SWANSONG TRUE END クリアしました。

以下ネタバレ含む雑感です。





------------------+ネタバレ注意+-------------------



------------------+ネタバレ注意+-------------------





これは本当にTRUE ENDなんだろうか、と疑問に思った。話がブツッと途切れたのだ。

尻切れトンボ…は例えとして言い過ぎだけれど、なんだか物足りない。余韻すらない。

もっと語ってほしいことがあるのに、と思った。

ラストの尼子司と佐々木柚香の問答とか。

佐々木さん、何も喋らなくて不安がこみあげてきたんですよね。

佐々木さん反応がないな、おかしいなと思ってると彼女ってば自暴自棄or発作で死んじゃっててBADENDとか今までザラでしたからね。

もしかしてあのラストシーンで本当に死んじゃってたのかな。


NORMAL ENDのほうがまだ物語としての面白さはあるんじゃなかろうか。

尼子、田能村、あろえ、大戦犯の鍬形が死亡し、描写はないがおそらく雲雀も雪崩で死亡、

主要登場人物のほとんどが亡くなってしまうが、尼子司が見出した絶望への屈しなさや生への喜びが、私は嬉しかった。

空を見上げるだけでいい。

天にむかってほんの少しの抵抗をみせてやれればいい。たとえキリストの像が粉々になっても作り直して天にかかげ、ざまあみろ、人間はまだやれるぞと吠えられればいい。

尼子が死に際に見た青空こそ、彼が初めて知ったピアノ以外の希望だったんだろう。

でも尼子はピアノにも未練を残してしまう、ピアノさえあれば、もっと上手にひければ、この気持ちを表現できるのに。佐々木の絶望さえ打ち砕けるのに。

そんな一縷の望みでさえ、ねちっこくて泥臭くて私は好きだった。


TRUE END でも街はまた地震に襲われ、大規模な雪崩により形を大きく変えてしまう。

でも、誰も狂気にむしばまれない。

誰も殺し合わないし、死に急がない。

生き残った人々は身を寄せ合い、花を植えて自活しようという小さな希望を見出す。

エンドロールでは、街を埋め尽くす向日葵畑がうつしだされる。

これを見て、私は薄気味悪さを覚えた。


たくさんの死体の上に咲く花のようで。


佐々木の言い分は正しい。

冬が終われば亡くなった人の腐敗が始まる。おびただしいほどの亡骸を埋葬するのも、また佐々木たちの役割なのだ。

たとえ春が来るとしたっていいことばっかりじゃない。救助の見込みは未だに薄い。

そして、生きている人が自給自足の地盤を作るまでには相当な時間がかかる。それまで花の種だけを食べて飢えをしのげるほど甘くない。

食糧難とはそういうことだ。

だから自警団たちは寺の人間の殺戮を企てたし、学校に避難した住民は消極的な肯定をしたのだ。


エンディングでは向日葵が咲いた。ということは夏になったのだろう。

これは雲雀の主張する自給自足の世界が始まったのか。一見して希望に満ちた世界だ。

平和で、凪いでいる。

でもそれって人間たちが緩慢な死をとげていったのと同じじゃないか。隔絶された街で、食べ物や薬や衣類やなにもかもが足りない未来を選んだのだ。

死が迫った世界より平和な世界のほうが、ひとりひとり生に対する執着心が薄い。

NORMAL ENDのように殺し合いがはじまったって、花が咲いたって、どちらにせよ死なのではないか。

なんて残酷で救いようがない結末なんだろう。

(だから本当にこの終わり方はTRUE ENDなのか?という問いをしている)

私はそう思ってしまう。

きっと佐々木も(おそらく鍬形も)似たようなことを思っただろう。

尼子は異を唱えるだろうし、私だって虐殺に走るより明日に希望を託して生きるほうが好きだ(と言いたい)。

暗喩だろうが、NORMAL ENDで希望の象徴とされた尼子視点の青空が、こちらのエンディングでは一瞬だけ白いものに覆い隠されて見えず、そのまま終わるのだ。


さて、SWANSONGは群像劇なのでさまざまな起点からキャラクターの価値観を想像できる。


地震で日常を失ったがゆえに、普段それぞれが何を拠り所にして生きていたのかむきだしになる。


田能村は気持ちのいい青年であった。きっと人間そのものが好きなんだろう。

雲雀も同様に基本的に人間が好きなんだろう。

日常の細々としたことを大切にして、イベントごとを忘れない。彼と彼女は一服の清涼剤だった。

あろえは自分の心身を守るため普段と変わらない行動パターンを取るという意味で安定しているように思えた。本当は不安で仕方なかったかもしれない。私はあろえではないし、自閉症スペクトラムを抱えているわけではないから、外側から見たところまでしか想像できない。

鍬形は自分を攻撃することで精神の均衡を保っているように思える。とても嫌なんだが、極限まで追い詰められたら、私もこいつと似た心理状態になってしまいそうだ。

佐々木さんはきっとピアノを弾ける自分が全てだったんだろう。ピアノを弾けなくなってしまった日、彼女は心ごと死んでしまったのだ。

尼子は佐々木とは別の意味でピアノを愛していた。

佐々木がピアノを支配しようとした一方で、尼子はピアノに支配されていた。二人は同じようでいて、根本から違ったのだ。

だから彼はピアノを弾けなくなってもピアノに希望を託せたのだ。

それこそ、握力を失おうが片腕を失おうが。

彼は文字通りの意味でピアノに取り憑かれていたのだろう。



ざっとこんな感じ。

もっと短くまとめる予定が長くなってしまった。ピアノピアノ連呼しまくってしまった。

久しぶりにピアノを弾きたいな。