近年、日本社会には、言葉にされにくい不安が確実に広がっています。


外国人犯罪の増加、処罰の軽さへの疑問、名前や国籍が伏せられる報道。


そして何より、「なぜ、こんな状況が放置されているのか」という、素朴で切実な問いです。


この不安は、決して偏見や差別から生まれたものではありません。


家族や子ども、日常の安全が揺らぎ始めたとき、人は自然に危機を感じます。


それは社会が壊れかけていることへの、健全な防衛本能です。


問題の本質は、外国人が存在することそのものではありません。


本当に問われるべきなのは、管理されていない受け入れが続いていること、

責任の所在が曖昧な制度が放置されていること、

そして現場で起きている現実が、政策に反映されていないことです。


人口比で見た場合、特定の在留区分や不法滞在状態にある人々の犯罪率が高く出ていることは、政府が出している統計からも読み取れます。


これは国籍や民族の問題ではありません。

制度が人を不安定な立場に置き、社会の外側へ追いやり、結果として犯罪の温床を生んでいる構造の問題です。


多くの人が感じている「外国人の犯罪が見逃されているのではないか」という疑念も、単なる感情論ではありません。


不起訴になるケース、執行猶予が繰り返される事例、国外退去にならない判断。

それらが重なることで、人々は「自分たちは守られていないのではないか」と感じ始めます。


人権を尊重することは、社会にとって欠かせません。

しかし、人権という言葉が、被害者の苦しみや地域の安全よりも優先されてしまうなら、その制度はすでに歪んでいます。


人権とは本来、誰もが安心して生きるためにあるはずだからです。



ヨーロッパの国々は、すでにこの問題を現実として経験しました。


移民を大量に受け入れ、人道や多様性を掲げながらも、管理や同化を後回しにした結果、治安は悪化し、最も弱い立場にある人々、特に女性や子どもが犠牲になりました。


これは理念が間違っていたのではなく、現実を見ないまま政策を進めたことによる失敗です。


では、なぜ日本でも同じ方向が進められているのでしょうか。


背景にあるのは、労働力不足という数字の論理、国際社会からの評価を気にする姿勢、企業側の要請、そして問題が表面化しても個人が責任を取らなくて済む政治と官僚の構造です。


短期的な経済合理性と建前が、長期的な安全よりも優先されています。


その結果、負担と不安だけが、地域や国民の側に押し付けられています。


司法も、政治も、メディアも、誰かに乗っ取られていると断言できる証拠はありません。


しかし、説明をしないこと、向き合わないこと、現場の声を聞かないことが積み重なり、国民の信頼は静かに失われていきました。


信頼を失った国家は、どれほど正しいことをしていても、人々の心には届かなくなります。


私たちが本当に問うべきなのは、誰かを一方的に悪者にすることではありません。

どこまで受け入れるのか。

どこで線を引くのか。

誰が責任を持つのか。

それを国として、誠実に語れるのかどうかです。


安全に暮らしたい。

家族を守りたい。

当たり前の日常を失いたくない。


その思いは、排他的でも冷たいものでもありません。

社会を大切に思う、ごく自然で、静かな愛情です。


厳しさと優しさは、対立しません。

現実を直視することこそが、本当の共生への第一歩です。

見ないふりをする優しさではなく、守るための厳しさを。


日本が、間違いに気づき、立ち止まり、修正できた国だったと、

未来の人々が語れるように。


そのための問いを、今、私たちは手放してはいけないのだと思います。