「共生社会」という言葉は、とても美しい響きを持っています。

違う文化や背景を持つ人たちが、互いを尊重し合い、助け合って生きる。

それは、人間としての理想であり、誰もが心のどこかで望んでいることだと思います。


けれど、現実の社会はその理想とは違う姿を見せています。

欧州では、長年にわたり外国人受け入れを進めてきましたが、

多くの国で治安の悪化、社会の分断、福祉制度の崩壊が進んでいます。


「寛容」と「平等」を掲げてきたはずの社会が、

今では人々の不信と怒りで揺れ動いています。

なぜ、こうなってしまったのでしょうか。




本来、共生とは「互いに責任を分かち合うこと」です。

一方が努力し、もう一方が権利だけを主張する――

それでは、共生ではなく、支配と依存の関係になってしまいます。


文化や価値観がまったく違う人々が共に暮らすには、

最低限の約束が必要です。

それは、法を守ること。

他者を尊重すること。

そして、自分の生きる社会に「責任を持つ」ということ。


けれど、多くの国ではその前提が共有されないまま、

「人道」や「差別の禁止」という名のもとに、

無秩序な受け入れが進められてきました。




では、なぜ政治はそれを止めなかったのでしょうか。


国民の大半が不安を抱いていても、

政治家たちは「労働力不足」「国際協調」という言葉を使って、

受け入れ政策を正当化します。


その背後には、企業の思惑や国際的な圧力があります。

安価な労働力を求める経済界。

市場の拡大を望む国際資本。

そして「多様性」や「平等」を掲げることで、

道徳的な優位を保とうとする政治エリートたち。


この構図の中で、

「国民の声」はかき消されていったのです。




しかし、ここで大切なのは、

「誰かを敵にすること」ではありません。


問題の本質は、

人々が互いに信頼し合える「共同体」が崩れていることにあります。

心のつながりを失い、

人が数字や労働力として扱われる社会になってしまったこと。

その中で、移民もまた“利用されている存在”なのです。




私たちが取り戻すべきものは、

「排除」ではなく「秩序」

「支配」ではなく「信頼」

そして、「理念」ではなく「現実に根ざした共生」です。


本当の意味での共生とは、

お互いが誇りを持ち、責任を果たしながら生きること。

それは国籍や民族を超えて、人としての基本に立ち返ることです。




国家がどう変わろうと、

社会がどれほど混乱しようと、

人と人とのつながりが生きていれば、

そこからまた希望は生まれます。


私たちは、“善意を奪われることなく”、

同時に“現実を見失わない”生き方を選ばなければなりません。


真の共生は、理念ではなく、

小さな信頼の積み重ねから始まります。


それが、人が人として生きるための道だと思います。