舞台「見よ、飛行機の高く飛べるを」が終わって、早3ヶ月が経ちましたが、国分佐智子さんの演技が与えてくれた感動が未だに胸の奥に燃え盛っていてやみません。

また、当時拝見したブログさんの中で、気になる発言があり、それに反論を終えていなかったことが気がかりでした。

そこで、今回補足しておきます。


【「意味の無いお笑い」という批判について】


舞台を実際にご覧になった方のブログに、「観客の関心を惹こうとする意味のないお笑いが興醒めだった」という旨の批判がありました。

そして指摘されているお笑いとは、習字教師中村英助を演じられた“アンバランス”の黒川忠文さんの演技にまつわるものであり、また、問題のシーンは、額縁に掲げられた「温順貞淑」という新しい校訓について、習字教師中村英助は批判するシーンだと思います。


だとすると、批判された方はそのシーンで演じられたエピソードに込められたメッセージ、あるいは風刺に気づけなかっただけということになり、その方のご批判は的を得ていないものと言わざるを得ません。


問題のシーンは、“質実剛健”というそれまでの校訓が、「女性は考えてはならない」という復古主義を標榜する“温順貞淑”に変えることを、復古主義で体制迎合的な、井上幸太郎さん演じる体操教師青田作治が画策し、青田に入れ知恵された青木和宣さん演じる難波泰造校長がその新らしい校訓を自ら筆を執って書き、その書を入れた額縁を青田が、習字教師中村に手伝わせながら掲げてあった古い校訓と取り替えて飾ったのを受けたものです。その間、中村は、古い校訓へのこだわりを示し、新しい校訓への不平を様々に表します。

新しい校訓に反発し、動揺する国分佐智子さん演じる光島延ぶら女生徒達を前に、中村は新しい校訓について改めて不満を述べ、「他の先生方達も口には出さんが納得しとらん」と口にします。その言葉に、希望を得た光島延ぶら女学生達は色めき立ちます。


そこで生徒達の期待に応えて椅子の上に立ち上がった中村は、「温順貞淑」が新しい校訓としてふさわしくないことを説明しだします。


温 順 貞 淑



身振り手振りを交えながら、「この温の字のさんずい扁の跳ね、なっとりません。淑の字のさんずいの跳ねも旁(つくり)にかかって迷惑かけとります。先生がいつも言うとるやろ。さんずい(さんずい扁)は、こう来て、ぐっと堪えて、すっと抜く・・・」。

それを見た女学生たちは、中村が温順貞淑という校訓そのものではなく、額に納められた温順貞淑という書の文字という外形にだけこだわっていたに過ぎなかったことに気づき、悄然となります。


確かに、本筋とは関係ない小さなエピソードです。(また、だからこそ、かなり詳細にネタばらししたんです。(;^_^A)


実は、「世の中の人々は、本質ではなく表面的なものでしか判断しない」ことへの風刺が込められているのです。しかも、それは

社会の現実でもあるのです。つまり、脚本は、本質は捉えず、外形ばかりを気にし、あるいは外形だけで判断する「普通の人々」の姿を風刺し、嘆いているのです。このお芝居で、中村は軽い笑いを担当しお芝居の緊張感をほぐすとともに、「ごく普通の人々」を象徴する人物だったのです。

そうしたことへの洞察がなければ、このシーンの意味、「お笑い」の本質、そしてお笑いが担った役割の重要さは見えてきません。


「観客の関心を惹こうとする意味のないお笑いが興醒めだった」という旨の批判は、書かれた日付から見て、この部分がアドリブによって帰られてしまった千秋楽公演より前の、オリジナルのお芝居を前提になされたものだと思われます。
だとすれば、それはお芝居が発していた重大なメッセージを見落としたに過ぎず、いわばご自分の「シリアス趣味」を一方的に押し付けられていたと考えます。表面がシリアスでないと、その意味がある内容はないと考えてしまう・・・まさに、このお芝居のこのシーンがこめた風刺が当たっていることにもなりますね(;^_^A



逆に、そのように重大な意味を持っているからこそ、このシーンには下手に手を加えてはならなかったのです。

ですが、黒川さんは千秋楽で底の軽いアドリブを入れ、元の台本を崩してしまい、しかもアドリブ自体も成功しませんでした。つまり、残念ながら、黒川忠文さんは場面の意味を理解しておられなかったことになるのです。

黒川忠文さんが、いわば本物のコメディアンになるには、人間に対する洞察、社会に対する洞察を、もっと積まれた後だと思います。


(参考まで)問題のシーンのやりとりは、以下の通り。光島=国分佐智子さん、杉坂=宮本真紀さん、中村=黒川忠文さん

中村「気に入らんだろう、君達。」

光島「中村先生もそう思われます?」

中村「そりゃあ、気にいらんよ。他の先生方も、口には出さんが、みな気に入らんようだった。」

杉坂「それじゃあ、変わる可能性もありますね。」

中村「そりゃそうだろう。お前ら、毎日こんなもの見せられてたまらんだろう」

光島「ええ!」

中村「たとえば、『温』のさんずい(扁)、跳ね過ぎて日にかかっとる。『淑』のさんずいも旁(つくり)に迷惑かけとります・・・。」



【「文切りな社会主義者」という批判について】


社会主義者で、物語の転換に重要な役割を果たす、原田健二さん演ずる板谷順吉について、社会主義者についての描写が紋切り型で深みがなかったという批判がありました。


しかし、この批判は、お芝居が「中心のテーマ」を中心に作られることを忘れた批判だと思います。捨象、つまり、「中心のメッセージ」以外は、良い意味で大胆にカットすることによって、「中心のテーマ」を分かり良くするのが、優れた演出なのです。


「見よ、飛行機の高く飛べるを」の「中心のメッセージ」は、あくまでも「新しい女性」に目覚めた女学生達の高揚と挫折を巡る人間模様であり、そこで示される「人生の姿」です。「勝手に作り上げた信念にこだわり、今そこにある素直な気持ちを無視することは、本当に正しい生き方ではないのではないのですか」、といいうメッセージだったと思います。

ですから、社会主義や社会主義者の姿を稠密に、あるいは斬新に描くことにエネルギーを注ぐことは、あまり意味のないことだったのです。


しかも、「見よ、飛行機の高く飛べるを」は、実に3時間を越える、しかも濃密なお芝居でした。そこに、社会主義と社会主義者のなんたるかなどといったテーマまで持ち込めば、収拾がつかなくなったでしょう。

この舞台では、社会主義や社会主義者は、あくまでもお話を進めるためのエピソードに過ぎないのです。それにこだわるのは、個人的な趣味の押し付けであり、これこそ紋切り型の批判と言わざるを得ません。


もちろん、演出の仕方によっては、「中心のメッセージ」を作らず、たとえばとりとめもなく社会風刺を詰め込むやり方もあるでしょう。でも、そうした演出をすれば、観客が受け取る印象はまったく違ったものになり、全然別のお芝居になってしまいます。

むしろ、良い意味での分かり易さを志すことは演出者の良心であり、商業演劇の大前提です。そもそも、自己陶酔や自画自賛であってはならないのです。



明日放送

5月31日 20:00~20:54
テレビ朝日系列

その男、副署長~京都河原町署事件ファイル」千代丘あおい役


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