講和のけっか、信雄は伊勢半国と伊賀を失うことに。。
秀吉は蒲生氏郷に伊勢半国、脇坂安冶に伊賀を与えた。また、岐阜城には信長四男・羽柴秀勝(秀吉の養子)を入城させた。。
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小牧・長久手の戦いが決着して、困り果てたのは越中の佐々成政だった。。すでに秀吉方の前田利家領に侵攻するという反秀吉活動を起こし(末森城の戦い)敗北。背後にも秀吉方の大名、越後・上杉景勝が控えた中での苦しい陣だった。。それでも事を起こしたのは、昔から秀吉が大っ嫌いだからだったが・・・
天正12年12月中旬、厳冬の飛騨山脈・立山連峰を自ら越えた成政が、浜松に現れた。。世に言う「さらさら越え」である。(=佐々佐良峠越え(さっさざらとうげごえ)がなまったものか)
成政は霜焼けした顔で、再度秀吉に抵抗するよう徳川・織田信雄・滝川家らを回り、必死の説得を試みる。。だが、家康らとてお家を滅亡させる訳にはいかない。
家康:「丁重にお断りいたすm(_i_)m」
織田信雄家臣:「病床にあるゆえ、会えぬと仰せじゃ・・・m(_i_)m」
滝川一益:「探検家としては賞賛いたすが・・・m(_i_)m」
いずれも快い返事は得られず、成政は何の収穫も無く、また命懸けで越中へと帰っていった。
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秀吉はここから矢継ぎ早にどんどん手を打ってくる。。
天正13年3月、秀吉は朝廷から正二位内大臣に叙任・任官された。
3月中旬、秀吉は小牧・長久手の戦いの時、近畿をかき回した雑賀党など、熊野と紀州の勢力を駆逐する。
さらに3月中旬、四国をほぼ統一していた長宗我部領に弟・秀長らを侵入させ、7月下旬までに長宗我部元親を降伏させる。
6月、越中富山城に拠る佐々成政を、越後・上杉景勝、越中・前田利家、越前・丹羽長重、若狭・蜂屋頼隆、越前大野・金森長近らに動員をかけ、10万の軍勢で包囲させる。
7月には摂政関白の宣下を受ける。その後、織田信雄・信包らをともなって自ら富山に出陣し、佐々成政を信雄のとりなしで屈服させる。
8月、飛騨高山の姉小路頼綱(三木自綱)を金森長近に攻めさせた。佐々の与力だった姉小路は孤立、抗すべくもなく降伏する。
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家康の方も、小牧・長久手の折、同盟した西国の勢力が各個撃破されていくなか、ただ手をこまねいているわけにはいかない。。少しでも勢力伸張させ、残る同盟国との絆を深めておきたい。。と・こ・ろ・が・・・
天正13年6月、家康は北条との同盟を固めるため傘下の真田昌幸に沼田城を北条に明け渡すよう命じ、拒否される。昌幸は家康と断交、上杉景勝に帰属。
同8月、 第一次上田合戦。家康は大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉ら7000人の軍勢で上田城を攻めるも、1300人といわれる戦死者を出して惨敗。(真田方の戦死者わずか40人)
同9月、北条軍が徳川軍に呼応して真田領の沼田城を攻めるが、沼田城主・矢沢頼綱(真田幸隆の弟)に翻弄され、こちらも敗戦。
同11月、秀吉の調略によって、家康の重臣・石川数正が秀吉に寝返る。
家康:「おのれwww真田めあやつのせいで何もかもうまくいかん」
西日本で家康に味方しうる勢力はもはや無くなった。せめて北東の邪魔者・真田を始末して、後顧の憂い無く秀吉との再戦に備えたかった。小国相手に苦杯をなめた事で家康のプライドは傷つき、昌幸への憎しみが増すばかりとなった。。
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天正13年11月29日亥の刻、岐阜県北西部を震源とする激震が発生(天正大地震)。マグニチュード7.9~8.1。各地で甚大な被害を出した。高い建造物などは例外なく倒壊し、多数の死傷者が出た。このときの地震の範囲と規模は1891年(明治21年)の濃尾地震を上回る。
この巨大地震が秀吉、家康らに果たして何をもたらしたのか。いつまでも続く戦乱の世に、天地の神がお怒りになっているのではないか。そう考えたとしても不思議はない。。
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徳川家の中でいつの間にか真田征伐が最優先課題となり、ついに秀吉の力を借りてまでもそれを完遂させようとした。もともと秀吉に対抗しようと始めた行動だったが、本末転倒となってしまったのだ。。天正14年4月、縁者の少ない秀吉は自分の妹・朝日姫を旦那と離縁させ、家康と結納させた。
秀吉:「ついにボロを出したな、家康。これで一気に王手まで持っていくぞ」
秀吉は家康の使者に対しては自分の裁量で真田を潰す事も匂わせつつ、それをするつもりは無い。
秀吉:「もう一押しじゃ家康めに上洛するよう、促せっ」
家康はこの期に及んでも病気だと称して上洛を拒むのは、秀吉に暗殺されるかもという心配があったからだ。
10月 秀吉の生母大政所が旭日姫を見舞うとして家康のもとに赴く。
家康:「ここまでされては・・・命まではとられまいて。」
10月27日 家康はついに、再三の上洛要請に応え、大坂城に赴き秀吉と会見した。
これが秀吉への臣従を意味するのはいうまでもない。
家康:「かくなる上は、秀吉より少しでも長生きしてやる」
この時家康は固く心に誓ったのであった。。。
おわり。。。
本日のまとめ:
「天正地震の影響もあるものの、実際は真田昌幸のせいで秀吉に臣従するはめになった」