ロシア極東の朝鮮人 その2 2023/12/23 | プルサンの部屋(経済・世界情勢・株・通貨などを語るブログ)

ロシア極東の朝鮮人 その2 2023/12/23
2. 農業集団化
(1)農業集団化と朝鮮人  
1920年代の終わりには、依然として発展途上にあった農業の改革が、ソ連にとって大きな課題となっていた。
27年12月に開かれた第15回党大 会は「農民のさらなる協同組合化を基に、零細農家を大規模な生産(農業の集約化と機械化に基づいた集団的土地利用)へ漸次的に転換」させることを宣言し 、これをきっかけに 農業集団化は本格的な幕を開ける。
さらに29年11月の党中央委員会総会後、ソ連全土で全面的集団化が開始され、極東もその嵐のなかに巻き込まれていっ た。
その大多数が貧しい農民であった朝鮮人たちにとって、農業集団化は大きな意味を持っていた。
1930年9月、地元紙『太平洋の星』に掲載された 「朝鮮人問題の徹底的解決」と題する論文は、朝鮮人の集団化の特徴を次のように論じている。
「朝鮮人の農業の経済的遅れと組織化されていない分断状態を抜本的に変える手段となるの は、貧農・中農大衆の集団化である。朝鮮人の集団化は、さまざまな民族的特質や、民族間関係から生ずる一連の要因によって、必然的に困難なものとなってい る。これらの特質は、依然として強いクラークの貧農・中農大衆への影響力、朝鮮人の農村はクラーク的・搾取的分子を排出しない純粋な社会的集団であるとい う偽りの論理、朝鮮人の農業の大幅な文化的遅れ、政権やロシア人全体に対する民族的不信、そして日常的・宗教的偏見に見られる」。
ここでは、朝鮮人のなかにクラークが存在しないと考えるのは「偽りの論理」であると述べられている。
確かに、なかには同胞を雇う朝鮮人地主もいた。
しかし朝鮮人の多くは貧農階級に属しており、その彼らが集団的土地所有に与えられた特権を利用して、土地を得ようとしたのは当然であった 。
とはいえ朝鮮人に とっても、集団化はすべて自由意志のもとに行われたわけではなかった。この論文ではさらに次のように述べられている。  
「集団化の過去の実践においては、これらの特質は多くの党機関によってあっさりと忘れられ、 必要な警戒も注意も払われなかった。命令的指導、強制、コルホーズの最も単純な形式の省略、巨大マニア、全面的集団化と無関係なクラーク撲滅、純粋な朝鮮 人コルホーズの創設の禁止、個人農の軽視ムこれら周知の逸脱が、とくに朝鮮人地区(ポシエット、スーチャン、ポクロフカ、ハンカ)で見られたのである」 。
全面的集団化の時期に犯された「逸脱」について、ペレペチコ極東地方党委員会責任書記は次のように述べている。  
「ハンカ地区のいくつかの朝鮮人村では、次のような宣伝が行われた。お前たちには三つの道が ある。中国に逃れるムあちらでは飢餓と屈辱、隷属が待っている。この道は塞がっている。第二の道は、シンダ地区への移住だ。そこには住居も食糧もなく、ブ ヨとあらゆる病気が待っている。この道も塞がっている。残るのは唯一、第三の道のみだ。これはコミューンだ。そこでは問題なく暮らしていくことができる」 。
また、朝鮮人の側にロシア人不信があったのは無理もないことであった。
ロシア人が朝鮮人農民に対して強い偏見を持っていたからである。
「東洋人農 民の大多数(雇農、貧農、中農)は今だに非常に後れているので、彼らの集団化などは話にもならない」。
「朝鮮人農民は労働生産性が低く、コルホーズをめちゃくちゃにするだけだ」。
このような偏見に基づく差別は、朝鮮人が集団化を拒否したり、コルホーズを脱退する原因となった。
1930年8月、ニコリスク・ウスリースクで、極東地方朝鮮人コルホーズ員大会が開催された。この大会には、56のコルホーズから67の代表が参 加した。
大会では、ペトロフ極東地方コルホーズ同盟理事が「朝鮮人コルホーズの状態とその当面の課題」という報告を行った。それによれば、アムール、ニコ ラエフスク両管区を除く極東地方には、7500世帯からなる89の朝鮮人コルホーズがあり、全体の30%が米作コルホーズであった。

朝鮮人代表の多くは、朝鮮人コルホーズへの差別問題をとりあげた。以下は、ウラジオストク管区の代表の発言である。
ハンカ地区の「星」コルホーズは、トラクターはもとより種蒔機を一台も持っていない。それなのに「星」コルホーズよりも遅く結成された隣のより小 規模なコルホーズは、あらゆる機械類を持っている。ウラジオストク管区のコルホーズに分配されたトラクターは全部で300台だが、管区の全コルホーズの4 分の3を占める朝鮮人コルホーズが持っているのはたった4台である。
チェルニゴフカ地区では土地整理員が故意に、ある朝鮮人コルホーズの土地にまったく役に立たない丘と沼を割り当てた。「赤い農夫」コルホーズは、 極東国立大学の管轄下にある土地を借りているが、石が多く、プラウでも耕せないような土地である。
それなのに大学側は、1ヘクタールあたり60ルーブルの 賃貸料を巻き上げている。
このような発言を背景に、朝鮮人コルホーズ員大会は「朝鮮人コルホーズに十分な配慮を払わない地区コルホーズ同盟の一部が持っている排外主義的傾 向と、容赦なく闘わねばならない」と宣言した 。
ここで当時、地元紙にさかんに掲載された朝鮮人への差別問題を、さらに具体的にとりあげてみよう。
朝鮮人からなるスーチャン地区のスターリン名称コルホーズには、五つのばらばらの分与地が割り当てられたが、そのうち四つはスーチャン川の対岸に あり、コルホーズ員たちは川をボートで越えていかなければならなかった。
しかも二つの分与地は水害に見舞われていたため、コルホーズはこのような措置に抗 議した。しかし地区の土地整理員は「ロシア人個人農がそう望んでいるのだ」と説明し、また水害にあった土地は「ヒエなど丈夫な作物を植える朝鮮人に割り当てるのが妥当だ」と公言してはばからなかった 。
一方、スイフン地区のコルホーズ「第三インターナショナル」はロシア人66人、朝鮮人89人からなり、「スイフン渓谷」は27世帯中、11世帯が 朝鮮人であった。
これらのコルホーズで朝鮮人は苦労して米を作っていたが、
ロシア人からは
「朝鮮人は怠け者だ」
「朝鮮人は働くこともできないし、働こうともしない」
と言われ続けていた。

「第三インターナショナル」では、小麦や砂糖などの配分は朝鮮人に極めて不利であった。
コルホーズ管理部には朝鮮人は一人しかおらず、しかも食糧 の分配などに関する決定からはいつも除かれていた。
1930年の夏には、配給を受けられなかったことを理由に、朝鮮人9世帯がコルホーズを脱退した。
また「スイフン渓谷」では、あるコルホーズ員が朝鮮人にロシア人と同じバケツで水を汲むことを禁じたり、集会で二人の朝鮮人を強制的にコルホーズ から脱退させる決定が下されたりした。
「スイフン渓谷」のある朝鮮人コルホーズ員は、次のように訴えている。  
「我がコルホーズの管理部はロシア人だけからなっているため、朝鮮人をいつも抑圧している。 たとえば食糧分配の時でも、ロシア人には良いものを与え、朝鮮人には悪いものを与えている。ソバの分配でも同じだ。私の家族は6人だが、5人分しかもらっ ていない。我々が幾度となく苦情を述べても管理部は無視している」。

このような状況を目にした朝鮮人の個人農たちは、コルホーズで暮らすのも悪くないが、ロシア人がいないことが条件だと述べている 。
1920年代末に至っても多くが土地を持たなかった朝鮮人農民は、集団化によって結果的にその経済状態が向上した。
しかし朝鮮人の集団化においても、ほかの民族と同様に、さまざまな強制的手段が用いられた。
それに耐えかねて、国外へ逃れる朝鮮人も続出した。
一方、集団化を受け入れた朝鮮人農民にも、困難が待ち受けていた。彼らはロシア人のいるコルホーズでは必ずしも歓迎されず、さらに全面的集団化期には朝鮮 人のコルホーズ運動そのものが、あからさまな差別を受けたのである。

 (2)党の民族政策と差別解消への努力
1930年5月に開催された第10回極東地方党協議会でペレペチコは、依然として東洋人労働者に対する態度には目に余るものがあり、大国主義的排 外主義 ォвеликодержавный шо-винизмサは党および労働組合組織からの反撃にあっていないと指摘し、これらの階級敵による排外主義的攻撃と闘うには、教育的措置と並んで、最 も厳格な懲罰措置をとる必要があると述べている (57) 。
また極東地方党委員会ビューローは同年12月1日、民族政策に関する決議を採択し、東洋人労働者のあいだの活動状況について話し合うこと、通訳を つけることによって彼らを党集会に積極的に参加させること、東洋人の党員を増やすことなどを各管区、市、地区の党委員会に命じている。また民族間の不平等 な労働条件の是正、食糧の正しい分配の点検などが、しかるべき機関に義務づけられている 。
しかし30年12月10日付の『プラウダ』は「聞き入れられない警告」と題した記事のなかで、以前同紙が「極東において党の民族政策をあからさま に歪曲した事例」について警告したにもかかわらず、実際には改善が見られないとして、極東地方党委員会を批判している 。
極東地方党委員会ビューローの決議は、1930年6月に行われた第16回党大会の決定に基づいて出されたものであった。
この党大会は大国主義的排 外主義との闘争を掲げ、レーニン的民族政策の実行、民族的不平等要因の除去、ソ連邦諸民族の文化の大いなる発展への注意を強化するようすべての党組織に命 じていた 。
このような「大ロシア主義」との闘いは、すでにソ連邦結成当時から党の最重要課題の一つとして掲げられていた。
しかし、極東の朝鮮人との関連にお いてそれが盛んに論じられるようになったのは、地方紙を見る限りでは、30年代初頭になってからのことである。
1931年2月には、極東地方党委員会・統制委員会合同総会が、民族問題に関する決議を発表した。
決議は、大国主義的排外主義の清算のためには、 労働者の国際主義教育を強化するとともに、排外主義者に対する裁判・懲罰措置を強化・拡大しなければならないとして、厳しい態度で臨むようすべての党組織 に求めている。
また朝鮮人の集団化については「朝鮮人貧農・中農の集団化は非常に大きな意味を持っており、コルホーズ同盟、機械トラクター・ステーション そのほかすべての組織は、朝鮮人コルホーズに対する融資、機械・技術および種子の援助にとくに注意を払わなければならない」と述べられている 。
また中央では、ソ連邦コルホーズ・ツェントル管理部が1931年4月、極東地方における朝鮮人の集団化について報告を受け「朝鮮人の集団化の著し い発展、米・工芸作物作付面積の増加、コルホーズ大衆の積極性の高揚を確認」した。
しかしそれと同時に管理部は、朝鮮人のコルホーズ建設において「多くの 最も深刻な欠陥と過ち」が犯されたこと、極東の地区組織が朝鮮人コルホーズに「配慮と援助をまったくしなかった」ことを指摘している。
そのため管理部は「地区組織職員の大国主義的排外主義」に対し「断固とした措置をとらなかった」極東地方コルホーズ同盟を戒告処分にするととも に、春蒔きの時期までに朝鮮人コルホーズに土地を与えること、ウラジオストク管区土地管理局の責任者を告訴すること、また同盟の管理部に2人以上の朝鮮人 を加えることを命じた。
さらに「朝鮮人住民が多数を占める地区でコルホーズ機構の朝鮮化 《корейзация》を行い、ポシエット、スイフン、スーチャン、ポクロフカ、グロデコヴォ、オリガ、シュコトヴォ、ハンカの各地区では、地区コル ホーズ同盟管理部の議長あるいは副議長に朝鮮人を選出しなければならない」とも述べられている 。
このように極東の少数民族、とくに朝鮮人や中国人に対する差別問題がしきりにとりあげられたのはなぜだろうか。

まず第一には、政治的理由があげられる。
極東での民族問題の解決は「隣接する国家ム中国および朝鮮ムにおける革命運動の発展に極めて重要な役割を 果たす」と考えられていたのである 。
たとえば、前出のポシェット地区党書記アファナーシー・キムは、ソ連が国境を接している中国と朝鮮の多民族からなる人々は、目下世界唯一のプロレタリアート祖国としてソ連を見ているのだから、中国人や朝鮮人に対する差別的傾向はよりいっそう危険なものである、と指摘している 。
また931年2月に開催された極東地方教師大会では「教育問題における党の民族政策について」という報告のなかで、「民族問題における我々の成功一つ一つが、外国帝国主 義への大いなる脅威」であり、それが「国外に住む中国と朝鮮の労働者に革命的影響を強く及ぼしており、彼らを資本との闘いに動員している」と述べられている。
ここでいう「外国帝国主義」には、当然日本も含まれるのであろう。ロシア極東における諸民族の共存が宣伝される背景には、朝鮮を植民地化し満州の 占領をもくろみ、朝鮮人と中国人を抑圧する日本の政策の不当性をアピールする意図があったものと思われる。
党が差別解消にのりだした背景として次に考えられるのは、経済的理由である。
「東洋人労働者」と呼ばれた朝鮮人と中国人は、極東経済に重要な位置を占めており、地域の発展のためにはその労働力の利用が不可欠であった。
クーリペ極東地方党統制委員会議長は委員会報告のなかで「朝鮮人は我々の地方の経済に大きな役割を果たしている。彼らは我々の米作農民である」と 述べているが、集団化のさいの過ちがゆっくりとしか修正されないため、朝鮮人のあいだで国外への移住傾向が見られるとし、また「ロシア人は朝鮮人に対して しばしばひどい態度をとっている」と非難している。
さらに、ウラジオストク管区では全労働者の31.5%(鉱業の53.1%、林業の37%、化学工業の 39%)が中国人によって占められていると指摘している。
労働の現場で発生した深刻な差別が、人手不足を引き起こすこともあった。
たとえば、アルチョム炭坑では1240人の東洋人労働者が働いていたが、 給料のごまかしや辛い仕事しか与えられないことなどが原因で退職者が続出し、坑夫全体に占める東洋人の割合は30年1月には50%であったが、1年間で 12%に激減した 。
また沿海州のイヴァノフカ木材調達企業では、ロシア人労働者はバラックに住んでいたが、中国人と朝鮮人は洪水で破壊された劣悪な住居に押し込まれ、給与未 払いに苦しめられていた。そのため400人いた東洋人労働者のうち残ったのは38名だけであった 。
このような政治的・経済的必要から、中央の意向に従いつつ、極東地方当局は積極的な反差別キャンペーンを展開した。
遅ればせながら排外主義の根絶 にのりだした党の対応は、朝鮮人の不満をある程度吸収したであろう。30年代もなかばにさしかかると、紙上での差別摘発は姿を消した。ただし、これが実際 の差別の解消を意味しているのかは定かではない。


3. 1930年代の朝鮮人政策
(1)移民の流入と国境保全をめぐる議論
20年代なかばから30年代はじめにかけて、朝鮮人移民の是非について、さまざまな議論が交わされている。
ある論者は、朝鮮人は勤勉な農民であり、朝鮮人たちが極東の経済発展に寄与するならば、地元民の利益と極東の植民計画を犠牲にしない限り受け入れ るべきであると考えていた。
しかし彼はまた、以下のように警告を発している。
「外国人が過剰に住み着くことは、自らの領土内で彼らを客人として温かく受け入れる国に、 時には脅威を与えるというのは周知の事実である。大量の移民は、いやおうなしに敵対的国々の陰謀の道具となり、そして帝国主義的強奪の道具の一つとなるが ために、危険なのである。だからこそ我が地方の党組織は、外国人による植民措置の政治的意味を理解しなければならない」 。
なかには、朝鮮からの移民は日本の植民地政策の一環として組織的に行われており、このままでは極東が日本に併合されかねないと危惧する者もいた 。
他方、朝鮮人移民のマイナス面だけを強調するあからさまな黄禍論者もいた。
1930年、ベリデニノフという人物が小冊子『極東地方における米作 ム数字、事実および観察』を出版しているが、この本の内容は、彼を酷評したクルチェーエフの書評を通して知ることができる。  
「ベリデニノフの著書は『黄色い危険』という陰険な考えがすべて基調になっている。『米作は朝鮮人の流入を促 進する』とか『平和的な侵略者の膨大な一群』が沿海州の南部に押し寄せてくる……などと指摘しつつ、著者は、朝鮮人移民がポシエット地区から組織的にロシア人を『追い出し』『排除』するという情景を描き出している。それらの朝鮮人は『閉鎖的で』『ロシア人女性と結婚せず』、そして(おお、ひどい!)国境地 域を『ソビエト朝鮮』に変えてしまったというのだ」(強調は原文)。
ベリデニノフは、ロシア人が「国は朝鮮人に甘い」と考えていて、朝鮮人に対して「隠された敵意」を抱いていると述べ、「誰のためにこれらすべての 広大な米作農場と巨大な潅漑設備が造られているのか。それには国民の多額の金が費されているのだ」。
「米作をロシア人大衆が修得しないうちは、水田面積を 増やせばそれは平和的な侵略者ム朝鮮からの米作農民ムの流入を増大させるだけだ」などと書いている。
そしてこの本は「我々がもし、米作の成功が[極東]地方とソ連に実際に利益をもたらすことを望むのならば……我々の巨大な農場と強力な潅漑設備が、おも にロシア人労働者によって建設され、利用されるようにしなければならない」という結論で締めくくられていた。
クルチェーエフは、このような「民族問題における偏向」と徹底的に闘わなければならない、と警鐘を鳴らしている。
「あたかもロシア人が朝鮮人に敵意を抱いているかのような主張は、貧農・中農大衆に対する中 傷である。農村のクラーク・富裕農上層部が朝鮮人に好意を持っ ていないことは我々も否定しないが、それは階級的対立の結果なのである! 著者自身が言っているように、朝鮮人に不満を抱いているのは余分な土地を奪われ てしまった人々であり、したがって農民階級全体ではない」(強調は原文)。
クルチェーエフは、日本の帝国主義者と朝鮮の地主に追われ、金も農具も持たず極東にやって来た朝鮮人はプロレタリアートであり、彼らはそこに第二 の祖国を見い出している。
したがって民族平等を掲げ、全世界のプロレタリアートに一定の責任を負うべきソ連は、朝鮮人移民を受け入れないわけにはいかない と述べている 。
確かにソビエトの国家理念からすれば、日本に抑圧された朝鮮人が、労働と安息の場を求めてロシア極東に移住して来るのを拒絶はできないはずであっ た。
しかし現実には、当局の政策は移住を制限する方向へと着実に向かっていた。

(2)移民制限と北方への移住政策
1925年に北京で結ばれた日ソ基本条約は、両国関係を一時的に好転させた。リトヴィノフ外務人民委員は「北京条約の締結以来、1931年末に至 るまで、我々と日本とのあいだには最良の友好的関係が存在しており……我々は日本に対して非常に信頼を持って接し、極東の国境をほとんど防衛していなかっ た」と述べている 。
しかし朝鮮人の流入に関しては、すでにそれ以前から懸念が表明されていた。
チチェーリン外務人民委員が主宰した同人民委員部の審議会は1926年1月「中国人と朝鮮人のソ連領への流入を阻止するため、あらゆる可能な措置 をとる」ことを決定した。
審議会は、中国人と朝鮮人の極東への入植を「非常に危険」であると見なし、「まず第一に内陸諸県からの植民を行うことが不可欠」 であり、「朝鮮人の移住の調整は別個に問題にしなければならない」としていた。
一方、地元では1929年8月、朝鮮人移民の問題を検討した極東地方執行委員会幹部会が「地方への外国籍朝鮮人の無断流入、および彼らによる土地 と国家財産の勝手な占拠との闘いを強化する」ことが必要であるとの決定を下した。それに基づいて、ハンカ湖から豆満江河口に至る国境地帯の警備強化、違法 入国した朝鮮人を追放するための合同国家政治保安部の権限拡大、外国籍朝鮮人の北方への移住などの一連の具体策がとられることになった 。
極東地方への朝鮮人の移住を制限した最初の措置は、1929年10月18日の規則である。当局は、これによって朝鮮人の入国を親戚訪問、恒常的商 業活動、農業移民に限り、またすでに入国している朝鮮人については、その在留資格の合法性を審査することにした。しかしこの規則は30年には適用されな かった。
そののち極東地方執行委員会は1931年9月10日、朝鮮人労働者に対し、以後は当局が特別に募集した者のみに入国を許すことを決定した。
さらに 12月20日には入国目的を親戚訪問と商業活動に限定し、農業移民を禁止した 。
この時期までは、朝鮮人は母国と満州、ソ連を比較的自由に往来していたが、これらの措置によってロシア極東への移住は禁止された。
クージンによれ ば、1932年、外国人の再登録が実施され、その2年後には全住民に国内旅券が発行され、これを機に多くの朝鮮人がソ連国籍を取得した 。
このように移住を制限し朝鮮人の帰化を奨励する一方、20年代なかばから、極東南部の土地なしの朝鮮人を強制的に北方へ移住させる政策が検討され はじめていた。
全ロ中央執行委員会は1926年12月6日、朝鮮人への土地分与について特別な方法を定めた。それは、対朝鮮国境からハバロフスク市までの地域で 今後朝鮮人移民に土地の分与を禁じ、そこに住む土地なしの朝鮮人をハバロフスク管区(ハバロフスク市以北)等へ移住させ、朝鮮人が占有していた土地にロシ ア共和国の他地域からの移民を直ちに入植させるというものであった 。
1927年2月、極東地方執行委員会幹部会は入植地の決定を極東地方土地管理局に命じ、また極東移民局にはソ連欧州部からの移民をウラジオストク 管区に強制的に入植させる計画を立てるよう命じた。調査の結果、入植地としてハバロフスク管区のクル・ダルギ地区とビジャン・ビラ地区、およびアムール管 区のウルミ地区が選ばれた 。
この移住計画はその後何度か変更され、最終的には8万7759人をハバロフスク管区のクル・ダルギ地区とシンダ地区に移すことになった。
1929 年には1229人が移住したが、その後の計画では30年に5000人、31年に約2万人、32年と33年にはそれぞれ3万人前後を移住させるものと決めら れた 。
しかし、1930年12月28日付の極東地方執行委員会幹部会議事録によれば、10月1日現在、「強制的な方法」による者431人を含め、30年に移住したのは1342人にすぎなかった。
執行委幹部会はこの移住計画が失敗 した原因について、移民局や極東の諸官庁を非難しているが、なかでも「出発地の地区ソビエトおよび経済組織が、執行委の移住に関する諸指令を速やかに理解 させるための断固とした措置をとらず……反対にあからさまな抵抗を許し」たからだと指摘している。その結果この抵抗は「旧ウラジオストク管区における大衆 的現象となった」。これは、当局の移住政策に対してかなり大規模な反対運動があったことを暗示している。 
このような状況を打開するため、執行委幹部会は以下のことを決定した。
出発地のすべての地区執行委員会は、朝鮮人の移住の政治的・経済的重要性と必要性について、またソビエト・経済組織とそれらの指導者およ びすべてのソビエト活動分子が、時宜をえて移住計画を完全に遂行する責任を負うことについて、広範な説明を速やかに行うこと。
朝鮮人およびロ シア人のソビエト活動家の一部に見られる移住に対する否定的な態度を、速やかに、完全に変えさせること。
そのさい、朝鮮人の移住に関する執行委の指令に従わず、実際にそれを遂行しようとしないすべての組織の指導者およびその活動家は、解雇、告訴も厭わない。
移住に反対するクラークの宣伝と断固として闘い、責任者を明らかにし、その責任を厳しく追及すること。
1931年に移住者の出発が予定されている地区では、朝鮮人移住者に対する土地の賃貸を完全に停止すること。
それらの地区では、米作、漁 労、林業を含むすべての経済組織および協同組合組織に対し、31年に移住することになっている土地なしの朝鮮人農家から、自己の生産現場で朝鮮人労働者を 雇用することを厳禁すること。
旧ウラジオストク管区の領域にあるすべての地区執行委員会に対し、土地なしの朝鮮人農家によって組織されたコルホーズに勤労利用のため土 地を提供することを直ちに停止し、また古参農民のコルホーズで土地なしの朝鮮人農家を受け入れ、彼らに勤労利用のため土地を提供することを止めるよう命ずる。
[極東]地方国民教育部および「出版事業部 《Книжное Дело》」は、シンダ地区、クル・ダルギ地区の住みやすさをわかりやすく説明した朝鮮語パンフレットを早急に発行すること。
『先鋒』 紙 (80) に、すでにこれらの地区に定住した朝鮮人移民の手紙、記事、彼らとの対話を定期的に掲載すること。
移住させる[朝鮮人]大衆に対して、移住の対象になって いる朝鮮人が古参農民のコルホーズへ入っても、移住義務は免除されないということを広く説明すること。
また、朝鮮人が「解放」した土地にはソ連欧州部からの移民を直ちに入植させること、朝鮮人による新たな定住を防ぐためロシア人移民の入植計画を立 てることが命じられていたほか、移住先での土地や住宅の準備、その他の必要な対策が細かく指示されていた。
以上から明らかなように、この移住計画は土地なしの朝鮮人を対象とし、彼らの生活手段を奪うことによって、計画に従うことを強いたものであった。
土地なしの朝鮮人農民は、小作や賃労働を禁じられたばかりか、コルホーズを組織しても土地の提供を拒否された。
朝鮮人を移住させたのは、彼らの土地問題を解決するためでもあった。しかし幹部会は、それが「大きな政治的意味」を持っていることを繰り返し強調 している。
事実「ソビエト政権に完全な忠誠と自らの献身を表明した者」は、この移住から除外された 。
朝鮮人が立ち退いたあとには、ソ連欧州部からの移民を入植させ、朝鮮人移民の新たな流 入を防ぐよう命じていることからもわかるように、朝鮮人の移住は沿海州の土地不足が主要な原因ではなく、むしろ国境沿いの地域をロシア人で堅めるために行 われたのであった。
幹部会は移住計画が抵抗にあったことを認めているが、朝鮮人たちが移住を拒んだのは無理もなかった。
移住先は農業に適さない寒冷地で、生活環境も 劣悪だったのである。
朝鮮人の主要な作物である米は、ハバロフスク以北では育たなかった。

住宅が不足し、狭い家屋に5、6家族が押し込まれた。
また不十分 な医療サービスのため、子供の死亡率が上がっていた。このような条件下で移住させられた人々は、自らを流刑囚のように感じていたという 。
1927年に開催された第2回極東地方ソビエト大会では、すでに北方への移住問題が朝鮮人代議員によってとりあげられているが、彼らはそこで次の ような点を指摘している。
第一に、移住先の環境である。ウラジオストク管区の代議員は、北方に移住して行った朝鮮人がほとんど戻って来ざるをえないのは、与えられた土地が 沼地かうっそうたる森で、道もないようなところだからで、移住させる前にその土地が開拓可能かを考慮すべきだと主張している。
第二に、移住後の待遇である。ハバロフスク管区にはウラジオストク管区の朝鮮人だけでなく、ロシア欧州部からの移民もやって来たが、彼らが土地だ けでなくクレジットや機械類をも支給されているのに、朝鮮人は何も与えられていなかった。ハバロフスク管区の代議員は、朝鮮人も欧州部からの移民と同じ待 遇で扱われるべきだと述べている 。
北方への朝鮮人移住政策がうまくいかなかったのは、政策そのものの奥に潜む差別と条件の悪さが原因だった。
しかしこれが失敗すると今度は強制的手段に訴えることを当局はためらわなかったのである。