新約聖書の放蕩息子の例え話に出てくる豚の畑は煉獄のことを指している | 携挙・煉獄・辺獄・キリスト教・カトリック・御父・イエス・キリスト・聖霊・聖母マリア・第二の聖霊降臨・暗黒の三日間・千年王国

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最近のアニメにヨハネの黙示録12章の内容が含まれています。
イエス様が再臨される3日前に、メジュゴリエのペーター・リュビチッチ神父様が
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新約聖書

放蕩息子

例え話に出てくる

豚の畑

煉獄

のことを

指している

 

 キリスト教信者の方達の中では、まだ煉獄の存在を知らなかったり、存在は知っていても煉獄のことについて、よくわからなかったりする人達がいらっしゃるようです。煉獄とは、死後に自分自身の罪の償いのために浄められて苦しむと同時に主からの愛を受ける場所なのです。人は死後に煉獄に入ると他の煉獄にいる霊魂達の解放を手伝うことは不可能になるのです。この世でまだ生きている人達と天の国の住人達のみが煉獄にいる霊魂達のためにお祈り等をすることが神様から許されているいのです。「煉獄」という言葉は、直接、聖書に記されていません。しかし、私が見つけた新約聖書のイエズス様の御言葉の中に、煉獄の存在を伺わせることを述べている場面があります。

 

聖書のマタイによる福音書の21章28節

 

「二人の息子」のたとえ

 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼らは兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい』と言った。兄は、『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は、『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは、言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとはしなかった。」

 

とあります。ここでは、徴税人や娼婦達が、ヨハネの言う通りにしなかった者達より、単に先に死んで天国に入ることを述べている訳ではないでしょう。

 

「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」

 

のイエズス様の御言葉で、この、

 

「あなたたちより『先に』神の国に入るだろう。」

 

とあります。つまり、イエズス様は、ヨハネの義の道を信じなかった者達が、別に天国に入れないと述べている訳ではありません。

 

「あなたたちより『先に』神の国に入るだろう。」

 

と述べられているので、ヨハネの義の道を信じなかった者達も天国に入れる可能性がこの時点ではあったとも言えるのです。しかし、ヨハネの義の道を信じなかった者達が死んだ後に天国に入る前に留まる場所があるのではないかと推理します。

 

それが煉獄です。

 

 他にも、マタイによる福音書の5章21節に、煉獄の存在を伺わせるようなことを述べている場面が出てきます。

 

腹を立ててはならない

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したらなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の1クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 

とあります。私は、ここでイエズス様が述べている「牢」とは、地獄ではなく、煉獄のことを述べているのではないのかと思います。ちなみに、1クァドランスとは、ローマの青銅貨で、今の日本の百円ぐらいの額なのだそうです。

 

「最後の1クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 

とありますが、逆に、その額を支払ったら解放されるということなのだから、もし、ここで述べている「牢」が、地獄のことを指しているのであれば、最後の1クァドランスを支払っても解放されることはないでしょう。だから、ここで述べている「牢」とは、煉獄のことで、彼らのために最後の1クァドランスを返すこととは、地上にいる、まだ生きている人々が、代わりに煉獄にいる霊魂達のために祈ること等で、彼らの最後の1クァドランスを返済することができるのではないだろうかと私は思います。ですので、1クァドランスとは、罪の代価の額とも言うことができます。1クァドランスとは、ローマの青銅貨で、今の日本の百円ぐらいの額なので、どんな小罪の代価(罪の償い)を裁判官である神様に返さないと「牢」である煉獄から出ることはできないと述べていると思います。


 聖ドン・ボスコも次のことを述べております。

 

煉獄についての聖ドン・ボスコの教え
 
 牧師
「カトリックの公会議で宣言されていることの中には、"煉獄に関する教えが聖書にもとづいている"といっていますが、実は、聖書の中にわたしは煉獄についての記事を一つも見つけないのです」。
 
  この第一の注意に対して、ドン・ボスコは、まず、力トリック教会は、聖書と聖伝を同程度に尊敬していることを前提としていいました。
 
ドン・ボスコ
「その結果、聖書が提供する真理が聖書にもとづくものであるという教えと、カトリック教会が聖伝にもとづいて認めて提供する真理の教えとは、両方とも神のみことばとして認められねばならないものです。しかし、あなたとの会話では、聖書だけを引用することにします」。
 
  こうして、ドン・ボスコは、旧約聖書のなかに、煉獄のことを考えさせるいろいろの箇所を引用し、カトリック側が伝統的に解釈しているところを紹介しました。そして次に新約聖書に移り、マタイ福音書第5章(25-26節)に出るイエズスのことばを引用します。

「反対者と、道の途中で和解せよ。そうしないと、相手はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、ついに牢に入れてしまう。まことに、わたしはいう。一厘の残らず返すまで、あなたはその牢を出られない」
 
  という福音書のこのところは、いつも最近のプロテスタントが認めていますが、カトリック解釈者は、このように解釈しています。すなわち、反対者とは神であって、わたしたちは、神に対して犯した罪をつぐなうために全力をつくさねばなりません。道とは、地上における生活であり、裁判官は、キリストです。また、下役とは悪魔のことで、牢は煉獄のことです。最後の一厘というのは、煉獄でつぐなわれる小罪を意味します。それから、同じ福音書の12章に、これはたとえの形でなく、決定的な教えとして、イエズス・キリストは、次のように断言しておられます、
 
「ことばで人の子にさからう者は許されるが、ことばで聖霊にさからう者は、この世においても、来世においても、許されることはない」(32節)
 
と。救い主のこの教えで来世において許される罪のあることが明らかになります。もし、そうでないなら、イエズスのみことばは、無意味なものとなってしまいます。でも、大罪は、その神に対する侮辱のうえからも、永遠の罰ということからしても、来世において、もう許されることはあり得ません。すると、すでに許していただいた罪だけが、一時的な罰として来世で許されることができます。しかし、これは地獄においてではあり得ません、なぜなら、地獄におちた人にとって、もう救いはないからです。それで、来世で許されるのは、煉獄においてだけです」。
 
「死者のための祈り- 聖ドン・ボスコの教え」
より。
アロイジオ・デルコル神父
 
 

 「垣間見た永遠の世界(ランプのあぶらシリーズ5) 天使館ファニー・モイスィーバ(著), 石澤 芙美子 (翻訳) 」の本の97~101ページの内容によると、煉獄は、

 

 「見渡す限り、丘もなく、鳥、獣、虫の影さえ見えない。石は灰色で、荒涼たる砂漠は、いつまでも居たくないという嫌悪の気持ちを起こさせた。」

 

と書かれています。

 

  また、


「ロザリオを祈るキリスト教徒への聖母の15の御約束」

 

の9番目の御約束の、


「9.私はロザリオに献身した人々を煉獄から解放するでしょう。」

 

 ファティマの預言の、御出現された聖母の述べたられた言葉に、

 

「彼女は世の終わりまで煉獄にいるでしょう。」


という聖母御自身が、煉獄の存在を裏付ける発言をなされています。

 

ともあります。

 

  メジュゴリエの幻視者の一人である。マリーヤ・パヴロヴィッチ=ルネッティさんは、聖母から、煉獄の霊魂のために祈ることを託されているそうです。

 

 「メジュゴリエの証言者たち」ドン・ボスコ社  シスター・エマヌエル(著)、三上 茂 (翻訳) の本の66ページには、

 

 「『天国を見せられた後、聖母は私たちを煉獄へ連れていかれたのよ。』


 彼女はこう私たちに言っている。


 『そこはとても暗い場所で、灰色の濃い煙のために、私たちはほとんど何も見ることができなかった。そこに大勢の人々がいるのを感じたけれど、私たちは煙のために彼らの顔を見ることができなかった。それでも、彼らが動きまわり、金切り声を上げるのが聞こえた。そこには、大勢の人々がいて、とても苦しんでいたわ。私たちはまた、まるで自分自身をびしびし打っているような物音が聞こえた。ゴスパ(聖母)は、私たちにこう言われたのよ。』

 

『この人々がどれほど苦しんでいるか、ご覧なさい。彼らは天国に行くことができるよう、あなたたちの祈りを待っているのです。』


 後で、聖母は私たちに煉獄についてさらに話してくださったわ。私は神に奉献された人々、修道女や司祭たちさえ、煉獄にいたと聞いて驚いたわ。私はゴスパ(聖母)に、奉献された人々がどうして煉獄に行くことができたのでしょう、と尋ねたのよ。ゴスパ(聖母)はこうお答えになったわ。

 

『そうです。この人々は神に奉献されました。でも彼らの心の中には愛がありませんでした。これが彼らが煉獄にいる理由です。』


 煉獄を去る前、ゴスパ(聖母)は煉獄にいるかわいそうな霊魂のために毎日祈るようにと強く勧められたわ。」

 

と書かれています。

 

  大聖ゲルトルートは次のように述べています。

「私達の祈りによって、一人の霊魂が解放される時、神はお喜びになります。私達が、主御自身を牢獄から解放したかのようです」

 

 聖人のパードレ・ピオ神父様(ピエトレルチーナのピオ Padre Pio da Pietrelcina、1887年5月25日~1968年9月23日)も、煉獄の存在を伺わせることを、次のように述べています。

 

「(煉獄の)聖なる霊魂らは、彼らのために免償を得ることが出来る信心深い者達の祈りを切望しています。彼らのとりなしは協力です。絶えず祈って下さい。私達は煉獄を空にしなければなりません!」

 

と煉獄の存在を認めている発言をしています。

 

 「聖ファウスティナの日記―わたしの霊魂における神のいつくしみ」聖母の騎士社 ファウスティナ(著)、ユリアン・ルジツキ(著)によると、

 

1226 煉獄に閉じ込められている霊魂たち(476ページ)

 

イエズス様

「今日、煉獄に閉じ込められている霊魂たちをわたしのもとに連れて来て、わたしの慈しみの深淵に浸しなさい。わたしの血の奔流によって彼らの灼熱の炎を冷ましなさい。これらの霊魂を皆、わたしは深く愛している。彼らはわたしの正義に対して償いをしている。彼らに軽減をもたらす力があなたにある。わたしの教会の宝庫からすべての免償を引き出し、それを彼らのために捧げなさい・・・。ああ、彼らが苦しんでいる激しい苦痛を知りさえすれば、あなたは、霊的な施しを絶えず彼らのために捧げ、わたしの正義に対して彼らの負債を支払うだろう。」

 

1738 あなたの慈しみの宝庫にわたしを入れてください(666ページ)

 主はわたしに言われました。

 

イエズス様

「度々、煉獄に入りなさい。彼らが、そこであなたを必要としているからである。」

 

我がイエスよ、あなたがわたしを話しておられるこの言葉の意味を理解しますが、先ず、あなたの慈しみの宝庫にわたしを入れてください。

 

の内容で、イエズス様御自身が、

 

イエズス様

「今日、煉獄に閉じ込められている霊魂たちをわたしのもとに連れて来て、わたしの慈しみの深淵に浸しなさい」

 

イエズス様

「度々、煉獄に入りなさい。彼らが、そこであなたを必要としているからである。」

 

と、直接「煉獄」と言う言葉をハッキリ使って述べています。

 

 また、ルカによる福音書の15章11節の「放蕩息子」の例え話には、

 

「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」

 

と、あります。私は、このルカによる福音書の放蕩息子の例え話の「遠い国で毎日宴会を開いている期間」が「人がこの世にいる期間」のことで、「饑饉」は、「人が死ぬこと」で、「豚の世話をする畑」が、「煉獄」のことを述べているのではないかと思いました。放蕩息子が豚の世話を避けられないように、罪人も死後に「煉獄」を避けて通れない。「彼は食べるにも困り始めた。」と「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」に出てくる「食べ物」とは、「煉獄」にいる霊魂達に対して祈りを唱えることや聖水をかけることやミサを捧げることです。新約聖書の例え話では、放蕩息子が豚の世話をしている期間は、詳しく書かれていませんでしたが、実際には、人が地上で亡くなって、「煉獄」にいる期間は、罪が多くて重いほど、かなり長い期間、「煉獄」に留まることになるでしょう。放蕩息子が遠い国で毎日宴会を開いている期間(人がこの世にいる期間)の後の「饑饉(死)」後、「豚の世話をしている期間(煉獄にいる期間)」のほうが、場合によっては(この世で犯した罪の多さ)、「宴会(この世で霊的でない生活、自らの罪の償いの祈りや苦行をしない生活、主をまったく賛美しないで偶像崇拝を送る生活(漫画、アニメ、ドラマ、テレビ、映画を見たり、インターネットをしたり、パソコンゲーム、スマホのアプリゲーム、テレビゲーム、携帯ゲームをプレイしたりする生活)、隣人や他人に愛のない生活。」をしていた時期よりも長いことがあるでしょう。放蕩息子も、ずっと、豚の世話をしている期間(煉獄にいる期間)は、かなり辛いものがあるでしょう。

 

 あなた達は、何故、放蕩息子が「饑饉」が起こったすぐ後に自分の父親の元にさっさと帰ろうという閃きが出てこなかったのかわかりますか?理由は、地上の人間達が生きている間に

 

「死後に真っすぐ天国に昇れるように、この世で神様に認められる正しい愛のある生活を行い続けよう。」

 

等の閃きがないことと同じだからです。だから放蕩息子が「豚の世話をする畑」すなわち「煉獄」に行かないと、父親の元に帰ろうなどという発想すら思い浮かばないのです。この聖書の例え話のように、「豚の世話をする畑」つまり「煉獄」に行った罪人の放蕩息子が父の家である天国に帰ろうと発想することが初めて許されるのです。「煉獄」の霊魂達の中で地獄を目指している霊魂達は誰もおりません。一度「煉獄」に入ることが許されるだけで「地獄」に堕ちる心配はまったくなくなるのです。私達が「煉獄」の霊魂達のために祈ること等は、この聖書の例え話に出てくる放蕩息子のような畑で豚の世話をしている「煉獄」にいる人々のために祈って、天の国の御父の元へ送り届けるということです。そして、私達が煉獄から解放することを手伝った霊魂達は、天国からこの世で生きている私達のことを多種多様な形で必ず助けてくれるのです。新約聖書の放蕩息子の例え話にある豚の畑が煉獄であるということを裏付けるお話が、「御父の栄光のために生きる」聖母の騎士社  D.ジョポロ(著) という聖母の騎士社から出版されている冊子にも記載されています。

 

 

御父の栄光のために生きる

聖母の騎士社D.ジョポロ (著)

41~42ページより引用

 

 

御父
「一つの例として、ここに間もなく世を去る人がいる:この霊魂は私にとっていつも放蕩息子のような存在だった。私はこの人に良いものを惜しげなく与えた。彼は優しい天の父が無償で与えた恵みを浪費し、その上私はさらに彼を支えようと、健康と富を与えた。彼は仕事でもうけ、有り余るひどになった。私の配慮から彼は度々の幸運に恵まれ何不自由のない身分となったが、悪徳が身につき目は曇り、その後彼の人生は不始末の連続となった。しかし私の愛はあきらめることなく、彼に付き添っていた。私は彼を愛していたし、何よりも、彼から拒絶されてもいつかは彼が私の愛に答えて父であり救い主である私のもとへ戻ることを希望して彼のそばで辛抱強く生きることを喜びとしていた。

 

 ついに彼の最後の日が近づいた:彼が正気に戻り父である私のもとへ戻るよう私は彼に病気を送った。時が経ち可哀そうなこの子は74歳となり最後の時を迎えている。私は今までどおりそばにいる。今までよりさらに優しく声をかける。私は譲らない。選んだ人たちに声をかけ、私が勧める赦しを彼が願い出るよう祈りを頼む……

 

 そして今ついに、息を引き取る寸前の彼は目を開き、自分が誤っていたこと、父に至る真の道を踏み外したことにも気がつく。正気に戻った彼は周りのだれにも聞き取れない弱い声で私に言う:

 

『神様、私に対するあなたの愛がどんなに大きかったかを私は今分かりました。それなのに私は、悪に染まった生活を送りあなたに背き続けました。私は御父である救い主のことを思い出したことがありません。今あなたはすべてを見ておられます。取り乱した私が認めるこのすべての悪の業をお赦し下さい!私の父、私の救い主よ、私はあなたを愛します!』

 

 言い終えるとすぐに息を引き取った彼は今、私の前にいる。私は父の愛をもって彼を裁く:彼は私を父と呼んだので救われた。彼は償いの場で一定期間を過ごした後、永遠の幸福に入る。彼の生前私は、彼が痛悔した時に赦しと救いを与えることを楽しみとしていた。今私は、天上に居並ぶ人々ととも、永遠に彼の父となる望みが実現したことでさらに満足している。」

 

 この御父の述べている「彼は償いの場で一定期間を過ごした後」という御言葉の「償いの場」こそ新約聖書に出てくる放蕩息子の例え話に出てくる「豚の畑」であり「煉獄」以外に考えられないのではないでしょうか?

 

さらに「御父の栄光のために生きる」聖母の騎士社  D.ジョポロ(著) 60ページより引用

 

御父

「煉獄にいる信徒たちに特別な祝福を、アーメン!アーメン!」

 

と、御父御自身が煉獄という言葉を直接述べておられるのです。

 

 煉獄には、イエズス様は直接行くことはなく、代わりに聖母マリア様や大天使聖ミカエルや煉獄にいるそれぞれの霊魂達の守護の天使が煉獄にいる霊魂達を慰めるために来たり救いに来たりするということです。煉獄とは、行ったら、結局、地上にいた時の生活を反省せざるをえない所なのでしょう。

 

 実は、新約聖書の

 

「ぶどえ園の労働者の例え話」

 

の個所にも、煉獄の存在を伺わせることが記されているのですが、将来、私(このブログの管理人)の偽物さんが現れるかもしれないので、もし、偽物さんが本当に現れた時に、皆さん、偽物さんに対して、

 

「『ぶどえ園の労働者の例え話』と『煉獄の存在』の関係を、わかりやすく説明して下さい。」

 

と質問してあげて下さい。

 
 
◆「イエズスの御肩の御傷への聖ベルナルドの信心の祈り」
 
 これはクレルボーの記録に関連したもので、聖ベルナルドが私達の主に主の偉大な未記録の苦しみについて尋ねた時、主は答えられた。
 
「私は肩に、苦しみの十字架の道の途上にて深手を負った。これ以上の苦しみは他になかったがそれを記録する者はいなかった。この信心を行いこの傷に光栄を帰するならば、私は汝にどのようなものであっても求める完全な善徳と賛美に値する功徳を与える。そして彼らすべてをこの傷を大いにあがめる者とみなし、私は彼らのすべての小罪を赦し、彼らの大罪についても記憶することはないだろう。」
 
(この祈りを行うたびに、30,000の霊魂が煉獄から解放される。)
 
 おお、やさしいイエス、柔和なる神の小羊、みじめな罪人である私は、あなたがあなたの重い十字架を担われた御肩の、あなたの肉を裂き、あなたの骨を露出し、あなたの祝福された御体の上の他のどんな御傷よりも、さらに大きな御苦痛を加えた至聖なる御傷に挨拶し、礼拝します。あなたを賛美します。おお最大の悲しみの人であるイエス、私は、あなたを誉め、あなたの栄光をたたえます。そしてこの最も聖であり苦痛に満ちてる御傷に対し、あなたに感謝を捧げ、この激甚なる御苦痛と、あなたの重い十字架の骨をも砕く重荷によって、罪人である私をあわれみ、私の全ての大罪と小罪を赦し、あなたの十字架の道を通して、私を天国に導いてくださることを乞い願います。アーメン。
 
(聖ベルナルドは、教皇アウグスチヌス3世に熱心に、この祈りと「天使祝詞」を3回、私達の賛美される贖い主である主の肩の御傷に光栄を帰すために唱え、罪を心から悔やむすべての者に3000年の免償を懇願し、承認された。)
 
MA スプリングフィールド トマス.D.B司教認可
◆臨終の人に非常に重要で有益な 3つの非常に美しい祈り
 
臨終の人に非常に有益であり、憐れみの業としても度々祈るべき祈り
 
 かつてローマに沢山の罪に取り囲まれた一人の教皇があった。主なる神は彼を致命的な病で打たれた。彼は自分が死につつあるのを知った時、枢機卿、司教、学者達を呼び寄せて言った。「私の親愛なる友人達よ!私が死なねばならず、私の罪のために永遠の堕地獄に値するようになった今、君達は私にいかなる慰めを与え得るか?」誰一人彼に答えなかった。彼等の中の一人で、ジョンという敬虔な助任司祭が言った。『父よ、なぜあなたは神の御慈悲を疑われますか?』教皇は答えた『死なねばならず、私の罪のために永遠の罰を受けることを恐れている今、あなたは私にいかなる慰めを与え得るのか?』
ジョンは答えた。『私はあなたの上で3つの祈りをしましょう。望むらくは、あなたは慰められ、また神の御慈悲を得るでしょう。』教皇はそれ以上何も言うことができなかった。助任司祭とすべての臨席者達はひざまづき主の祈りを一回唱え、それから次の祈りを唱えた。
 
1.聖主(しゅ)イエズス・キリスト!御身、神の聖子(おんこ)にして処女マリアの子、神にして人、御身、オリーヴ山上にて、この死に行く者の救いのために平和をもたらし、神なる御身の天の聖父(おんちち)に捧ぐるため、われらのために、恐れの中で血の汗を流し給いし御者よ、・・・ (この者) ・・・されど、もし、彼が、その罪によりて永遠の罰に値せば、それが、彼より離れんことを願い奉る。ああ、永遠の聖父(おんちち)よ、聖霊とともに、今も、いつも、とこしえに生き、かつ、しろしめし給う御身の愛子(おんこ)、われらの聖主イエズス・キリストによりてこれを叶え給え。アーメン。
 
2.聖主イエズス・キリスト!平和をもたらし、・・・ (この者)・・・を解放し、彼が、その罪によりて得しものを、彼より隠すべく、御身の至聖なる死を、御身の天の聖父(おんちち)に捧ぐるため、御身の意志を全く御身の天の聖父(おんちち)に委ね、われらのために十字架の柱(き)の上に柔和に死し給いし御身。この願いを聞き入れ給え、ああ永遠の聖父(おんちち)よ!御身とともに、聖霊との一致のうちに、今も、いつも、とこしえに生き、かつ、しろしめし給う御身の聖子(おんこ)、われらの聖主イエズス・キリストによりて。アーメン。
 
3.聖主イエズス・キリスト!御身、預言者等の口を通じて語らんがため、沈黙を保ち給いし御者よ、われは、御身のとこしえの愛によりて、御身をわれに引き寄せ奉らん。その愛は、御身を天国より聖母の御体内に引き寄せ、その愛は、御身を聖母の御体内よりこの渇ききった世の谷に引き寄せ、その愛は、御身を33年の間この世に引き留め給いぬ。また、偉大なる愛のしるしとして、御身は、御身の聖なる御体を真の食物として、御身の聖なる御血を真の飲物として、与え給い、偉大なる愛のしるしとして、御身は、捕われ人となり、裁判官より裁判官へと、引き回されることに同意し給い、また、偉大なる愛のしるしとして、御身は、死刑を宣告せられることに同意し給い、死して葬られ、真(まこと)によみがえり、御身の聖なる御母と、すべての聖なる使徒らに現れ給うことに同意し給えり。然して、偉大なる愛のしるしとして、御身は、御みずからの強さと、力によりて昇天し給い、御身の天の聖父(おんちち)なる神の御右手(おんみぎて)に座し給い、また、御身は、御身の聖霊を、使徒たちの心と、御身への永遠の愛のしるしによりて、御身を望み信じ奉るすべての人の心に送リ給う。今日(きょう)、天国を開きて、この死に行く者 ・・・ (この者) ・・・ と、彼のすべての罪を、御身の天の御父の王国に導き、彼を御身とともに、今もいつも、とこしえに君臨せしめ給わんことを、われらの聖主イエズス・キリストによりて。アーメン。
 
 その間に教皇は死去した。助任司祭は3時間目まで忍耐して待った。その時、教皇は体を持って彼に現れ、彼を慰めた、教皇の顔は太陽のように輝き、その衣服は雪のように白かった。そして教皇は言った。『私の親愛なる兄弟!私は亡びの子となる筈であったのに、幸いの子となった。あなたが第一の祈りを唱えた時、私の罪の多くは天国から雨のように私から落ちた。そしてあなたが第2の祈りを唱えた時、私は金細工師が金を熱い火の中で清める時のように清められた。あなたが第3の祈りを唱えた時、私はさらに完全に清められた。それから私は天国が開いて、主イエズスが父なる神の御右手に立っておられるのを見た。』主は言われた、『来なさい、あなたのすべての罪は赦された、あなたは私の父の御国に入り、永遠にそこにとどまるであろう。アーメン。』
 
 これらの言葉と共に、私の霊魂は私の体から離れ、神の天使たちがそれを永遠の喜びへ導いた。
 
 助任司祭はこれを聞いた時言った、『おお教皇様!わたしはこれらのことを誰にも話すことができません、誰も私を信じないでしょうから。』すると教皇は言った、『真に私は言う、神の天使が私とともに立っており、これらの祈りをすべての罪人の慰めのために金の文字で書きとめた。もしある人がこの世のあらゆる罪を犯していても、これらの3つの祈りが彼の終わり(死)の時、(彼の上で)朗読されるならば、彼のすべての罪は赦されるであろう、例え彼の霊魂が最後の審判まで苦しむことになっているとしても、それはあがなわれる(解放される)であろう。
 
 これらの祈りが朗読されるのを聞く人は不幸な死に方をしないであろう。これらの祈りが朗読される家に住む人も同様である。それ故、確かな慰めのために、これらの祈りを取って聖ペトロの聖堂に運び、聖母の被昇天と名付けられた礼拝堂の中におきなさい。死に近づいた人が、これらの祈りを朗読するか、朗読されるのを聞くならば、彼の罪のために煉獄で苦しむことになっている日数に対し、400年の免償を得る。また、この祈りを朗読し、或いは朗読されるのを聞く人には、彼の死の時が啓示されるであろう。アーメン。』
 
 「ピエタ  聖ビルジタの15の祈り[単行本]エンデルレ書店」の20~22ページにも記載されています。
◆「1000の煉獄の霊魂が救われる大聖ゲルトルートの祈り」
 
 永遠の御父よ、あなたの神なる御子イエスの最も尊い御血を、今日、全世界で捧げられるすべてのミサ聖祭と共に、次の意向のためにお捧げします。すべての煉獄の霊魂のために、世界中のすべての罪人のために、病人のために、死の床にある人のために、私の家に居る人と、私の家族のために。アーメン、ハレルヤ。
 
(大聖ゲルトルートの祈り:唱えるたびに1000の煉獄の霊魂が救われる)(ポルトガル リスボン司教1936年3月4日 認可署名)
 
Eternal Father, I offer you the Most Precious Blood of Thy Divine Son,Jesus, in union with the Masses said throughout the world today for all the holy souls in Purgatory. Amen.
 
Our Lord told St. Gertrude the Great that the following prayer would release 1000 souls from Purgatory each time it is said:
 
 「ピエタ  聖ビルジタの15の祈り[単行本]エンデルレ書店」の72ページの一番下に、ピオ神父が毎日、この祈りを唱えていたと記載されています。73ページには、「1000の煉獄の霊魂が救われる大聖ゲルトルートの祈り」も記載されています。