多文化共生という言葉を耳にしたとき、
なぜか胸の奥に、はっきり言葉にできない不安を覚える人は少なくありません。
それは、外国の文化や人を否定したいからではありません。
多くの日本人は、礼節や思いやりを大切にし、他者を尊重する心を持っています。
だからこそ、「多文化共生」という美しい言葉に違和感を覚えるのです。
本来、多様性とは
それぞれの国や地域が、それぞれの文化や歴史を守りながら存在している状態を指します。
違いがあることを認め合うことと、
一つの国の中で無制限に異なる文化や価値観を混在させることは、同じではありません。
今、日本で進んでいるのは、
国民的な合意や十分な議論を経ないまま進められている、事実上の移民政策です。
少子高齢化による労働力不足。
人手が集まらない現場。
賃金や労働環境を改善するよりも、
「人を外から入れる方が早い」という判断が積み重なってきました。
その結果、社会の現場では摩擦が生まれています。
生活習慣の違い、治安への不安、教育や医療、社会保障の負担。
それらを指摘すると、「差別だ」「排外的だ」と受け取られてしまう空気が生まれました。
しかし、不安を語ることと、誰かを否定することは違います。
事実や影響を冷静に語ることは、社会にとって必要な行為です。
ヨーロッパの国々では、移民を労働力として受け入れた結果、
文化的な分断や治安の悪化、社会の緊張が長年続いています。
これは感情論ではなく、すでに起きている現実です。
それでも、日本ではこの問題が大きく報じられることはほとんどありません。
政治家は票が割れる議題を避け、
官僚は一度始めた制度を引き返せず、
企業は安い労働力を必要とし、
メディアは対立を恐れて沈黙します。
その結果、
「誰も責任を取らないまま、社会だけが変わっていく」
という感覚が、多くの人の心に残っています。
日本人が本当に恐れているのは、
外国の人そのものではありません。
日本人の賃金が下がり続けて、仕事や生活の基盤が不安定になること。
日本人が納めた税金で移民の生活を保護することになるのではないか。
移民が家族を呼び寄せて、移民の人口が激増し、移民が権利を主張し始める。外国人参政権を要求すること。
移民による犯罪が増える。人権と言う言葉を盾に事実を言えば差別主義者扱い。移民が不起訴になったり移民の犯罪が報道されなくなる。
合法的に日本が乗っ取られる可能性。日本人が少数民族なる。子どもや孫の世代が、自分たちの国に誇りを持てなくなること。
そうした未来への不安です。
本来、優先されるべきだったのは、
日本人が安心して働き、家庭を持ち、子どもを育てられる社会をつくることでした。
それを後回しにしたまま、
外から人を補充する形で問題を覆い隠してきたことに、
多くの人が言葉にできない違和感を抱いています。
この不安は、決して特定の人種や国籍に向けられたものではありません。
社会の土台が静かに崩れていくことへの、
ごく自然で、人として当たり前の感覚です。
声を荒げる必要はありません。
誰かを攻撃する必要もありません。
ただ、事実を見つめ、未来について考え、語ること。
それだけでいいのです。
国は、人の暮らしの上に成り立っています。
暮らしが不安定になれば、どんな理想も続きません。
多文化共生という言葉の前に、
まず「この国で生きる人が、安心して生きられているか」を
静かに問い直すこと。
それが、今、多くの日本人が心の奥で求めていることなのだと思います。
