フェデリコ・フェリーニ監督作品、『81/2』を初めて観たのは19歳くらいの頃だったと思う。大好きな漫画家が称賛していた映画だったので興味を惹かれた。ところがいざ観ると全く意味が分からない。あれから、25年の間何度か本作品を観た。すると、年を重ねるにつれ色んなシーンのパズルが合わさり少しずつ謎が解けてきた。



車内で窒息死寸前の主人公グイド、窓ガラスを開けて外に飛び出し高い空へと飛び立つ。しかし、足に縄がくくりつけられ、地上に引きずり落とされ、、という冒頭のシーンは、実はグイドの夢。映画では度々グイドの夢と現実が交錯する。その境界がかなり曖昧なのだ。グイドは映画監督。次の映画の構想が定まらぬまま、体調不良を起こし医者から温泉療法をすすめられる。静養のため温泉地に行ったものの、映画関係者や愛人がこぞって彼についてくる。グイドの構想はことごとく批判され、もっと万人受けする作品を書けと命じられる。思うようにならない彼は過去の夢や、未来の理想に逃げる逃げる。ストーリーの流れが急にブツ切りされ、突如夢の世界が現れるものだから何度も混乱に陥るが、それらシーンのインパクトたるやそりゃもう凄まじく、音楽といい映像といい、脳内に完全な足跡を残していく。特にグイドの幼少期、浜辺に潜む巨漢女サラギーナと二人でルンバを踊るシーンは、何より強烈だった。サラギーナを教会は悪女と呼び、彼女と踊ったグイドは罰を受ける。それでも、グイドはまた浜辺に行く。サラギーナは風に吹かれながら一人きりで鼻歌を歌っている。グイドを見かけると彼女は笑う。その表情の切ないこと。グイドは醜い巨漢女に愛着を寄せていた。それは、彼女が本当は悪ではなく、無垢だと感じたからだろう。



私は本作品の主人公と女性たちとの関係性にとても興味を覚える。いろんな女性がでてくるが、皆それぞれ個性的だ。明るく華やかな愛人カルラ、真面目で美しい妻ルイザ、そして純粋さの象徴として現れる女優クラウディア。彼は女性たちに対し身勝手な妄想を打ち立てる。どんどんかけはなれていく理想と現実。そうこうしているうちに映画制作の話は進み、構想も何も決まらぬまま、高額な装置だけが完成されてゆく。次第に追い詰められ逃げ場を失うグイド、その結末とは、、、。



最後のシーン、本作品の名場面と呼んでいいと思う。あのパレードの音楽がまだ耳元で鳴っている。



物を生み出す仕事に携わる人間が陥る主観と客観の葛藤を観た気がした。自己の内面を掘り下げてゆくと自己中心的と言われ、鑑賞する側のニーズに応じようとすると己の作りたいものを見失う。



本作品は、フェリーニの自叙伝と言われ、映画史に残る最高傑作と謳われているが、私はそれを深掘り出来るほど人生経験を積んでいない。なので現時点に置いては、さながら抽象画を見るかのような、理屈を超えた感情が揺さぶられる感覚を味わったとしか表現できない。←うまく表現しきれていないがとにかくもう一度始めから見たくなる映画であることは間違いない。