語録51 | パーサによるトマスの福音書

パーサによるトマスの福音書

Closing the Circle: Pursah's Gospel of Thomas and a Course in Miracles

「神の使者」、「不死というあなたの現実」で再生された、トマスの福音書について書かれた「Closing the Circle」の和訳です。

野口博和さんから以前頂いてた、和訳をアップしています。

 語録51

弟子たちが彼に言った。「いつ死者に安らぎが起こり、いつ新しい世界がやって来るのでしょうか?」
彼は彼らに言った。「あなたがたが期待しているものはすでに来ているが、あなたがたはそれを知らない」

The disciples said to him, “When will the rest for the dead take place, and when will the new world come?” He said to them, “What you are looking forward to has come, but you don't know it.”


この言葉もまた、おそらく、私たちの旅はすでに終わっているとか、一体からの分離という考えを心に抱いた、あの古き 「恐怖の瞬間 “moment of terror”」 (参照 T-27.Ⅶ.13.3) を追体験することを私たちは選び続けている、
といった考えを始めとした、コースの様々な文章に、とても強く結び付いている。
コースはここで、そのまさに自滅的な選択をやめることができるよう私たちを助けている、残るものが、既にあり、常にあり、常にあるだろうものとなるように。 :

私たちは 「神はある」と言い、そこで話すのをやめる。 なぜならその知識のなかで、言葉は無意味だから。
“We say‘God is,’ and then we cease to speak, for in that knowledge words are meaningless.”(W-169.5:4)

次の節は、このことをさらにはっきりさせている。 :

そのとき、時間は本当に、すべての記憶を超え、思い出すことさえできない、あまりに古い瞬間へとさかのぼる。しかしそれは、何度も何度もさらに何度も繰り返される瞬間のため、今のように見える。こうして、生徒と教師は、まるで初めて出会ったかのように互いを見出し、この現在に一緒になるように見えるのである。生徒は、ふさわしい時、ふさわしい場所にやって来る。これは必然的である、なぜなら、その人は、自分がいま再び体験しているあの古い瞬間に、ふさわしい選択をしたのだから。そのように、教師もまた、古い過去からの必然的な選択をしたのだ。 あらゆるもののうちにある神の意志は、ただその仕上げに時間がかかるように見えるだけである。何が永遠の力を遅らせたりできるだろうか?

Time really, then, goes backward to an instant so ancient that it is beyond all memory, and past even the possibility of remembering. Yet because it is an instant that is relived again and again and still again, it seems to be now. And thus it is that pupil and teacher seem to come together in the present, finding each other as if they had not met before. The pupil comes at the right time to the right place. This is inevitable, because he made the right choice in that ancient instant which he now relives. So has the teacher, too, made an inevitable choice out of an ancient past. God's Will in everything but seems to take time in the working-out. What could delay the power of eternity? (M-2.4)

また私たちは、当時発展段階にあった正説と衝突するのは、このような言明であることに気づくだろう。それらのなかでイエスは、ますます時間と空間の世界のなかの人物として、そして 「再臨」 は、そのとき彼が私たちのために戻り、そのために私たちが備えなければならない未来の出来事として、誤解されていた。これは、エゴの典型的な逆さまの論理であり、エゴは常に、まず問題を立派に作り、現実にし、それから解決策をそれにもたらすことで、問題を解こうと提案する。けれども、コースでのイエスは、問題を解決策にもたらすので、前者は単に消滅する、という実際的な助言を私たちに与えているのである。(例えばT-27.Ⅳ.7:5

(野口博和訳)