ぼっちゃん一緒に
職場のすぐ近く、それこそ敷地を出て歩道を行くと10~20mほどのところにどんぐりの木がある。
歩道に植えられたいわゆる街路樹だ。
街路樹に「どんぐり」なんていうのもちょっと珍しい気がするが、それは5~6mの高さの木で、秋になると実、つまりどんぐりがなり、それから冬頃までその木から落ちたどんぐりが歩道にぽろぽろぽろぽろ、実に沢山転がっている。
そんなどんぐりの実を見ていると、なんとなく思ってしまう。
「これ、拾ってって植えたら生るんだろう?」
「どんぐりの木になっていくんだろうか?」
市街地の舗道に落ちているどんぐりが、舗道の上で発芽することはないだろうけれど、それらを拾ってうちに持ち帰り、芽出しポットや植木鉢などで芽出しすれば、もしかして発芽するかも知れない。
もしかしてというか、沢山持ち帰ってそうやれば、確実に幾つかは発芽するだろう。
発芽したら、それを丁寧に育てていけばどんぐりの木になる。
どれくらいの期間が必要なのかはわからないけれど、5年、10年、もしくは20年?も育てれば、ちゃんとしたどんぐりの木になるのではないだろうか?
いや、必ずなる。
ついつい、私はそんなことを思ってしまうのだ。
そして、ついつい、私はそんなことを思ってしまうのだが、どんぐりのお持ち帰りも、芽出しも、実際それをおこなってはいない。
なぜか?
どんぐりを育てる意味が分からないからだ。
どんぐりは、なんとなく憎めない。
というか、ちょっと可愛い。
もしも世の中のすべての物や事を二元論的に、善か悪か、プラスかマイナスか、ポジかネガか、というような分け方をするとしたら、どんぐりは確実に前者、つまり善とかプラスとかポジの側に入るだろう。
決して圧倒的な善とかプラスとかポジという位置づけではないだろうが、確実に世の中がイメージするところのプラスの側に、どんぐりは自らの地位を確保している。
だからこその、街路樹にどんぐり、なのだろう。
正直、街路樹にどんぐりは、「それ、なんなん?」「なんで、どんぐり街路樹なん?」という気もするのだけれど、街路樹に選ばれ得る、高い好感度がどんぐりにある故と捉えるのが正しい見方なのだろう。
しかしだ。
好感度的には確かに高い位置にあるどんぐりではあるが、それを発芽させ、じわじわと育てていって、大きく育てたとて、それにどんな意味があるだろう。
一般人がどんぐりを拾ってきて発芽させて育てて、それをどうするっていうのだ?
何に使う?
そのどんぐりの用途は?
そも、芽出しポットや鉢植えで事足りるというような成長段階はいいとして、ちゃんとした木にまで成長するとしたら、それどこに植えるの。
どこで育てるの。
そんなことを思うと、秋やら冬のころ、幾ら足元にころころ、ころころどんぐりが転がっていて、それがなんとなく可愛いからって、それを拾っていって、うちで発芽させようなんてこと、できるわけがない。
あの愛くるしい姿、形で
「ねえ、ねえ、わたしを(ぼくを)拾ってって」
「ねえ、ねえ、わたしを(ぼくを)あなたのうちの子にして」
なんて囁かれても、その声に私は応えることができない。
できるわけないじゃないか!
出来るわけがないのに、その辺にころころ、ころころ転がっているどんぐりを見るにつけ「どんぐりころころ、どんぶりこ♪」なんて心の中で口ずさんでは、「拾ってって発芽させてみたいなあ(はあと)」な気持ちにちょっとだけなってしまう自分対し、「かっこはあと」じゃねえよ!
と突っ込みたくなってしまう私である。
どんぐりの実。
どんぐりの実のことを思うのは、まさに正真正銘、実の話しなのに、実のない話だなあ、なんて思ってちょっとおもしろくなる、いや、切なくなってしまう私である。