叔母はタバコも吸わないしお酒も嗜む程度しか飲まない。
菜食主義者で頑健な叔母は61歳の若さでこの世を去りました。病名は「肺ガン」で気がついたときは時遅し。今で言うステージ4の宣告を医師から告げられ苦しみながら病院のベッドで息を引き取った。
この物語の軸となる「叔母」は自分にとって唯一話が出来る近親でありました。相関関係を簡単に説明すると、僕の母親の実姉という間柄です。そんな叔母とは季節の節目ぐらいしか膝を交えることはなかったし、社会人となって自立し、大人の階段を上がるにつれ会う頻度は更に少なくなっていきました。正月になれば母親がいる自宅に、叔母は手土産ひとつ持ってやってくるので、頌春を介して再会するのが年始めの恒例でもありました。
もちろん僕が幼い頃は必ずお年玉もくれたし、誕生日になれば些細だけどプレゼントもくれました。成人式のお祝いも躊躇うぐらいの額を包んでくれたことを覚えています。たぶん僕が所帯を持つことになっていたら、存分なお祝いをしてくれただろう。近親の中で僕のことを一番可愛がってくれたことを母親から聞いて知ることが出来ました。
何故、僕が特別に寵愛されていたのか。いまとなっては知ることは不可能ですが、叔母の生い立ちから何となく想像できなくはない。
叔母は子供がいなかった。神様から子供を授かることは出来ないと宣告されていました。
現代では医学の進歩によって不妊治療がスタンダードになりはじめているが、叔母の生きた時代には妊活という言葉は存在しなかった。若くして亭主と離別し、再婚せず孤独な人生を送ってきた。僕の身内には男の子が少なかったこともあって、至極可愛がられたのは当然のことであったのかもしれない。
僕の後悔のひとつは若くしてこの世を去った叔母に孝行的な事も出来なかったことです。甲斐性がある姿を一度も見せることが出来なかったことは後悔のひとつです。その後悔の念は、叔母の命日が来る度に毎年心のなかで抱く思いです。断腸の思いとまではいかないけど歯痒い気持ちを隠すことは今でも出来ません。
この物語の主人公は実は僕自身なのです。全体の座標軸になっているのは「叔母」かもしれません。人の生き死によって様々な感情を知ることが出来た僕の深い根っこの部分を掘り下げた話になっています。叔母の死によって認識できたもの。その様々な体験から過去をオーバーラップさせることで自分自身を客観視していく小さな物語です。
師走になって自分自身を見つめ直すことは大事なことです。一年の締めくくりとして、この12ヶ月を振り返ると同時に、更に歩んできた40年間を様々な尺度からトレースする。僕にとって「叔母」は何を自分に与えてくれ、何を教えてくれ、何を気が付かせてくれたのか。そこから派生する事柄をひとつひとつ丁寧に紡ぐことによって自身が知り得なかった自分をつまびらかにすることが話の「主題」となっています。とても絵空事のように多角的でわかりにくい内容になっているかもしれませんが、最終的に何を自分が伝えたかったのか、結実で終われるように文字を綴っていこうと思います。
つい先日母親と共に叔母の墓参りに行きました。一年に一度の命日になったからです。実は叔母のお墓は母親が全て管理しています。一年に一度の管理費を母親が主に賄っています。子供や孫がいなかったので自動的に母親が叔母のお墓を守ることになりました。もちろん身寄りがいない叔母なので母親が中心となってお墓を建て、僕も出来る限りやれることは手伝いました。母親には姉と兄がいましたが、その兄も若くしてこの世を去りました。間質性肺炎を患い叔母よりも実は先に他界しています。母親は三人兄弟の末っ子でした。母親の両親も他界しています。
「一番病弱だった私が一番長生きしているわね」
叔母が眠る霊園に向かう途中、母親は小さな声でつぶやいた。
母親は幼い頃大病を患い難しい手術をうけました。
何度も入退院を繰り返し今でも病院に通院しています。薬も毎日三食後欠かさず服用している身体です。今思い起こせば僕がこの世に存在できているのが奇跡と思えるぐらい母親は病弱でした。母親の姉と兄は大病を患うこと無く頑健で一般社会を堂々と渡り歩いてきました。死の目前まで社会と向き合い必死に生計を立てていました。姉は61歳でこの世を去り、兄は57歳でこの世を去っています。常に頑健な二人が一般的に若いとみられる年代で致命的な病を患い命を落としています。ところが長きに渡り罹患を繰り返してきた母親が70歳近くまで生きていられる現実があるので人間の一生とは千差万別ですね。
「子供を生むと女性は長く生きられるかもしれない」と、僕は曖昧な返答しかできなかった。
人間はより生活習慣をきっちりやり繰りしていれば長く生きられるものではないことは周知の事実です。
いかにリスクマネージメントしても、早く死ぬときもあるし、長く生きるときもある。石橋叩いて暮らしても早死することはあるし、逆に不健康に日々を過ごせば数値でわかる習慣病に罹患し早死することも普通な流れだ。入退院を繰り返してきた母親が長生きすることだって実際に珍しくはない話です。それぞれを寿命という便利な物差しで片付けるのが常識的になっている。諦めながら正直に死を受け入れ惜しむことしかできないのが残された人間の役目です。
昔、一人暮らしをしていたとき隣に住んでいた85歳の爺さんを思い出しました。爺さんは原付バイクや自転車を乗り回していて高齢なのに若い僕よりもバイタルに満ち溢れていました。骨と皮でできた生物のように痩せていて、栄養失調ではないのかと思えるぐらい無骨で健康的には見えなかったです。チェーンスモーカーでいつもタバコを咥えていたし、昼間っからつまみも食べず酔っ払っていました。妻に先立たれて独り身の生活がとても長かったようです。親戚とも疎遠となり、叔母と同じように子供がいないデタッチメントな生涯。ギャンブルに依存して持ち家を失った過去もあったようだ。
その爺さんとは良く近所のコインランドリーで顔を合わせました。必然的に暇潰しの相手が僕になるのです。
「妻に先立たれたおかげで悠々自適に生きられてる。わしにはこの生活が板についとる。普通の家庭を築き、子供を育て、孫の相手をするだなんて、わしの性に合わない。いまが丁度良い塩梅。神様は素晴らしい余生をわしに与えてくれた」
「酒や煙草がわしの原動力。わしから酒と煙草を奪い取ったら、その時点でわしの人生は終わる。人それぞれ考え方はあるだろうが、自分にあった生活習慣を捻じ曲げることが最大の癌だとわしは思う」
「もし仮に息子や娘がわしにいたら、おまえさんのような孫がいたのかもしれない。それはそれで幸せでまっとうな人生を送れたかもしれない。そうだ。かもしれないと思うだけで、わしは充分なのだ。人にはそれぞれの見合った生涯がある。わしにはそれだけしかない生涯なだけだ。幸せは贅肉のようなものだ」
ところどころ抜け落ちた歯で器用にタバコを転がしながら爺さんは誇らしげに言った。人は千差万別。生きることを諦め、孤独を受け入れ、深い悦楽に浸っている。人間という生物は全て寂しがり屋だと思っていた僕は、珍しい人がいるんだなあと痛切に感じました。自分は寂しがり屋の部類に入るので、こういった余生を過ごす爺さんが逆に達観的にみえて羨ましく思うこともありました。
僕はある事情でアパートを離れることになりました。質素で細々とした引っ越しです。そのアパートでは、ほぼ眠りに帰ってくるだけの部屋だったので簡単に引き払うことができました。大型の家具は無かったし大型の家電もない。男一人でも1日もあれば部屋をもぬけの殻にできました。当時は予算が全く無かったので1人で引越しの作業をしていました。それでも僕1人のマンパワーで充分でした。ところが唯一引っ越しを手伝ってくれたのが隣に住む爺さんです。爺さんは過去にトラックの運転手を生業にしていたようで、知り合いから小さな荷台付きトラックを借りてきてくれた。ありがたいことにドライバーとして次なる棲家に僕と荷物をトラックで運んでくれました。皮と骨でできた両腕で運転する爺さんのずんぐりむっくりした姿を鮮明に覚えています。
「兄ちゃんは珍しい若者だ。最近の悪ガキとは違う。礼儀ができとるしな。それにこんな老いぼれの爺を敬うことが出来る」
そう言うとダッシュボードからシワが目立つ封筒を取り出した。助手席にいた僕に二万円が入ったその封筒を渡してきました。はじめは忌憚してもちろん受取りませんでした。引っ越しの作業を手伝ってもらったのに、更に引越し祝いを頂くなんてできるわけがない。身内でもない赤の他人からお祝いだなんて考えられない。もちろん最初は受取を拒否していましたが、受け取らないと自宅に中々帰らないので渋々お礼を言って引越し祝いを頂きました。
何だか倉本聰脚本のテレビドラマのワンシーンを自分が演じているような気持ちになる。封筒から二万円を取り出し泥がついていないことを確認しました。ピン札ではなかったけど、ATMや財布の中で磨り減った二枚のボロボロの福沢諭吉が不思議と愛おしくみえました。その二万円札で爺さんが大好きだった煙草の銘柄を数カート購入して送ってあげました。
叔母が死んだとき僕と母親は仕事をしていませんでした。僕と母親はたまたま二人共就活中だったので1日の大半が暇でした。僕は母親と姉の3人家族です。実の父親は僕が幼い頃何も残さず行方をくらましました。実の姉は少し離れた場所で生活していたので、実家には母親と僕の二人暮らしです。
叔母がこの世を去った訃報を病院から電話で聞きました。身寄りがない、叔父もこの世にはいない。自然と母親が叔母の身元引受人となるのです。僕と母親は霊安室で叔母と再会しました。あれだけ健康的であった叔母はみる影もなく痩せていました。常にしっかりと化粧をしていたのに、シミだらけの肌を曝け出していました。叔母が病院に持ち込んでいたボストンバックから銀行の通帳と手紙がセットでしまったあるのを母親がみつけました。
「このお金で後は頼みます......」叔母が残した最後の置き手紙です。
よく覚えてなかったけど手紙の内容はそんな感じで短かったと記憶しています。通帳の額はそれなりの葬儀などができる金額で、不思議な事ですが一ヶ月前にその金額が全額一括で入金されていました。自分の最後を予見していたのかもしれません。母親は叔母の気持を汲み取ったのか、自分が率先して喪主を務める意を決めました。僕も出来る限り手伝い、近場の葬儀屋などをあたり、遺体を見送る段取りを二人で固めていきました。
「湯灌をしてあげたい」と母は霊安室で化粧をしていない叔母を眺めながら言いました。
湯灌とは仏葬で死体を棺におさめるまえに湯でふいて清めることです。もちろん湯灌するには結構なお金がかかりますが母親が少ない小遣いでその分を賄いました。僕と母親はこれから葬儀が行われる会場で叔母の湯灌を見守っていました。参列者が座る椅子の最前列に、僕と母親は座って、きれいな身に変わっていく遺体を黙って目視していました。黒服に身を包んだ二人の中年女性が無駄のない動きで叔母の遺体を、湯が含んだタオルで拭いていきます。一通り身体を湯で清めると、1人の中年女性が手際よく、叔母に化粧をしていきます。もう一人の中年女性が遺体にきれいなローブを着せていきます。二人の中年女性の作業はそれほどかかりませんでした。
湯灌という儀式は終わりに近づき、天国に送る準備が整ってきました。化粧をして元の姿に近づいていく叔母を見守っていた母親はフェイスタオルで目頭を押さえていました。すすり泣くかすれた声が僕の耳元に届いてきました。僕も胸が熱くなりましたが何故か涙が鼻筋を通ることはありませんでした。
僕は湯灌を眺めながら何を思っていたのだろうか。実際何を考えていたのか自分でもわかりませんでした。地平線に浮かぶ漁船をただ砂浜に座って眺めているかのように、湯灌を黙って眺めていました。母親は一向に涙が止まりません。遺体が綺麗になっていく度に母親の泣き声は大きくなっていきました。しかし僕の感情は母親の感情と相反して「無」になっていくのです。砂浜に座って地平線に浮かぶ漁船を眺めている僕の心はここにあらず。
「久しぶりに泣いたわ」
「これでお姉さんも天国にいっても恥ずかしくない」
母親は一年分の涙を流したと僕に言った。でも僕から涙がこぼれ落ちることはなかった。こんな自分が嫌になったことは幾度もある。自分は何故か涙を流すことが不得意だった。昔から、幼い頃から。悔しかったり、何かに感動したり、侘しい体験をしたり。それでも涙が頬を横断することはありませんでした。自分は冷酷な人間じゃないかって、こういう不幸があるたびにそう感じるのです。泣ける映画や本をたくさん周りから教えてもらいました。その紹介してくれた映画や本が擦れるぐらい何度も読み物語に感情移入しましたが、結局涙を流すことはできませんでした。自分には感情というものがあるのだろうか。でも、お腹が痛くなるまで笑い転げて泣いたことがあるから、それなりに別の感情はあるのだろう。ただ、人の死や別れ、失恋。一般的に人が寂寥感を抱くときの感情に僕の涙腺は反応を示さないのです。
今思うと、僕の隣人であった85歳の爺さんもたぶん同じなんじゃないかって勝手に推測しました。爺さんは自虐ネタが大好きだったけど、いつも前向きであったし泣き言など一切口にしなかった。先立たれた妻を看取った後も、たぶん爺さんは泣かなかったと思う。何事にも粘着気質ではなかった爺さん。たぶん僕と同じように砂浜に座って地平に浮かぶ漁船を眺めるかのように妻を看取ったのではないかと勝手に想像しました。穏やかな表情を浮かべるのではなく、睥睨するかのように眺める爺さんのしわくちゃになった瞼が容易に想像できた。僕は爺さんのずんぐりむっくりとした背中を目の前にオーバーラップさせていきました。爺さんは何故孤独を愛し孤独をいとも簡単に受け入れることができるのか。むしろ僕は叔母の生涯よりも、想い出に執着しない爺さんの姿をその場でフェーズさせていたのかもしれない。
湯灌が終わると通夜がはじまりました。少ない参列者に丁寧に頭を下げていたら、あっという間に叔母の遺体は空の塵になりました。火葬が終わってもまだまだやることはあるのです。一番大変なことがまっているのです。僕と母親しかその作業はできません。
そう。叔母の遺品整理です。
僕と母親は電車に乗って叔母が住んでいたアパートに毎日通いました。叔母が住んでいたアパートは僕の実家からそう遠くはありませんでしたが駅からはだいぶ離れた場所にあったため、毎日通うにはそれなりの労力が必要でした。叔母のアパートは戦後からそう遠くもないときに建てられたのもので木造建ての朽ちたものでした。あの綺麗好きで洗練していた叔母が住んでいたアパートとは思えませんでした。
お風呂がない1Kのアパート。ここに来る途中、銭湯を目にしたので、叔母はきっと熱い日も寒い日もあの銭湯に通っていたのであろう。叔母がまだ離別する前に住んでいた一軒家には何度か足を運んだことはありますが、今日訪れたアパートははじめてです。母親も何度か訪れたことはある様でしたが、その朽ちたアパートのドアノブを握るたびにに深い深い溜息をつきました。
残り僅かな余生を過ごすには静かすぎる部屋は綺麗に掃除がされていました。きれい好きであった叔母だから入院する直前まで掃除を欠かさなかったのであろう。物は散らかっていなかったし、洗濯物などがむき出しになっていることもなかった。しっかりと整理整頓されていて部屋はしんとしていました。そこにあるはずが無いもの。それは叔母の姿だけといったところでしょうか。
叔母の1Kアパートはそれほど広くありませんでしたが収納には荷物がたくさん入っていたので時間を要するだろうと想像できました。仏壇のようなものもあったし、日本人形もありましたので、これは一筋縄ではいかない事が玄関に立つだけで確認できました。
特に横浜市はゴミの分別がとても厳しかったので明日捨てられる物をカテゴリー分けして一日ごとに捨てていきました。効率よく動いていたつもりですがイメージ通りうまくいきません。やはり遺品整理というのは、ただの断捨離とは違うものがあるのです。
ひとつのものをゴミ袋にまとめる前に一度叔母のことを振り返らなくてはならないからです。叔母は韓流ドラマにハマっていました。その中でも人気であった俳優のグォン・サンウが大好きで、部屋の至る所にポスターやプロマイドが飾ってありました。母親も僕も特にグォン・サンウに思い入れはありませんでしたが、それすら捨てるのに半日は要しました。まとめて捨てるだけなのに、遺品整理は単純なことを難しくしてしまうきらいがあるのです。
数日後にはアパートを空にして引き払わなくてはならない。ところが一向に作業が前に進まないのです。僕の引っ越しは部屋を空けるのに半日で終わってしまったのに、1週間が経っても遺品整理のゴールはみえませんでした。こんなとき、あの爺さんが助けにきてくれたらな、と一度は吐露したと思います。
こういう遺品整理は身内がやるよりも業者に任せるのが一番だなと痛切に思いました。全てのものを廃棄するんだから簡単に終わるはずなのに想い出が邪魔して物事が進まない。その住人に思い入れのある人物とは全く関係のない人間なら、僕の引っ越しのようにあっという間に作業を終えていただろう。僕と母親は少し後悔しながら少しずつゴールを目指してきました。
ところがキャスターが隠していた納戸を発見。その中には、ミハマのシューズボックスがビッシリとつまっていました。やれやれだ。僕はそのミハマのシューズボックスの数を数えながら中身を確認しました。シューズボックスの数は25足。中には一度も履いていない未使用な靴もあって、状態の良いものばかりでした。パテントレザーやタンニンでなめしたシューズ。どれもこれも綺麗に磨かれて艷やかでした。足元にも人一倍気を使う辺りが叔母らしい。自分も足元からオシャレを楽しむ思考なので、叔母のシューズギャラリーを眺めていると気持ちが良かった。全てのシューズボックスをあけて中身を確認すると、叔母が長きに渡って集めたコレクションを、跡形もなく廃棄しなくてはならないことに些か空虚感を抱く。
しかし、時間が残されてないので、そのシューズギャラリーを一気に廃棄すると作業ペースが何故か加速するように早くなった。
「こんなところに閉まっておいたのね」
納戸から離れた場所で遺品整理をしていた母親が言う。母親は三面鏡の椅子の前でひざまずいていた。三面鏡の椅子は上のクッション部分が開くようになっていて中に物を収納することが出来る。母親と僕はそれに気がつくことなく作業に没頭していて、ノーマークでした。中に大切な叔母の全財産が閉まってあったのです。1つのメインバンク。銀行の通帳の束。定期はなく普通貯金。黒いフェイクレザーの巾着の中に繰越順に通帳がしまってあったのです。
叔母は繰越前の通帳もしっかりと保管していました。一番新しい通帳をみるとそれほど多くはありませんが、独り身の女性が余生をひっそりと暮らすだけの預貯金が確認できました。その通帳を1ページ1ページ月日を過去に遡っていくと、1つの法則が見えるように入金が繰り返されているのです。次の日も、次の日も、またその次の日も、半年前も、数年前も。たぶん入院する直前まで、入金は休むこと無く行われているのです。通帳から確認できたことは毎日叔母が銀行に通っているということです。たぶん雨も降っていたでしょう。風が強い日もあったでしょう。熱い日も西日が強い日もあったでしょう。それでも休むこと無く銀行に通う叔母の後ろ姿が目に浮かんできました。毎日1000円ずつ叔母は入金を繰り返している。何故このような習慣であったかもう知ることは出来ない。兎にも角にも365日休むこと無く、叔母の日常が繰越された通帳から確認できるのです。
僕と母親は1000円が乱れること無く刻まれている通帳を飽きること無くずっと見ていました。ページを捲っても同じように日付と1000円が刻まれているのです。そのとき僕の目頭がとても熱くなっていくのが明確にわかりました。僕は泣いていたのです。もちろん向かいにいる母親も泣いていました。
僕も泣けることがあるんだな。叔母が1人で1枚の千円札を持って銀行に足繁く通う姿を想像していたら不思議と涙が溢れてきました。何故、涙のスイッチが突然オンに切り替わったのかわかりませんが、たぶん僕は砂浜に座って地平線に浮かぶ漁船をただ眺めていただけではなかったのです。
自分以外の人間の一生はそのレールを沿ってきた人間しかわかりません。でもそのレールの一部がどうやって組み立てられているのか。少しでもその時系列を知ることが出来れば自分以外の人間を理解できた気がします。それと同時に本当の感情移入が出来るのだと僕は認識しました。今までの僕は何処か遠くで人を俯瞰してみていて、距離を縮め寄り添う気持ちが欠けていたのかもしれません。
ただ黙って砂浜に座って地平線に浮かぶ漁船を眺めていただけなのです。その漁船の上にも1つのノンフィクションがあるのです。そこには船頭さんがいて漁師がいるのかもしれない。その漁師は妻に先立たれたのかもしれない。
小さな漁船の上にだって数え切れないぐらい幾多のドラマが存在する。僕は幅広く想像力を働かせていなかったから涙をながすことができなかったのかもしれない。
僕と母親は遺品整理をすることによって叔母の生涯を何となくつまびらかにすることができました。それは叔母にとってごく一部の生涯かもしれません。でも僕と母親の胸中では叔母の存在が死ぬ前よりも大きく膨らんでいくのです。叔母が生きてきた証を確認することが出来て僕は胸に支えていた、しこりのようなものを除去できました。
霊園に向かう電車の中で僕はあの爺さんのことを思い出していました。きっとあの爺さんだって一度や二度、泣いたことあるだろうと、僕は声に出さずつぶやきました。
爺さんがその後どうなったかわかりませんが、記憶の一部、生涯の一部として、これからも僕の脳裏の中で、爺さんは生き続けるのです。
それは僕が死ぬまでの間、叔母の生涯とともに、どこかしらでオーバーラップしていくのです。
おしまい








