クリスチャンになって以来、 命の大事さや物への価値感が全く変わった。 私がクリスチャンになるきっかけは子供の精神病だったが、 何故 私が改宗したかと言うと 子供を失いたくない一心で クリスチャンの神に懸けてみた。 

 

 

 

強い神道の家系で生まれ育った私は 八百万の神を筆頭に 様々な神を崇拝して生きて来た中、 自分の人生には それなりに満足していた。 決して完璧では無かったし 心に余裕が無いことも多々あったが それは普通の事であり、 他に比べたら良い方だと信じ込み 頑張って来た。 だが、 海外に住みながら子育てに奮闘し、 アメリカ軍人で長期不在が続く主人と国際結婚の生活の中で それなりの苦しみも有り 葛藤して来たが、 常にもっと大変な環境の人達を見ては自分は未だマシと思いながら自分を慰めて来たのだ。 現実、 そういう風に生きてる人も多いのだろうと思うが 本当にそれで幸せなのだろうか…と ずっと疑問に思いながら 日々過ごして来た。 

 

 

 

 

結局 エゴとプライドで自分を保ちながら生きて来た訳だが、 ある時 もう少しで子供を失ってしまう所まで来てしまったのだ。 その時に 自分の無力さに いかに 今まで信じて崇拝して来た神々の無意味さを感じてしまった。 どんなに祈っても祈りが聞かれず 不安からも解放されず、 又 プロとして活動していた時のスピリチュアル系の友人達や恩師たちに相談した所 何をしても良くならず 誰もする術が分からずに。 何の解決方も糸口も見つからずのまま 恐怖感の中で佇み、 子供の精神病は悪化する一方だった。 当時に関わっていたスピリチュアル系では 沢山の人達に祈祷をして貰って、 一瞬良いかと思いきや 全く効果が無いままで逆効果だったのだ。

 

 

 

私の人生では 子供を失うと言うのが最大の恐怖であり、 子供が生まれてから 常に「もし子供が死んだら…」と思っていた。 そういう「子供を失う恐怖」と言う物が クリスチャンになってからの私は変わり、 命の価値観や子供の価値観までも変わり始めていた。 クリスチャンになった今でも 子を失う事程辛い事はないと言う概念は変わらないし、 そんな日が来ない様に祈っている。 だが、 神が与えられた命にはそれぞれに意味があり、 長さも決められていると信じている。 

 

 

 

 

 

最近見たドキュメンタリーが、 余りにも衝撃的で 自分の人生の在り方を考えさせられた。 あるヨーロッパ人宣教師が子供を放火によって殺されてしまう話なのでが、 この子を失った宣教師夫婦は一人娘を殺された後でもその地に残り 福音を語り続けた。 そして 何十年も経った後に自国へ戻った後 牧師は既に亡くなってしまってるのだが、 奥さんは健在でインタビューしている。 この牧師婦人の語った言葉が衝撃的だった。 それは 放火犯が子供を殺してしまったと言う事実を 「一生重荷を心から降ろす事が出来ないとは 何と辛い人生なのか」 と放火魔への同情の意を表した事だった。 普通の人間ならば、 他を責める事によって 自分の心の痛みを楽にしようとするものだから。 なのに彼女は自分の唯一の子を殺されても相手の犯人に同情をしていたのである。 イエス様が私達に語ってる事がまさに「汝の敵を愛しなさい」…何だか胸が切なくなった。 

 

 

 

主よ、 どうか 私達を試み合わせないでください。 そして愛してる私達の子供達をサタンの惑わしからお守りください。 アーメン

 

 

マタイの福音書 5:43-45

 

『隣人を愛し、敵を憎め』とは、よく言われることです。 しかし、わたしは言います。敵を愛し、迫害する人のために祈りなさい。 それこそ、天の父の子どもであるあなたがたに、ふさわしいことです。天の父は、悪人にも善人にも太陽の光を注ぎ、正しい人にも正しくない人にも分け隔てなく雨を降らせてくださいます。

 

 

ヨハネの福音書 12:24

 

よく言っておきます。畑にまかれる一粒の麦のように、わたしも地に落ちて死ななければなりません。そうしなければ、いつまでたっても一人のまま、一粒の種のままです。しかし、死ねば多くの新しい実が生じ、新しいいのちが豊かに実を結ぶことになります。 

 

「ダマリス〜蒔かれた種、結ばれた実」