ゴム引きコートを脱いで、

くろしろボーダーにパールのネックレスを合わせた格好で歩けるくらいの陽気が気持ちいい日でした。




誰かと話していてモヤッとしたり、

なにかをみてモヤッとする時、



話の内容にモヤつくのか、

その様子にモヤつくのか、

そこにはなにがあるのかなーと観察すると、



モヤついている自分にモヤついているんですよね。

モヤついている自分を、自分が嫌がっている。

自己否定している状態なんですよね。

(自己否定は悪いものでもなんでもなく、ただの反応です。)



モヤつく事に対して何を感じているのか?

・もっとこうしなくてはならない。

・もっと頑張らないといけない。

・自分には価値がない。

・楽しんではならない。

・喜びを感じてはならない。

etc



今の自分のままでいいのかしら?

毎日息が切れるほど頑張らなくてはいけないのかしら?

こんな呑気に生きていていいのかしら?


など、今の自分を否定するような、

感じたくない事、

向き合いたくない事、

見たくない事、

聞きたくない事が、モヤつきの正体です。



それは、“本当は素晴らしい自分“なのに、

素晴らしい自分だと、自己肯定できていない時、

“こんな自分はダメ“と、自己否定しています。



そこには、母親や父親がもっていた思い込みからの影響もあります。

母親が我慢や苦労を美徳として生きていた人か、または、我慢や苦労の先に褒美があるとか、我慢や苦労の先に、愛される、という現実が待っている。と信じてやまない母親の存在があって、そんな母親の話を聞いては、我慢や苦労節のシャワーを浴びてきた影響もあったりします。



父親の思い込みは、社会に出て稼ぐ事や認められる事に価値がある。苦労は買ってでもする。社会は大変な事しかない。などの思い込みのシャワーを浴びて影響をうけている。



子供はどんな両親であれ、両親の事が大好きなので、一生懸命、親の思いに応えよとうとしたり、共感したり、受け入れようとします。



ここから脱皮して自分に還るのが自立で、全人類に与えられているテーマな気がします。

そこからますます自分の好きな事、楽しい事を追求する人生になります。



話はそれましたが、

我慢や苦労をして頑張る人を否定しているわけではなく、その我慢や苦労や頑張りの中身は、



楽しい、喜び、からなのか?

はたまた、

不安、心配、からなのか?



楽しい事、嬉しい事をしていても、

我慢や苦労や頑張りはついてきます。

でも、自分が好きでやっている事だから、我慢や苦労や頑張りという感覚よりも、夢中や集中の感覚なので、我慢や苦労という言い方が適するのかは謎ですが。



また、我慢や苦労や頑張りを周囲にバレないように、

変にポジティブにサバサバしたようにふるまったりするのにも違和感を感じるのは、自分を守っている感が強くて、圧を感じるからなんですね。

(母親や父親を思い出すのかも知れません。



モヤっとしたら、

自分の大好きな事、自分がやりたい事、

見たいもの、聞きたい事、感じたい事、

これを選んでいいよ。というサインなのです。



どんな出来事に対しても、それをどう捉えて、

どんな学びや発見があったか、

自分に何を教えてくれたのか?

これが大切で、どんな出来事にも必ず最後は、

ありがとう。さようなら。許してね。愛しています。

(ホオポノポノの感覚で。)

と、学んで身につけて感謝して手放して軽やかになる。



そんな域にたどり着きます。