート」は不思議な白色の強さを放って此処に

「ざんねんないきもの事典」があたためた一度程度の母の身のうち

ざんねんないきものであるわたくしは母を残して家へ家へと

詭弁にてほろほろこぼれる針葉の樹木ようにいつかなりたし

自己弁護重ねたあなたの頭上にははつゆき、たぶん、これははつゆき

よく吠える犬とよく似て満月の夜は遠吠えつづけるあなた

ゆきずりの誰かにそっと話したいずっとゆうやけ見てないことなど

さみしさの溶解度あり繊月が白すぎてもう狂ってしまう

鬼なれば鬼の矜持のあるはずを 寺に置かれた鬼首の骨
生きものを眠らすような冬支度バイクにほどこすあなたと歩く
境内に結界ありて踏み込めば踏み込むほどに冷えゆくからだ
手水場で流れゆきたる邪もわれの一部とじっと見つめる
ふとなにか呼ばれたような心地してふらふらと行く戸隠神社
やわらかく肯定されたい初冬の線刻石のひかり幽し
生き残り頭脳ゲームの色玉のひとつひとつを指でさわれば
どこまでを日常とする 知らぬまに水べりばかり求めてやまぬ
慰霊碑はひっそりありてダム湖にはやや薄情な水面が光る
再起動よぎなくされたパソコンの働く音はしずかに昏し