絆と孤立死 | よねちゃんのつれづれ便り

絆と孤立死

明日で東日本大震災が起きて1年経つ。この間、「絆」ということばをよく見たり聞いたりしてきた。

その一方で、最近、孤立死や孤独死のニュースが多い。絆ということばとは相反する出来事に身につまされる。

以前であれば、たとえば、隣近所の付き合いが多少なりともあって、家族構成くらいは知っていて、ポストに新聞などがたまっていたら、声をかけあうくらいのことはやっていた。

それが今では、出来れば人とかかわりたくないという流れがある上に、個人情報保護を楯に行政ですら積極的にかかわろうとしない。

きのうも、知人が「こんなことが増えるのなら、近所付き合いが大変な時もあるけれど、田舎暮らしのほうが幸せかもしれない」とおっしゃっていた。

たとえば、高齢者のひとり暮らしや、ふたり暮らしの世帯、身体が不自由な人がいる世帯などは、事前に許可を取った上で、災害などが起きた場合などに備え、民生委員などを通じて、自治体がデータベースを作っておき、必要な場合に限って、何度かあらゆる連絡手段を講じても反応がない場合は、自治体が強制的にでも自宅に入ることが出来るようにしないと、これから先、孤立死は増えていくような気がする。

「絆」ということばがキャッチフレーズのように安易に使われているように感じ、使う場合も適切かどうか考える(見極める)必要があるのではないかとも思う。

心から感じているのなら、ことばが熱を帯び、重みを感じたりすると思うから。