8月16日というのは京都市内では「五山の送り火」が行われる日である。学生として京都に4年間いたのに、意識して送り火を見たのは大学4年の時の1回のみである。心の中で

「これが最後になるかもだから、見ておくか。」と思ったのかもしれない。いつもの夏なら

夏休み期間なので知り合いは帰省して誰も残っていない時期なのだが、流石に4回生*注1ともなると就職活動や何やかやで残っていた下宿生が多かったので、缶ビール片手に集まったものだ。一つ覚えているのは・・・。同じ方向へ歩いているのだが、道路を挟んで別の歩道を歩いていた私に向かってhopperさん(マシーン軍団*注2)が「おい、ハリー!」と叫んだので声の方を見ると犬が「キャイーン」と鳴いたのだ。「え、犬を踏むところを俺に見せたかったの?。」と聞くと「バカ、たまたま踏んでしまったんじゃ。そんなことするか。」「ここまで酷いヤツとは思わんかった。」「だから、違うって。」とかいう会話をしたことか。全く大事なことは覚えていないのに、くだらないことは覚えているものだ。

 

*注1 大学4回生・・・通りがいいのは「大学4年生」という表現であろうが、京都では

「〇回生」という表現が主流である。この呼称の由来は京都大学にあると言われ、数字は在籍年数を表す。例えば大学4年生でも留年を2回すれば「6回生」である。

 

*注2 マシーン軍団・・・私が大学時代に加入していたサークルに所属していたメンバーの内、知県在住の3人を称する。呼称の由来はメンバーが英国のロック・バンドであるソフト・マシーンの愛好者であったため、そこから。構成員はRatledgeさん(先輩)、Hopperさん(同期)、Wyattさん(後輩)。今や在住はしていないが媛県生まれの私は勝手にAyersを名乗り勝手に準構成員を主張している。大事なのはである。

 

   

 

7)西部八月 ( PANTA :近藤等則:山口冨士夫 etc  ) 

           /    1992年8月16日 京都大学西部講堂前広場特設野外劇場

 

1992年、当初は久しぶりに送り火を見ようと思っていただけだが、この日は西部講堂前広場でライブがあることを知って、そちらを見に行こうと予定を変更。1年ぶりにPANTAを

しかも西部講堂前広場で見ることができるし。送り火を見るのが目的でなくなったから「当日は雨でもいいな。」と思った。何故なら雨天の場合はライブが講堂内で行われるから。

結局、その日はいいお天気で、それは夜も変わらず。講堂内には入れなかったが薄くなっていたものの屋根の三ツ星は確認したからいいか。

 

前日の土曜日はフリクションとニューエスト・モデルが出演したので、それも見たかったのだが、流石に出不精がここで物を言ってしまった。(笑)で、16日当日である。ジャズや詩人のパフォーマンスが続き、「この混沌が西部講堂らしいのか、いや昔のフィルモアもこんな感じだったろうか。」といつもの妄想が頭を過る。近藤等則の演奏は切れ味鋭かった。

そして、PANTAの登場。バックはTHE  GROOVERSの面々。TOSHIも加わると、まるで頭脳警察ではないか。西部講堂を背景に聴く『オリオン頌歌』が何と神々しく響いたことか。

 

PANTAの演奏が終了した時点でかなり夜は更けていた。明日は仕事なので私はここで退席。

まだ住居は池田市なので、そこまで帰らなければならないのだ。よって、この後の演奏は見ていない。チラシに書かれてあるボアダムスが演奏したのかどうかは知らない。よって山口冨士夫の演奏も見ていない。本稿「時間旅行 第三幕」で「テツ山内を見なかった」と書いたのはこの日の話である。テツと冨士夫は同じステージに立った。

しかし・・・。後日、山口冨士夫がとんでもなかったという話を聞いた。

 

冨士夫とテツはこの日のトリで出てきたのだが、双方かなり酩酊していたようで曲にすらならない自由すぎる演奏を展開し、散々ヤジられて20分ほどでお開きになったとのこと。

この時の楽屋の様子がどうだったかをGROOVERSの藤井さんに聞いたことがあるのだが、

「それはもう・・・・。」ああいうステージになるのは仕方なかったことが伺える話で

詳しく書ける話でもないのでお察しいただきたい。後日、この日の冨士夫の演奏を録音した

テープを当時の知人から貰ったのだが一聴して捨ててしまった。(笑)

私はその時はまだ知らなかった。この3年後に、この日の冨士夫の演奏が可愛く思えるほどの雑音を恐ろしい音量で40分間も灰野敬二に浴びせられることになろうとは・・・。(笑)

 

何はともあれ、京大西部講堂を体験(!)できたのは間違いない。あの日、世界で最も美しくて最も神聖な劇場が現出したかどうかはさておき・・・。

 

      

 

幕間

 

さて、年も変わって1992年。昨年住んでいた京都を引き払って今度は大阪は池田市の

住人となった。職場が新大阪駅の近くにあったので朝は激混みの阪急電車での通勤である。

毎日イライラのしっぱなし。朝起きて煙草に火を点けると、今日一日のブルーズが始まる、

そんな毎日である。朝からゴキゲンならいいのだが、毎日朝から憂鬱、雨が降れば輪をかけて憂鬱。こんな気分を晴らすのは「BLUES」しかないのである。

 

   

 

6)ジャパン・プルース・カーニバル’92(ジュニア・ウェルズ:ボ・ディドリー:憂歌団)

                        /      1992年5月24日 大阪野外音楽堂

 

1986年に始まり、2022年まで続いた長い歴史を誇るジャパン・ブルース・カーニバル。私が見に行った1992年は第7回にあたり、3組の演者が出演した。この年はオーティス・ラッシュも来たのだが、大阪はこの3組。この3組を一度に見られるのなら何の不満がありましょうか。この日はこれから各地を廻るブルース・カーニバルの初日である。

 

大阪野外音楽堂は前に椅子席があり、後方に芝生席が広がる。私は芝生席で時にゴロリと横になったりしながら、のんびり座って見た。幸い、酷い酔っ払いや立ち上がる人が多くなかったので、後ろからでもゆっくりしっかり見ることができた。よくいるじゃないですか、ブルーズとかストーンズ(笑)を聞く時に酒飲んでないと音に浸れないヤツ。形から入るなって話で、私は今だに酒も煙草も嗜むが、そんな格好悪い聴き方はしない。あ、私は前の客が立ち上がるのを嫌がる人ではないですよ。私も立ち上がるだけなので。背が低い方ではないので、そうなれば後ろの人には少しばかり申し訳ないが。

 

コンサートのチラシの裏面のミュージシャン紹介に於いて、ジュニア・ウェルズはバディ・ガイを伴わない本当の単独での公演であることが強調されている。私的にはむしろ、これで良し、ジュニア・ウェルズがギタリストに忖度しない演奏をするところが見たかったのだ。

最初はバンドに演奏を任せ、2曲目から登場するのはジェームズ・ブラウンのようで格好良かった。演奏が始まってすぐ「どの人がジュニア・ウェルズ?。」なんて同席者に聞くお姉さんの声が耳に入ったが、またしても勝手に心の中で「まだですよ、これから登場します。」と応えてしまったダメな僕。大阪には来なかったオーティス・ラッシュもそうなのだが今回はシカゴ・ブルース色の強い面子を集めた、ということで呼び屋のセンスの良さを感じる。

 

憂歌団は一度は見たいと思いながら、見る機会がなかったので、この時に見ることができて本当に良かった。学生時代、磔磔で憂歌団を見てきたという後輩が楽しそうに話すのを聞いて羨ましかったので。話に聞いた通り、何かの映像で見た通りに酒が入りながら、緩く楽しくステージは進行した。「ブルースは絆」とはよく言ったもので憂歌団は永遠に続くと勝手に思っていたのだが、バンドは1998年に解散してしまい、現在存命なのは木村と内田の「憂歌兄弟」のみになってしまった。そういえばジュニア・ウェルズが没したのも1998年であった。

 

ボ・ディドリーの初来日は1988年のロン・ウッドとの共演で実現したが、私はそれを見ていない。ミック・ジャガー来日ばかりに気を取られてボ&ロンには不義理を働いてしまった(笑)のだが、ボ自身がブルース・カーニバル初参加となった92年に私が見ることができたのも何かの御縁ということで。88年のライブの時とバックの面子が同じなのかどうかはわからないのだが、ボが2008年に亡くなるまで共に活動した女性ベーシストのデビー・ヘイスティングスは間違いなくいた。主役のボ・ディドリーはいつものよう四角いギターを掻き鳴らし、お馴染みのリズムでお馴染みの歌を唄いステージを終えた。

 

新しいものは何一つなく、昨日や去年と同じようなステージの繰り返しなのかもしれない。

それを了解していたとしても、生業として演奏し続けるのはかなりタフな精神を要求されるのだろうな、なんて勝手にわかったような事を考えながらも、今日一日が楽しかったことに感謝したりもするのだ。確かに今日は楽しい日曜日であった。しかし、私も理解していることがある。

 

明日の朝、目覚めて最初の煙草に火を点けたら、また変わり映えのしないブルーズが始まることを・・・。

 

            

 

幕間

 

        

 

気になった記事をネットで見かけたので私の所感を少しばかり。

 

中日ドラゴンズのコーチが車を運転中に自転車と接触事故を起こし、業務上過失傷害で書類送検されたという、あのニュースを読んで疑問に思ったことがあるのだ。

 

今回の事故は左折しようとして前方右側から歩道を走ってきた自転車と接触したという。確かに前方不注意で過失の度合いから言えば車の運転手に非がある。しかし、問題は自転車を運転していた女は被害者面で何のお咎めも無しでいいのか、ということである。「歩道」を走っていて、しかも右側走行の所謂「逆走」をしたのに、である。

 

2026年4月1日の道路交通法改正で、自動車が自転車を追い抜くときのルールが異様に細かく定められた。実用的でないとしても、「道交法を守って普通に走る自転車」は自動車と比べれば弱者なので致し方ない側面はあるだろう。同じく2026年4月に自転車の交通反則通告制度が制定され、「歩道走行」「逆走」は明確な「通行区分違反」となった。。自転車の交通反則通告制度は違反が直ちに反則金徴収には繋がらない。警察の指導を無視したり悪質な場合に適用されると極めて曖昧なことになっている。しかし、今回の様に相手がいる場合は車側の過失ばかりを問うてよいのか。明らかな違反を二つも犯している自転車の運転者をお咎め無しの「無罪放免」するのであれば、自転車の悪質な運転は無くならないと懸念するのだ。

 

実は私も10年位前に同じような経験をした。仕事帰りにいつも通る片側一車線の道を住宅街に入ろうと右折するのだが、信号が赤だったので止まって青になるのを待って右折。

右折すると運転席から見て右側になる先ほどまで私が止まっていた道路の対向車線には路線バスが停車していて見通しは悪い。なのでおそるおそる減速して侵入。そこへ自転車が突っ込んできて私の車の運転席側のドア前方に衝突したのだ。

 

バスが停車場に止まっているため車道は塞がっていたので、自転車は「歩道を走行」、おまけに右側通行の「逆走」である。信号が変わってからの発進であるのと右側のバスを障害物として認識していたのでスピードが出ているわけもなく、おまけに車の前方で撥ねたわけでもない。実況見分では一方的に私の過失とされた。車対自転車なので車を運転していた私の過失は認める。しかし、何を主張しても自転車側には一切の過失は問われなかったことには大きな不満を抱いた。「こんな見分しかできねえから検挙率が低いんだよ、茨城県警は。」と

思ったものだ。当時はまだ2026年4月以降のような法改正は実施されていないのだが、

それでも後に改正されたということは、私の主張はある程度は筋が通っていたことだと解釈してもいいと思う。当たり前だが新しくできた法律は過去には遡及されない。故に法律制定後は正しく確実な運用が求められる。

 

今回の中日コーチの事故の件に話を戻すが、自転車側には必ず罰則を科すべきである。こういうことを書くとすぐ「見せしめか。」という輩が出てくる。法律運用や裁判での判決の際に何が大きな指針となるかというと、それは過去の判例、過去の運用例である。ここで、

何も無いといつまで経っても自転車の「青切符制度」は正しく運用されず、デタラメな走行に運悪く出くわした車の運転手がだけがイヤな思いをする結果で終わってしまう。警察に反抗的だったり悪質と判断するようなものでなかったとしても、ここは必ず自転車側に罰則を

科さなければならない。そうでないと、車側に告げられる「業務上過失」という言葉の意味さえ無くなってしまうのだから。

 

書いているだけで腹が立ってきた。腹立ちついでに暴論を言えば「夜間、無灯火で走行する自転車が対自動車の事故に遭遇した場合、状況によっては自動車側は無過失とする。」位の

条文があってもいいのだ。自転車の夜間点灯は自身の位置を知らせ、危険をいち早く察知してもらう意味合いがあることもわからないバカな自転車運転者が多いのだ。自転車を使用する者の意図に関係なく整備不良を含めて夜間無灯火は「青切符条例」の運用を重くして50、000円(現行の道路交通法第52条で定められた金額)の即時納付とするのはどうだろう。自転車は「軽車両」で車両としての交通ルールが適用されるのだから、一方的に自動車のみを悪く扱うのは止めようぜ。

 

最後に。

掲載写真は本文とは関係ありません。私は中日ドラゴンズのファンではありません。

 

昨日の懐古録で、最初の仕事を辞めてから仕事は更に三度変わったと書いた。最初の仕事を辞めた日を2月25日と覚えているのは、その日に頭脳警察のライブを見たからであって、他の仕事を辞めた日は全く覚えていない。おっと、先日というか今年の3月31日は別にしての話。(笑)で、最初の仕事を辞めてやることもないので、ふらりと京都に舞い戻ってきた。

 

  

 

5) トッド・ラングレン  / 1991年6月2日 長岡京記念文化会館

 

「金も無いのにコンサートに行くんかい!。」という誹りを受けるような相手もいないので

何をしようと勝手気まま。気分転換の意味合いもあるし、まあ他にもいろいろな意味合いが

あった(笑)のだが、トッドのコンサートに行こうと思い立った。長岡京記念文化会館という会場も興味があったし。ようするに、ライブハウスやコンサート用のアリーナでない会場でのライブを体験できる機会はそんなに数多くないので、行ってみたいという気持ちが強くなったのだ。

 

当日は日曜日で開演は割と早い時間だった。小雨の中、会場を待って並んでいると並んでいる人の話し声が聞こえてきた。「ユートピアだったらもっと良かったのに。」と聞こえたのだが、私は「何言ってんの、勘弁してくれ。ソロ名義だからいいんじゃないの。」と、心の中で見知らぬ人の会話に応えた(笑)のだが、多様な活動を行うトッドならではの話だ。

 

直近にリリースされたアルバム「2ND WIND」と前作「NEARLY HUMAN」収録曲を軸に演奏は進んだのだが、コンサート終盤に以前ブートレグで聴いたことがあるマーヴィン・ゲイ・メドレーを演ってくれたのが嬉しかった。近年の来日コンサートのようなヒット・パレード大会でなく、リアルタイムの新譜をプロモーションするような現役感覚溢れる時期のトッドの演奏を聴くことができた意味は大きく、私は幸福な気持ちで家路についたのであった。

誰かのコンサートと違って客質も良かったし、そっくりさんもいなかったし。(笑)日が高かったせいか酔っ払いがいなかったから余計にそう思ったのかも。帰りに乗った阪急電車で紳士淑女面した老夫婦が偉そうにロングシートに荷物を置いて座席を占領している様を見れば、ロック・コンサートに来ていた客の方が余程真人間に見えたぜ。(笑)

 

幕間

 

深夜の大きな地震で飛び起きてしまった。体感的には「3.11」の次くらいに大きな揺れで久々に緊張してしまったのだが、幸い我が家の「CD山脈」はそれほどの崩れを起こさず助かった。(笑)目が覚めてしまったので駄文を書きなぐることにする。

 

高校時代は洋学偏重の聴き手であったが、大学生になってより多くの情報を得ることができるようになり、過去の日本のロックを省みるようになった。モップスやジャックスと同様に

いや、それ以上にのめり込んだのが頭脳警察であった。市役所横にあった今は無き「HOT

LINE」でZKのセカンドを1800円で手にして以降、PANTAのソロを含めて盤を探したものだ。探し方が下手だったせいもあって遅々として収集は進まなかったが、1990年に

頭脳警察のカタログは1STを除いて全てCD化され、そこで一網打尽。(笑)リアルタイムの新譜としてリリースされた「頭脳警察7」も歌詞と演奏の両方が良かったので、何を歌っているかさっぱりわからない(笑)洋楽から日本のロック寄りに、再度嗜好の舵が切られたのである。当時のバンド・ブームとかは全く関係が無い話で、その時の私はCDを売る仕事をしていたのにバンド・ブームを理解していない(というか、くだらないと思っていた)のも今思えば可笑しな話ではある。子供の頃から私の根底にあると言われた左翼思想(何度も言うが本人は意識していないし、人によって判断の基準も違うとは思うが)と通底する部分があったのかもしれない。いや、ロックというのは言いたいことを主張するものだろ、という気分が大きかったのだ。ロックが反体制である必要は無い。その時その時の主張を

大きな声と音で遠くまで届けるのがロックであると今も思うが、その考え方も最早、古臭いものになってしまった  

 

  

 

4) 頭脳警察 / 1991年2月25日 名古屋  CLUB  QUATRO

 

社会人になって二年と半年が過ぎた頃から、漠然と「ずっとこの仕事を続けていいものか。」と考える時間が多くなった。親会社が流通大手で、その子会社で本やCDを販売する仕事、というのは若いうちは楽しいかもしれない。接客業だからアホな客に理不尽な事を言われたりすることもあるが、それはこの仕事に限ったことではないからさておき(勿論、腹が立つしいっそ暴力で解決出来たらと思ったことすらある。)勤務シフトも不安定であったので、そろそろ潮時かなと考えていたのだ。で、結局最初に就いた仕事を辞めることにした。大学4年の就職活動には多くの時間をかけ面倒くさい思いをして仕事に辿り着いたが、辞める時は実に簡単であっさりしたものだ。厳しいことを書くようだが、自分の意思を他人に伝えてもらって仕事を辞めたヤツを私は信用しない。短期間で辞めることになるのは仕方ないことかもしれないが、自分の意思を自分で伝えることは大事である。二度ある事は三度あるぜ。現実逃避はそんなに簡単なものじゃない。付けは必ず回ってくるし、回ってくるべきである。

冒頭で書いたことと関連するが、自分の主張を他人様の口を使って伝えるのは、ロック者の

視点で見ればおそろしく格好悪いのだ。例え日々の生活で妥協点を探し、たまに出くわす理不尽な事柄に頭を下げる生活をしてきたとしても、だ。

 

仕事を辞めようと決心して1991年の年明けすぐに辞表を出し、ほんの少しの溜まった休みを消化し、会社が借り上げた住居を出るまで日数があったので何か近場で見ることができるライブはないかと探して見つけたのが頭脳警察のライブであった。2月25日という日付は私が会社に在籍する最後の日でもあったので、「記念に丁度いいや。」とばかりに見に行くことにした。万物流転1991TOURには「最終指令自爆せよ!」というサブタイトルというか合言葉のようなものがあり、それが当時の私の気分にピタリと合致したのも気分を

高揚させた。

 

ライブはアルバム「頭脳警察7」収録曲を中心のセットであるのは当然として、当時はまだ再発されていない「頭脳警察1」収録の『赤軍兵士の詩」や曲自体がこの時点では未発売の『最終指令”自爆せよ”』を聴くことが出来たのが嬉しい驚きであった。アンコールを含むコンサートが終了し客電が点いて客の何割かが退出したその時、PANTAとTOSHIがステージに戻ってきて更に演奏を始めたのも印象に残っている。残念ながらその時に演奏した曲名が思い出せない。(笑)しかし、このライブを見た私の最大の収穫は素晴らしいギタリストの存在を知ることができたことだ。男の名前は藤井一彦。THE GROOVERSの歌とギターを担当する男で、彼が如何様に弾くかであの時期のZKのサウンド面での色合いは決定づけられたと言っても過言ではないだろう。以降、私はTHE GROOVERSを追いかけることになるが、それはまた別の話。

 

最初の会社を辞めて以降、私は自分の協調性の無さや堪え性の無い性格のために、更に

三度職を変えることになる。そして、そのいずれの判断も一度たりとも後悔してはいない。

最後の会社は三十数年務めたが、私の前歴を知った後輩の何人かは「それだけ何回も転職したのに、よくここには長く居れましたね。なんでですか?。」と聞いてきた。私の答えは

決まっていて「それは。ここが一番楽だったから。」と答えることにしていた。それを聞いて後輩たちは「しまった、聞くんじゃなかった。」という反応を一様にしていたのがまた

面白かったのだが。

 

クアトロではニック・ロウも見たな。大須にあるエレクトリック・レディ・ランドにも

行ったし、短い東海地方での生活であったが、それなりに楽しかったものだ。

1991年2月27日東京渋谷公会堂で自爆をとげたZKであったが、翌年思いもよらぬ

形でPANTAのライブを見ることになるのであった。

 

            

 

 

幕間

1988年の年明けぐらいから暫くは何をするでもなく、日頃の怠惰な生活に更に拍車がかかった状態であった。4月になると晴れていようが曇っていようが、社会人になる。というか、社会人になってしまう、と鬱々とした気分に支配されていたのだ。そろそろ、身辺整理をしなければとか考えはするが、手持ちが無い。(笑)「引っ越しの段取りをどうしようか」

とか、今のように携帯電話が無い時代なので「固定電話の権利を買わなきゃ」とか何かと

金が要り用だ。そんな中、飛び込んできたのがミック・ジャガー来日の報であった。

 

  

 

3)ミック・ジャガー / 1988年3月15日 大阪城ホール

 

1988年の時点で一番好きなバンドはローリング・ストーンズで間違いなかった。誰もが

ストーンズの来日なんて、夢のまた夢と思っていた時代に単独とはいえミック・ジャガーを見ることが出来る、という知らせは吉報以外の何物でもなかった。金が無いのは変わらないが「これは行くしかない。」のである。「学生生活を締め括るのに、丁度いいイベントではないか。これで何らかのけじめをつけよう。」と思ったのだ。手持ちのレコードを数十枚売り払い、先に挙げた諸経費やコンサート代を捻出し、身も心も準備万端で3月15日を待った。この日はミック日本公演の初日である。

 

コンサートにはかつてのバンド仲間二人と、愛媛から来た高校時代の友人との4人で出かけた。和気あいあいと会場について驚いたのは・・・・・。そこら中に「なんちゃってキース・リチャーズさん」が居たことであった。(笑)流石に成りきりミック・ジャガーさんは

コスプレが難しいこともあるのか、私は出会わなかったのだが、それでも想像してほしい。

そこらへんの人がどうやってキース・リチャーズさんになったのかを。(笑)

エルヴィス・プレスリーのそっくりさん大会に登場する素人さんのコスプレは皆が一様に

70年代の「もみあげ、フリンジ付きジャンプ・スーツ、おまけにデブ」である。果たして

それが格好いいと言えるのか?。何で50年代のプレスリーがそこにいないのか?。

 

正に、大阪城ホール周辺で見かけた数々のキース・リチャーズさんは、プレスリーのそっくりさんと同レベルで格好悪かった。皆、顔が似ていないせいか一様にサングラスかけてるし。(笑)私は心の中で問うた。「お前ら、普段は何処に潜んでいるの?。どこから涌いてきたの?。どこで働いているの?。」もうすぐ社会人になる私より幾分自由そうに見える彼らへの妬みが少しあったのは事実だろうが、それでも辟易したのも事実。しかし、我に返ってしまったのは、愛媛の友人がキースさんとすれ違うたびに声を出して笑うので、流石に注意しなければと思ったので。(笑)昔から同族嫌悪の節があるので、私は今の今まで一度も

ストーンズ村の人間とは群れたことが無いのだが、これは私にとっては健全なことで風通しが良くて心地いいことなのだ。ストーンズの演奏する音楽が核にあったとしても、そこから

どこまで遠くへ行って様々な音楽を楽しめるか、ということが私には重要であったのだから。

 

コンサートは私にとっては感動そのものであった。席は決して良くはなく2階席であったが

ステージ脇であったために、動き回るミックが接近すると滅茶苦茶近くで見ることができたのだ。長めに伸ばした髪が格好よくて、女の子でもないのに「ミックぅ~」とハートマーク付きで叫びたい気分であった。(笑)オープニングはまるで「LOVE YOU LIVE」を彷彿とさせる『HONKY  TONK WOMEN』で、続けて最新ソロ・アルバムの『THROWAWAY』へと繋がる流れで一気に掴まれて気が付けばコンサートは終わっていた。ドラムが何でまたコイツなの?と嘆きの一つも出るサイモン・フィリップスであったのが唯一の欠点か。サヌカイトを使った打楽器で『SYMPATHY FOR THE DEVIL』に参加したツトム・ヤマシタを見ることができたのも予想外の出来事で嬉しかった。アイランドから出たソロ・アルバムを後日手に入れて、それを聴きながら「テツ山内は見れなかったが、ヤマシタは見たもんね。」なんてことを思ったものだ。(テツ山内は後日見る機会があったのだが、見なかった。それは後に記す。)

 

コンサートが終わって京都に戻り、最寄りの駅を降りてトボトボと歩きながら家路に向かった。夜も遅くなり意外と静かに眠る街並みを横目で見ながら、うっすらとモラトリアムの

終わりを感じた。そして以降は格好悪い「自分探し」はしないと決めた夜でもある。

ミック・ジャガーを見たこの日も、後日に名古屋ボトムラインでミック・テイラーを見た時も、この後ストーンズの来日が実現するなんて想像すらしなかったのだが、2年後にお祭り騒ぎが起こったのは皆さんご承知の通り。

 

幕間

1981年に甲斐バンドを見て以降、高校時代は結局なんのコンサートにも縁が無かった。

レコードを聴きたい、集めたいという欲求の方が強かったし、興味の中心が洋楽へ移ったというのもあるし。その後高校を卒業して大学生になり京都市内に住むことになる。何回も書いたが当時の住居から徒歩圏の会場であった京都府立体育館で行われたブルース・スプリングスティーンのコンサートを見なかったことが、私の「ライブ観戦史」に於ける最大の後悔である。などと、尤もらしいことを書いているけれども京都市に住んで2年経っても何一つライブを見ていないのは、やはり生来の出不精故か。

そんな私の二度目のライブ体験は、「外タレ」であった。(笑)

 

  

 

2)ジェフ・ベック / 1986年6月6日 大阪フェスティバルホール

 

これは自分から「コンサートを見たい。」と思ってチケットを取った訳ではなかった。

当時組んでいた学生バンドのヤツらがチケットを取ったのが回ってきたのだ。「これはハリーも見に行きたいやろから券取っといたわ。」と言われたのだが、本当の処は怪しいものだ。「単に余っただけやろ。」と思ったが、見たくないわけでもなかったので付いていった。勿論、金を払って。(笑)コンサートに一緒に行ったメンバーは当時組んでいたバンド(2年ほど続いていた)のメンバーが3人(G、B、KEY)、前に所属していたメンバー(G)が1人、私(DS)の計5人でダラダラと出かけた。そういえばボーカルのメンバーはいなかったな。

 

ジェフは見たいが、久しぶりの新譜であった当時の最新アルバム「FLASH」で歌ったジミー・ホールを「糞だな。」と思っていたので、「どうなることか。」と思ったが悪い予感は

大きく当たった。ジェフのギターは極上の鮮度を誇る生ものそのもので、フェスティバル・ホールの音の良さもあって感動したが、歌入り曲になると歌が邪魔に思えて仕方なかったし

何よりその時のドラムが私の天敵サイモン・フィリップスであったのが辛かった。サイモンがフィルを入れる時のタメのタイミングが私のタイム感と全く相容れなくて、「ああ、なんでコイツなんだよ。」とそればかり思っていた。私の前の席にはワンレングスのお姉さんが

座っていて、周りの皆が立っても連れの横の男が盛り上がっても、微動だにしなかったのが

印象的であった。きっとお姉さんも頭の中では「何でジミー・ホールとサイモン・フィリップスやねん。」と思っていたのだろう。(笑)ここで学んだのは「自分のバンドにはいいボーカリストを入れよう。ドラムは俺が頑張ろう。」ということではない。学んだのは、「女の子とデートする際には、例え自分が好きなバンドだったとしても、その娘が全く興味が無いミュージシャンのコンサートに誘ってはいけない。」ということであった。

サンキュー、ジェフ!!。

 

この日は大阪フェスティバル・ホールでの演奏であったが、このツアーでのジェフは前日には福岡サンパレスで、更にその2日前には大阪厚生年金会館で演奏をしている。フェスティバル・ホールでは後にルー・リードを見たが、大阪厚生年金会館ではコンサートを見ることはなかった。全日本プロレス大会は見に行ったが。(笑)おいおい、枕で書いた京都府立体育館でもコンサートは見なかったが、そこでも全日本プロレス大会は見ているだろう、という独り突っ込みを入れてオチを考える。

 

全日本プロレス大会を見た厚生年金会館では私の座席は2階席だったのに、客席で暴れまわるタイガー・ジェット・シンが2階までやってきて、事もあろうか私のピンク色のヴィニール傘を取って凶器にしたのだ。当然ながら私は驚き、とまどいながら逃げたものだ。もちろん、顔は半笑いで。そういえば、シンが1階で暴れている時に、客が皆逃げまどっているのに、ワンレングスで赤いボディコン服の女が1人ずっと座っていた。しかし、そこはプロ中のプロのタイガー・ジェット・シンさんである。私には手を出さないはずとタカをくくっていたであろう、その女の髪を掴み引き摺り回したのだ。おいおい、一人で来たのか、その女は?。思わず私は妄想した。「あれ、この間のジェフ・ベックのコンサートで俺の前に座っていた貴女じゃないの?。新しい彼氏にまた興味も無いのに今度はプロレスに連れてこられたの?。まじ?。気の毒に。」全く勝手な妄想である。しかし、私は学んだ。「女の子とデートする際には、その娘が全く興味が無いのにプロレス会場をデートの場所に選んではいけない。」ということを。サンキュー、ミスター・タイガー・ジェット・シン!!。

 

話が大きく逸れた。(笑)ジェフのコンサートの後、コンサートに行ったメンバーで珍しく朝方まで飲んだ。大学内で作った学生バンドであったので一人だけ学部が違う私以外のメンバーでは多くの飲む機会があったのだろうが、私を入れての飲みは何と初めてであった。参加メンバーたちには初めから思うところがあったのかもしれない。一晩飲んで何かを話し、辿り着いた結論が「我々のバンドは解散しよう。」であった。

ジェフのコンサートが何を思わせたのか、或いは積もり積もったものを解放させたのかは

知る由も無い。結局そこまで親しく仲良しで続けたバンドでもなかったし、この先の展望も

無かったし向上心にも欠けていたので、あらかじめ結論付けられていたとしても、私には

特に不満も無かった。後日バンドメンバーだったギタリストが新しいバンドの構想を持ちかけてきたが、丁重に断った。怠惰な学生時代に於いて、時間が急速に流れた1日であったということでジェフのコンサート(が行われた日)は記憶に残っている。

 

幕間

さて。「はるかなる旅」とでも言えば未来に向かっていく感じであるが、この歳になって未来に希望を抱くのも気恥ずかしいので、やることといったら懺悔と懐古であり未来に向かって抱くのは最早、妄想のみである。しかも絶対に叶うことの無いソレである。(笑)

今回から暫くは出不精の私が行った数少ないコンサートの懐古録を綴る。前回記した通り、アーティスト縛りではなく「会場縛り」。「1会場1コンサート縛り」で、私が体験した印象深いコンサート20本を年代順に思い起こしては記すことにする。コンサート自体の良し悪しより、それに付随する私の生活の変化や心の機微の方が記憶に残っているので、「ベスト音楽体験」とはいかないかもしれないが。いずれにせよ、これを読んだ貴兄、貴姉の皆様方と何処かで同じ体験をしたかもしれません。

 

   

 

1) 甲斐バンド / 1981年5月3日 新居浜市民文化センター

 

新居浜市というのは愛媛県に所在する地方都市である。高校卒業までそこで過ごした私が体験した最初のコンサートが甲斐バンドであった。中学生の頃から熱心に聴いたバンドでコンサートのチケットが発売されたのは中学三年の冬。チケットを入手するのに自分から積極的に動いたわけでは無かったが、周囲が盛り上がっていたので私も盛り上がりに乗り遅れまいとチケットを手にしたというのが正直なところ。以前このブログでも書いたがロックに寛容で無かった担任への反発も多分にあったし。いや、甲斐バンドというものを体験したいと強く思ったのも間違いない記憶である。

 

今の若人には信じられない話かもしれないが、当時は個人営業のレコード店(チケット・ショップですらない)で座席表を見ながら券を買ったのだ。プロモーターが何枚かずつ割り当てて様々な店に券を置いていたのであろう。そういった訳なので、もし他に券を置いてある店を幾つか知っていて回ることができたら座席を比べることができたかもしれないが、そんなことまで頭が回るはずもなく。(笑)1981年の私は高校1年生で、中学時代の連れとの「早すぎる同窓会」の体もあって、コンサートを楽しんだ。「甲斐バンド  1981  CIRCUS & CIRCUS」を。

 

コンサートの最中、甲斐よしひろは「市がロック・コンサートに会場を貸し出すのは俺たちが初めてだって言ってたよ。」と言った。私はそれまで意識していなかったので、今までにどんな芸能人がこんな田舎まで来たのか気にも留めたことが無かったが、それ以降は気にするようになった。それに市で行われた初めてのロック・コンサートの現場に居られた、と後になって思うと何とも気分が高揚したものだ。それだけ、「ロック立ち遅れの街」(笑)であっただけの話なのだけど。今の様にライブハウスが乱立しているわけでもなく、地方に於いては市の公会堂や体育館でコンサートが行われていた時代であった。

 

その後、私が知る限りでは私の高校時代にハウンド・ドッグ、シャネルズ、RCサクセションが同会場でコンサートを行ったが私はいずれも行っていない。1982年のRCサクセションは見ておくべきだったと今になって思うが、当時はもう興味の中心はそこには無かったのだから仕方ない話である。1981年の9月に発売された「TATTO YOU / 刺青の男」と

題されたアルバムを手にしてからは洋楽中心の生活にシフト・チェンジしたのだから。

それでも。松田聖子は見ておくべきだったか・・・。(笑)

 

幕間

私は基本、デブ〇である。おお、冒頭からこれでは意味不明である。私の嗜好性まで疑われかねない。それでは正しく漢字変換して気分を出してもう一度。

私は基本、出不精である。おお、これなら何とか話を始められそうだ・・・。

 

   

 

先日、出不精であるのに少しばかり遠出をした。自由な時間ができた私が妹の都合に合わせることができるようになったので、ついでに遠出することにしたのだが、妹と会うのは約15年ぶりであった。いや、どちらかが最果ての地に住んでいるとかいうわけではなく、妹は普通に東京に住んでいる。一時間半も移動すれば会える距離なのだが、それでも会っていないというのは、お互いが昔から干渉しあわない性格だからかもしれない。それが何で一緒に行動するかというと、兄妹揃って実家に帰ったことがそれこそ15年間無かったので、今回は・・・という訳である。

 

相方と私は東京駅で妹と落ち合う段取りであったので、先に着いた我々はボーっと待っていたところ妹がやってきた。妹は相方の顔はすぐ認識したのか、横に立っている私をイヤそうに見て相方にこう言った。「横におる『地面師』のリーダーみたいなのは誰?。」私はその

「地面師たち」というドラマを知らないので辺りを見渡していると「おめーだよ。」と

言うではないか。あ、俺か。俺は自称ロバート・プラントなんだけど(笑)、言ってもわかんないか。それくらい、私の髪が長くカールして(酷いくせ毛なのだ)髭を生やしているので怪しく見えたのだろう。まあいいや。どうせ、このあと会う叔母夫婦にも実の親にも

認識してもらえるか怪しいものだし。長距離の列車旅のスタートである。

 

お盆手前ではあったが、こんな時期に移動するのは完全に間違っている。今まで一度もしたことがないが今回は妹の時間がそこしか空いてないので仕方がなかった。ま、この時期の「のぞみ」は全席指定なのでごちゃごちゃせずに済むというふうに気を取り直して長い行き

帰りの道中ぼんやりと考えた。

 

  

 

ローリング・ストーン誌が選んだ「旅に行きたくなる曲50選」(表題うろ覚え)とかいうのがあったが、あれはダメだな。何しろ私が想定する旅の条件と違うのだ。前提が列車でなく、100パーセント車かバイクでの移動が前提であるうえに自分で運転しなければいけない長旅なんてのは御免である。朝からビール飲めないし。

 

ビールと言えば、不幸なことにこの旅の道中ずっと痛風が出てしまってかなり辛かった。

「普段の行いが悪いから」とはこのことなのだろう。痛み止めを飲みながら、それでも夕飯時にビールを1杯は飲むのだから、誰も同情はしてくれない。当たり前である。左足の

甲と踵が腫れるのはいつものことだが、今回は足裏にも異常をきたした。「え、これで

クラッチ踏めるだろうか?。」などとアホなことばかり考える。

 

そして・・・。「昔は出不精のくせして、いろんな処にライブを見に行ったなあ。」なんてことも。ライブでもコンサートでも呼び方は何でもいいが、そういった音楽が演奏される場にでかけたのは2018年が最後である。もう8年近くも経つのか。人が集まる場所に行くのが面倒になったのは間違いない。もうこの先何があっても誰が来日しても出かけることはないだろう。ジミ・ヘンドリックスでも来日したら話は別だが。(笑)

 

というわけで、次回から暫くの間、昔私が行ったライブを振り返ろうと思う。

今までに行ったライブの中から記憶に残るベスト20を、アーティスト縛りでなく「会場縛り」で選ぼうと思う。つまり、「東京ドーム」で何回コンサートを見たとしても1回しか選べない「1会場1コンサート縛り」で。

 

時間旅行のスタートである。

 

 

 

     

 

人の一生を云々する際に、「かつて、或いは死ぬまでロックを演奏したことをもってロックを体現していた人だった。」なんてことは全く思わない。まして、あくまで個人的主観だが、話の対象になる人が私にとっては大したこともない音を垂れ流した人としか認識できない時は「時間を有効に使えなかった人」程度にしか思えない。奏でられた音に罪は無いが

音を出した人に罪はあるとさえ思っている。(笑)できれば私も何らかの形でロックを体現したかったがその才能もなく方法も見つからず、歳をとった。唯一の救いは才能やセンスが無いことに一早く気付き、格好いい音楽を探し聴いて楽しむ時間を多く持てたことくらいか。世間や社会に対しては何の貢献もできなかったけれど。

 

ロックの次に熱中したのがサッカーとプロレスであった。勿論、やる側でない。(笑)この3者に共通したのが私にとっては「日常を超えた熱狂」であった。どうやっても手が届かない人たちが素晴らしい熱量と技術で、どうやっても私にできないことをやっている。人によっては日常生活に無くても何ら差し障りないことかもしれないが、この3者が私の欲求の大きな捌け口であり、くだらない日常に戻るためのリセット・スイッチであった。ロックがそうであったように、プロレスやサッカーも人がやることなので当然、好き嫌いができるのだが

不思議とサッカーに関しては余程のことがない限り、「嫌いであるはずの対象」にも尊敬の念は抱いていたものだ。それは肉体がぶつかりあう痛みが対峙する者両方に発生するから

かもしれない。

 

私はずっとユヴェントスFCを応援してきたので、どうやってもACミランを好きになれるはずがなかった。しかし、いつも思っていたのは「ミランの選手に好きな選手がいつも多いのはどうしたことだろう。」ということであった。そんな選手の一人であったフランコ・バレージが66歳で逝去した。1987年頃から94年辺りのミランは、オランダ人トリオの前線の素晴らしさは言うまでもないが、あの時代のミランのディフェンダー陣は世界一だった。

コスタルクやガッリ、タソッティにマルディーニといったところをまとめたのがバレージであり、贔屓チームではないが私にとって贔屓の選手になった。1994FIFAワールドカップに於いてのイタリアは予選から決勝でのP.K.戦に至るまで全ては一連の素晴らしい物語のようですらあった。願わくば勝ってほしかったが、敗者を美しいと表現することの誹りを全力で拒否したいほど魅力的なチームであった。彼のような選手がもう一度現れてイタリアを復活させてほしいと思うと同時にバレージの冥福を祈りたい。

 

そして、昭和のプロレスを振り返る時に欠かせないレスラーの一人である、ドリー・ファンク・ジュニアも先日、85歳で没した。もう、ここまでくれば「お前はどれくらい捻くれているの?」という話になるが、私は特段、ドリーのファンというわけではない。一番好きな外国人レスラーがブルーザー・ブロディーだったので、これはもうどうしようもない。(笑)

しかし、ブロディーとのNWAインターナショナル王座を巡る抗争はドリーなしでは成り立たなかったし、シングルだけでなくタッグでも印象深い試合が多いことでも記憶に残る。

1979年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終試合の蔵前での対ブッチャー・シーク組との血塗られた試合や、81年のこれも蔵前での対ブロディー・スヌーカ組に於ける孤軍奮闘には見入ったものだ。私がドリーの試合を生で見たのは1回しかない。1986年頃だったか、ロードウォリアーズとか維新軍団(すみません、両方とも全く興味なしでした)といったところが全日本プロレスで幅を利かせていた頃、往年の名レスラーも大勢参加したシリーズがあった。リック・フレアーはともかく、ミル・マスカラスやビル・ロビンスン、そしてザ・ファンクスあたりはもう全盛期をとっくに過ぎていたのだが、それでも各レスラーのフィニッシュ・ホールドを見ることができたのは嬉しかったものだ。ドリーが鶴見五郎さんを相手にスピニング・トー・ホールド(回転足首固め)で勝利した時は、「いいものを見た」と思った。実際、この日の幾つもあった試合の中でメインやセミの結末は全く覚えていないのにドリーの勝利とビル・ロビンスンのワンハンド・バックブリーカーだけは明確に覚えているのだから。今頃はドリー、テリー、ブロディー、スヌーカであの81年12月13日の

出来事について談笑しているだろうか。

 

ロックもサッカーもプロレスも時代と共に、そのスタイルは変わってくる。そしてその時代を生きる人々を熱狂させる。今では通用しなくなった昔の戦術や技というものもあるが、

自分がリアルに感じた「熱狂」と、現在のより優れた「スタイル」を簡単に比較したり優劣をつけることはできない。ただ、時代は変わっても、それらに携わる人たちに最大限の敬意を払うことは忘れないでおこうと思う。