毎日、

 

 

世界中のどっかで殺戮されたり災害にあって命を

落としている方々がいる、

 

 

 

その一方で生きる目的も分からないまま、唯々この国で漂流中の僕。

 

 

一体、生きる事は死ぬ事はどういう事なのか?

この神様の生死の選別の基準なんなのか?

 

 

 

僕は、その永遠に解けない疑問と共に、今日もこの地上で息をしている。

 

 

本日も寒いですね。僕の場合色んな意味で。

 

 

寒くて、ちらほら雨もあるようですが、もう食物もないので、ちょっと

買ってこようかと。

 

 

(食物連鎖の頂点にいるのが人間だ!

なんて能書き誰がいいだしたんだろう.....)

 

そんな嘘パッチだろ。

現に僕は自分の手だけじゃ、自分の腹をおさえる(食物摂取する)為の

 

食いもんを用意する事さえ出来ない。

 

金という手段で、小売店やスーパーに売ってる物を買ってくるだけ。

 

ととのう君じゃないけど、

 

その食物だって、元はと云えば誰かが獲って来た物を誰かが加工して、それを誰かが

運んで、誰かが棚に陳列してる物。

 

ざっと思いつくだけで、それだけの工程を経ており(実際はもっと多くの工程や人が関わって

るだろうけど.....)、今日食べる物を用意するだけでもかなりの数の人の手を経ないと、口まで

届かない。

要は自分一人じゃ、食べ物ひとつ用意出来ない。

 

それのどこが、頂点なんだか。

 

動物(人間に飼われていない野生)はその点、毎食自分で餌となる獲物を狩り、その同じ

動物界の一員を食べる為に、自分の手で殺生してる。

人間なんて、自分が食べる物一つ取ってみても、狩から殺生からその他諸々、金を使って他人に

やらせてる。

 

いわば、人間は事あるごとに

 

自分の責任で何々をやるとか、自己責任でやるとか、やたら自分の責任でっていいたい動物だけど、

野生動物達の方がよっぽど自分の責任で、自己責任で

 

生きてる

 

狩りに失敗すれば、耐えがたい空腹が待っており、いつまでも狩に失敗し続けたら死ぬだけである。

 

それこそ、己が才覚が生きる事に直結してる。

よっぽど、人間なんかよりは清々しい生き方ではないか!

 

自然の摂理は、人間なんかよりよっぽど野生動物達にとって厳しい。

そういう意味では、人間は野生動物達よりは神様に祝福されているのか、それとも呪われているのか

どっちかは分からないけど、自然=神から乖離している生物なのかもしれない?

 

だから、人間はとても奇異で人工的な”宗教”などというものを自ら生み出し崇めなければ、

やってられないのかもしれない。たとえそれが、戦争の種になったりお互いに殺戮しあう

いい訳になろうとも.......

 

 

まあ、そんなこんなで

 

ちょっと風邪ぎみで頭が痛かったり若干の吐き気を感じたりしており、この寒い中外出するのは

気が引けますが

 

食物と仏花と後、魂への栄養分として

 

DeAgostini   週刊エヴァンゲリオン初号機をつくる 第2号

 

を全然金ないんですが、調達してこようかなと.....

 

 

それにしても、

昨晩の

 

ラヴレターズ観戦出来なかったのが、色んな意味で

カエスガエスモザンネンシゴクです。 

     ↑って、まだ云ってる.....。