〈最近の思い。祈りについて。〉
マタイの福音書6:8を見てみよう。
「・・・あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」マタイの福音書6:8
その前の7節からの文脈を見ると、祈る時に同じことばをくり返してはいけないということだが、同時にこの箇所から、私たちの父なる神は、私たちひとりひとりの必要を全てご存知であることを改めて知ることができる。
昼夜一生懸命に祈っても、この世では癒されることなくイエスさまの下へ行った人たちを何人か見てきた。同時に、信徒たちが一生懸命に祈り、奇跡的にこの世で癒されて生存されている人も何人か見てきた。祈りとはいったい何なのだろうとずっと考えてきた。
私たちの父なる神が、私たちの必要を全てご存知なら、祈る必要などあるのだろうかと、祈りを虚しく感じることも過去に多々あった。・・・特に、私の主人のケースが亡くなった直後には、祈りについての虚しさが襲った。どんなに昼夜懸命に地上での癒しを祈ったことだろう。多くの人々も祈ってくださった。だが、父なる神のみ心は、「究極の癒し」であった。・・・
アダムの原罪によって、父なる神との繋がりが断たれてしまった人間・・。断たれた繋がりをもう一度繋げるために、神はそのひとり子イエスを送ってくださった。この、神の愛を知る上でのコアーとも言える部分を、繋がりの回復に見ることもできると思う。
創造主として、神の似姿に創造された人との繋がりを大切にされる父なる神である。祈りは、父との繋がりのために与えられたものであると、遅ればせながらやっとはっきりとわかった。祈りという対話によって父なる神と繋がることができるのである。
祈り、即ち神との対話には、様々な内容が含まれるだろう。心の打ち明け、嘆願、罪や失敗の告白、感謝、賛美、・・・。そして、祈りの基礎にあるものは、やはり何と言っても神とその御名への全き信頼であろう。
父なる神と私たちとの関係は、親子関係と似ていると思う。もちろん父なる神の無条件の愛のレベルに人間の親は、まるで及びもしないが、無条件・無償であるという質は似ていると思う。子どもが独立してしまった後も、健全な繋がりを保ちたいと思うのが、親の心である。その繋がりは、やはり対話(電話でも何でも)によって保たれる。
私の心や必要をすべてご存知の父なる神に全き信頼を置いて、今後もイエスさまによって回復された繋がりに感謝しつつ、父なる神への祈り=対話を深めていきたいと思う昨今である。