語録103 | パーサによるトマスの福音書

パーサによるトマスの福音書

Closing the Circle: Pursah's Gospel of Thomas and a Course in Miracles

「神の使者」、「不死というあなたの現実」で再生された、トマスの福音書について書かれた「Closing the Circle」の和訳です。

野口博和さんから以前頂いてた、和訳をアップしています。

 語録103

Jは言った。「反逆者が攻撃する場所を知っている者は幸いである。彼らは行って、聖なる資源を集め、反逆者がやって来る前に準備することができる」

J said, “Congratulations to those who know where the rebels are going to attack. They can get going, collect their Divine resources, and be prepared before the rebels arrive.”


簡潔にここで言っているのは、いったん、自我がどこからやって来るのか理解すれば、自我の攻撃にいつでも準備していられ、現れるすべての状況に対処するための助けを求めに、どこへ行くべきか(right mind)が分かる、ということである。「反逆者」というのは、明らかに、反逆児たちから成るエゴの寄せ集めの軍隊であり、彼らは 「小さな狂気の考え(分離というエゴの中心的教義に対する、コースのユーモラスな言葉)」を支持することで、天国の平和をかき乱すのである。

 私たちはここで気づくかもしれないが、「一般化 “generalization”」とは、コースが非常に重要な教育/学習原理として、一貫して強調しているもう一つの概念である。それによって、生徒は、ある概念の基本原理を学び、彼自身の人生の特性を背景に、現れるどんな個々の状況にもその原理を活用することができるのである。(例えば、T-12.Ⅴ.6:4W-In.4:2)

 この場合もこれが、イエスが 「わたしについて来なさい。“follow me.”」 と言うときはっきりと意図していたこと、つまり内容において彼について行くことであり、私たちは、奇跡を選ぶようになるにつれて、ますます彼の指示を理解するだろう。
内なる学びとは、特定の環境がすっかり異なる点を除けば、その道の各段階の意味は、彼が示したものと全く同じである、という認識の高まりのなかにある。実際、環境はあまりに違っているので、初めは私たちには理解する糸口が何もない。まるで、私たちには、追想の中でだけその意味が明らかになるかのようである。というのも、私たちは、自我と聖霊の間の選択ができるようになるまで、自分自身の環境に対して完全に盲目でなければならなかったからである。これがまた、彼がコースで、自分は私たちに道を示すことのできる兄である、というイメージによって伝えようとしていることでもある。

(野口博和訳)