最近の緩和ケアは治療の合間合間に取り入れ、患者のQOLの維持、治療に励もうとする意欲増大というファンクションを追加し、そのような趣旨の説明会も頻回に開催されている。しかし緩和ケアとは元来、治療を行う術のない患者から痛みや苦痛を取り除き、スムースに「あの世」にソフトランディングさせてあげることが最大の目的だった。このソフトランディングこそ、緩和ケアの腕の見せ所であり、だからこそヒューマニズムに満ちた医師や経験の深い看護師を大勢必要とする大切な現場なのである。

昨年、私と仲の良かった知り合いが2人、肺がんで亡くなった。2人ともいわゆる拠点病院の入院病棟に緊急搬送され、うち1人は面会謝絶状態のまま亡くなり、他の1人は入院病棟で「抗がん剤を」と訴えながら、痛みの中で亡くなったと訊いている。この時、呼吸器内科の医師は茫然として、ただただ見守っていただけという。つまり2人とも緩和ケアの恩恵を全く受けずに、苦しみを乗り越えねばならなかったのだ。しかし何故このようなことがことになってしまったのか?結論から言えば組織の関係や医師の考えなどから、治療の合間合間で緩和ケアを上手に取り入れて、治療と痛みをコントロールしていくのが難しいうえ、両者の旗振りが居ない(患者では厳しい)からだ。組織的にもそのような動き方がフォローされていない。

次に緩和ケアが仮に死を選択する場所ということであっても、万人に平等に訪れる死に対して、我々の死への意識というものがしっかりしていれば、決して死を忌み嫌ったりはしないはずである。がんの末期であれば、苦しみから解放される為に、すすんで緩和ケアの病棟を訪ねるはずである。しかし我が国は宗教後進国であり、死生観などについて教育しないこの国の課題でもあるのだが、死が極めて非日常であるというコンセプトが広がっている。

そこで冒頭に述べた前段のような意味合いも置き、何とかイメチェンを図ろうとしているのだ。しかしここで言っていることは。多くの病院では受け入れられていない。治療の合間でとはいうものの、実際には緩和ケア病棟入院中は抗がん剤の服用さえ許されないのだ。そのような環境下で、本来は理想である両立の治療などできるはずがない。同じ病院内に呼吸器内科と緩和ケア病棟が2本立てで完備しているとしても、縦割りの激しい病院も多く、呼吸器内科との実質的な連携など、どう考えてもうまくできるとは思えない。特に拠点病院は激しい縦割り社会になっている。

歪んだコンセプトも登場し始めた。ある拠点病院では自力でトイレに行けないこと(または寝たきり)が緩和ケア病棟入院の目安になるという。また(意味不明なのだが)最長50日で退院することも、原則入院時の前提となっているのだ。寝たきりの人が緩和病棟に入院し、50日目に退院してくるということは何を意味しているのだろう。このように緩和ケア病棟が何を目指そうとしているのか、ますます分かりにくくなってきた。