前回の記事で私は

 

①二次創作は、しばしば同人作品と

 同一のものとして語られがちだが、

 

②実際には

 映画やアニメ、ゲームといった

 派生作品全般を示すものであり、

 

③それらは一次創作(原作)なしに

 成立することは不可能である。

 

④それゆえに各エピソード、

 つまり歴史を共有していて

 

⑤エピソードおよびそれらを通した

 人物描写と矛盾する内容は書けない

 

といったことを主張しました。

 

 

 

この「歴史の共有」というのは

非常に重要なポイントなのですが、

 

あまりにも当然すぎて

気づかれていないことが

クリエイターの間でもありがち

になっていると言えるでしょう。

 

 

例えば、

ガンダムの宇宙世紀シリーズなどは

歴史の共有の典型例なんですよね。

 

あれなんかは

ジオン・ズム・ダイクンが

何年に暗殺されて、その数年後に

ジオン公国が誕生して、地球との間で

いざこざがあって、コロニー落としがあって

 

と、細々としたエピソードが年表のように

時系列順に列挙できるわけです。

 

Z(ゼータ)、ZZ(ダブルゼータ)

逆襲のシャア等の派生作品は全て、

ファーストの描写と矛盾しないように

過去から未来へと続くように作られています。

 

 

 

 

中学の歴史教科書が

現代までに至る全ての人物と事件を

網羅していないように、

 

しばしば原作は

主人公を軸にして語るために

描写から外れる箇所が生まれてきます。

 

優れた二次創作は

歴史の影に埋もれた人々に

スポットライトを当てていて、

 

それはある意味、

キャラクターや世界観を理解するための

最高の資料として活用することが出来る

のですね。

 

 

 

このように、

二次創作という作品の完成度を高めるには

いかに原作を研究した上で、

オリジナル要素を付加出来るか

にかかっているのですが、

 

これが最も上手く成功した映画として

『帰ってきたドラえもん』を挙げる

ことが出来るでしょう。

 

 

 

この映画は原作(コミックス)

のエピソードを映画化したもので、

 

ドラえもんが帰った後の世界で、

たちの悪い嘘をつかれたことに

怒ったのび太が復讐するのが

大筋の内容なのですが

 

 

 

 

原作では

仕返しをしてしばらく経ってから

真顔に戻って、虚しさを感じた

のに対して、

 

映画では

犬に噛まれるスネ夫や

母ちゃんに殴られるジャイアンの

姿を見て、いたたまれない気持ちになり、

途中でやめて、二人を許すんですね。

 

 

これは原作には無い改変ですが、

「報復の虚しさ」を表現するには

この上ない描写だったと思います。

 

 

同時に、

悪いことをした人間には

何をやっても許されるのかという

大きな問いを子どもたちに投げかけた

のではないかと感じます。

 

 

 

 

原作のジャイアンたちは

懲らしめられて、そのまま退場する

のですが、

 

映画ではラストで

のび太に謝りに行くんですよね。

 

 

(公務員は問答無用で罰した後に

 この言い草である。自分だけ特別扱い)

 

許すという行為に対して

謝るという行為で応える。

 

大人でさえ、なかなか難しい

尊い行いだと私は思うんですよね。

 

現実では開き直ったり

屁理屈を捏ねて認めようとしない

人間が肩で風を切って歩いている

のが当たり前の世の中であるだけに、

 

子供のうちに

こういうメッセージを受け取ることは

とても大事なことだと思えてなりません。

 

 

 

ラストを改変した映画『ミスト』が

原作者のスティーブン・キングに

絶賛されたように、

 

作者以上に原作を理解した二次創作は

メッセージをより深く押し出せる

表現を生み出すことが出来るのですね。

 

そこが二次創作の持つ可能性であり、

醍醐味であると私は考えます。

 

ですから、二次創作というのは

ただの続編や番外編ではなくて、

 

作品をより良く理解するために行う

作者と読者(映画監督や作家などの

クリエイターも含む)の共同作業なんですね。

 

ここでは対話が展開されているわけです。

 

 

(必要以上に自分の顔を出したがったり

 意味もなく腕組みをしているのも

 怪しい本の特徴だ!)

 

 

ダメな本を見抜くコツの中に

「正しい」とか「真実」という言葉を

タイトルに使っているかどうか

というのがあるんですけど、

 

例えば、2かける2が4だってことを

わざわざ「正しい九九の答え」とか

「九九の真実」とか私達は言わない

じゃないですか。

 

当たり前すぎて。

 

 

このように、一般人は知らなくても

専門家の中では常識の知識って

普通、真実とか正しいなんて言葉で

装飾しないんですよ。

 

大したことを言ってないのだから。

 

 

(復活してないんだよなぁ・・・

 こいつが安倍政権のブレーンだったという

 衝撃の事実)

 

 

人間が全知全能の神でない以上、

 

俺の言うことさえ聞けば

バラ色の未来が待ってるでー!

 

という話はありえないんですよね。

 

 

絶対に売れるゲームの作り方とか

絶対に勝てる株の買い方といったものが

あれば、真似すればいいんだけど、

 

現実では

予知能力でもない限り必ずとか

絶対なんて保証は誰にも出来ないんですよ。

 

だからこそ、

Aという意見に対して耳を傾け、

それを参考にBという意見を作る

営みが必要になってくるわけです。

 

100%の正解は作れないけど、

その精度を上げることは出来る。

 

そのためには

先人に敬意を持ちながら

彼らを超えるよう奮闘する。

 

自分の意見は自分だけでなく

全員で作っていく。

 

そういう他者との対話をしながら

オリジナルの意見というのは

徐々に作られていくのですが、

 

学問だけでなく創作でも

同じことは言えるのではないか

と思います。

 

 

以上をまとめると

 

二次創作というのは

ある種の作品理解の在り方であり、

それは作者と読者との間の対話なんだ

 

ということが言えるはずです。

 

原作で描かれた世界観をより深めるために

あると言い換えることも出来るでしょう。

 

では、こうした対話は

メディアミックスにおいては

果たして存在するのかどうか?

 

この点についても留意しながら、

次回、いよいよメディアミックスの本質

について語っていきたいと思います。

 

〜つづく〜