ぷにゅたの城跡フェチ 日帰りブログ旅 in西日本編

ぷにゅたの城跡フェチ 日帰りブログ旅 in西日本編

関西地方を中心に西日本各地に残るまたはあまり残っていない城・城跡を、日帰りで可能な範囲で探訪する!

Amebaでブログを始めよう!

 

今回は、妻鹿(国府山)城の第二弾です。

 

それではどんどん本丸へと歩を進めて走る人参りましょうビックリマーク

 

↓井戸跡

 

 

まず最初に、「井戸跡」という立札を発見オペラグラス。。でも、ちんけな大きさで本当に城の遺構なのか、少し疑問が残る。。

 

もう少し先には「門石跡」が。。これも対となる石を見つけられず、ただ自然の平たい石石が、たまたま土土に埋まっているだけ、というようにも思える。。

 

 

↓門石跡

 

 

↓馬駆け

 

 

登山道をしばらく進むとT字路に突き当たる。順路どおりに左に折れて左いく事に。

 

 

こちらは「馬駆け」。

 

なるほど、こちらは見通しも良く直線的で、城中で馬馬に運動させるにはうってつけかもしれない。。

 

 

↓鉄塔A

 

 

勾配の無い馬駆けをしばらく進むと、ご覧のような鉄塔に行き着く。。

 

鉄塔のすぐ裏手は視界が開け、とても眺めがいい。。爆笑

 

 

↓眺望

 

眼下に広がる市川。川市川が播磨灘航海へと注ぐ河口が見渡せる。。

 

さらにその奥にかすかに見える島島が男鹿島だ。。

 

 

住古応神天皇あるいは仁徳天皇が近くで狩り原始人(男)をした際、雌雄2頭の鹿bambi.しかが現れ、雄鹿は対岸の男鹿(たんが)(家島諸島)に渡り、雌鹿は当地の山中に入ったとの伝承ヒソヒソが残る(飾磨郡誌)。

 

 

↓甲山経塚跡

 

「経塚(きょうつか)」とは、経文を容器に入れてウーマンドシー ピンク土中に埋納した宝遺跡の事で、経典を後世に伝え、その仏教的な作善行為によって極楽往生天使を願うもので、平安中期以降、全国的に流行ったものだ。。

 

この山での数少ない遺跡と思われるので、掲載してみた。。。チャレンジ

 

 

 

しばらく歩くと、再び大きく視界が開け、パノラマ解説とベンチベンチまで設置されていた。。

 

 

↓本丸跡

 

 

ここが、主郭(本丸)というが、さして広くは無い。。果たして?

 

 

↓主郭からの眺望

 

それではご覧いただこう。。

 

上の写真は北の方角を拡大したものだが、晴天のため姫路城城をはっきりと見る事ができたビックリマークビックリマーク

 

当時、黒田職隆は、狼煙けむり玉などで官兵衛と連絡を取り合っていたかもしれない。

 

 

↓磐座跡

 

磐座(いわくら)とは、岩に対する信仰、あるいは信仰の対象となる岩岩そのもののこと。

 

山中にあった巨岩・奇岩をここへ集めたものか。日々の願いや官兵衛の出世を、ここでお祈り願いしたかもしれない。。

 

↓帰り道(帯曲輪?)

 

 

ほかにも「石垣跡」「狼煙跡」「空堀」「竪堀」など、

 

案内版に載ってたが、どれもいまいち判然としない。。

 

インスタ映え(言いたいだけー)もしない(はてなマーク)ので、ここは割愛しよう。。

 

 

↓標柱

 

行きは見逃していたが、それは川沿いの道にひっそりと佇んでいた。。

 

「右 おくやま ごちゃく」とある。。その案内通りに、これから「ごちゃく」を目指す(歩いていくのは無理だが・・・)

 

 

↓なかよし橋より見た甲山

 

川を渡って橋飾磨方面へと向かう。。

 

今来た道を振り返ってみると、妻鹿城のある甲山は御旅山・小富士山などで山囲まれている。。

 

城としての立地条件としてはかなり良い、と言える。。

 

 

・・・えっはてなマーク御着へ向かうのに、なぜ対岸の飾磨へ向かうのかってはてなマーク

 

それはね、ある裏技的な交通手段に頼ろうとしているからなんじゃよビックリマーク

 

 

 

つづく。。。

どこが「in西日本」やねんビックリマークビックリマークと、お嘆きの貴兄に、

お待ンたせいたしましたッビックリマーク

今回は兵庫でっせビックリマーク

 

 

今が旬(はてなマーク)の、軍師・官兵衛ゆかりの地に行ってまいりましたビックリマーク

 

 

官兵衛っていったらはてなマーク

中津城ビックリマーク・・・じゃなくてぇ、姫路城ビックリマークじゃなくてぇ、「妻鹿城」でっすビックリマークビックリマーク

 

 

つまじか・・・はてなマークどこはてなマークそれ。

これは「めが」と読むのじゃそうな。またの名を、「国府山」(こうやま)城。

 

 

甲山(こうやま)の山頂に築かれた山城なんじゃYOビックリマーク

では、早速妻鹿城へ、LET'S GOビックリマークマリオ

 

 

山陽電車電車の妻鹿駅に到着。。

 

 

↓妻鹿駅にある史跡スポット紹介

 

 

 

 

大河ドラマテレビがあった影響なのか、駅を降りてすぐ、わかりやすい案内看板が目に入る。

 

 

なになに、城跡以外に、官兵衛のおとっつぁんの廟所と、黒田節の生みの親・母里太兵衛(もりたへえ)生誕の地があるのかぁ。。

 

 

歩いて回れるほどの距離にある。先に寄ってみよう。。ごー

 

 

 

↓妻鹿城遠景

 

 

 

駅前すぐそばに流れる川川・市川。川岸に張り出すようにこんもりした山やま。。。が。

 

あれが、目指す妻鹿(国府山)城址だビックリマーク

 

 

案内標識どおりに、右の脇道にそれて次項いくと、やがて黒田職隆公廟所に到着。。

 

 

↓筑前さん参道

 

 

この廟所は、地元の方からは「筑前さん」、とよばれ親しまれているそうだ。

 

やや奥まった所にあるが、とても親切に標識が建っているので、すぐわかった。

 

 

 

↓黒田職隆廟所

 

 

↓黒田職隆廟所の説明

 

 

廟所内には、五輪塔が建つ。官兵衛の父・職隆は晩年をこの城で過ごした。。

 

入念に手を合わせて合掌から、次の目的地・元宮八幡神社神社へ。

 

 

 

黒田職隆公廟所から、徒歩2分とかからない。

 

境内に目新しい石碑石碑が視界に飛び込んできた。。

 

 

 

↓母里太兵衛生誕の地碑

 

 

母里太兵衛がここ妻鹿の出身であるとは、知らなかった。。

 

ここからさらに北上上矢印して、約7分で妻鹿城址へと向かう。

 

 

* * * * * *

 

 

↓妻鹿城址(甲山)

 

 

 

 

↓妻鹿城址石碑

 

 

立派な石碑。。石碑は「国府山城」ではなく、「妻鹿城」としている。

 

 

 

↓城の構造と発掘調査の成果

 

 

広い。。

 

山頂付近が急峻な崖ではないので、広めの縄張がなされていたようだ。

城の遺構としては、掘ったりもぐら盛りあげたり山といった加工があまり見られず(=要塞化されていない)、天然の地形に任せている感じ。。

 

戦国期の城とは思えない。

 

職隆の隠居城はてなマーク的な要素があるからなのかはてなマーク敵に攻め込まれたらどーするの!?

 

 

 

荒(あら)神社の入口が、登山道入口になっている。

 

そこに休憩所があり、トイレトイレはここで済ませておこう。

 

ここで、トイレの脇にちゃんと目を凝らせビックリマーク

 

 

 

↓目薬の木

 

 

おっと、見落とすところだった。「目薬の木」

 

植えて間もないのか、小さくて目立たない。

 

 

官兵衛の祖父・重隆の代、黒田家秘伝の目薬目薬を広峰神社の御師たちが各地へ御札お守りを配布する際、いっしょに売り歩いてもらい、莫大な財お金を成したといわれている。

 

 

また、各地を巡って帰る御師から、地方そして京など中央の情勢に関する情報を得ていた。その力をもって、小寺家へ仕官。重要なポストについた。と云われている。

 

 

 

荒神社入口

 

 

上写真の階段奥がすぐ荒神社の本殿。その右手から登山道がつづいている。

 

 

 

↓登城道

 

 

 

山道は舗装こそされていないが、よく整備されていて、誰でも気軽に登れる風情だ。

 

 

標高も高くなく、体力的には余裕のよっちゃん。。音譜

 

 

 

つづく。。。

講和のけっか、信雄は伊勢半国と伊賀を失うことに。。えーん

秀吉は蒲生氏郷に伊勢半国、脇坂安冶に伊賀を与えた。また、岐阜城には信長四男・羽柴秀勝(秀吉の養子)を入城させた。。

 

*****

 

小牧・長久手の戦いが決着して、困り果てたガーンのは越中の佐々成政だった。。すでに秀吉方の前田利家領に侵攻するという反秀吉活動を起こし(末森城の戦い)敗北。背後にも秀吉方の大名、越後・上杉景勝が控えた中での苦しい陣だった。。それでも事を起こしたのは、昔から秀吉猿が大っ嫌いだからだったが・・・

 

天正12年12月中旬、厳冬雪の飛騨山脈・立山連峰雪山を自ら越えた成政が、浜松に現れた。。世に言う「さらさら越え」である。(=佐々佐良峠越え(さっさざらとうげごえ)がなまったものか)

成政は霜焼けした顔で、再度秀吉に抵抗するよう徳川・織田信雄・滝川家らを回り、必死の説得を試みる。。だが、家康らとてお家を滅亡させる訳にはいかない。

 

家康:「丁重にお断りいたすm(_i_)m」

 

織田信雄家臣:「病床ゲホゲホにあるゆえ、会えぬと仰せじゃ・・・m(_i_)m」

 

滝川一益:「探検家としては賞賛いたすが・・・m(_i_)m」

 

いずれも快い返事は得られず、成政は何の収穫も無く、えーんまた命懸けで越中へと帰っていった。

 

 

*****

 

秀吉はここから矢継ぎ早にどんどん手パンチ!を打ってくる。。

 

天正13年3月、秀吉は朝廷から正二位内大臣に叙任・任官された。雛人形

 

3月中旬、秀吉は小牧・長久手の戦いの時、近畿をかき回した雑賀党など、熊野と紀州の勢力を駆逐する。掃除機

さらに3月中旬、四国をほぼ統一していた長宗我部領に弟・秀長らを侵入させ、7月下旬までに長宗我部元親を降伏させる。掃除機

 

6月、越中富山城に拠る佐々成政を、越後・上杉景勝、越中・前田利家、越前・丹羽長重、若狭・蜂屋頼隆、越前大野・金森長近らに動員をかけ、10万の軍勢で包囲させる。

 

7月には摂政関白の宣下を受ける。雛人形その後、織田信雄・信包らをともなって自ら富山に出陣し、佐々成政を信雄のとりなしで屈服させる。掃除機

 

8月、飛騨高山山姉小路頼綱(三木自綱)を金森長近に攻めさせた。佐々の与力だった姉小路は孤立、抗すべくもなく降伏する。掃除機

 

 

*****

 

家康の方も、小牧・長久手の折、同盟した西国の勢力が各個撃破されていくなか、ただ手をこまねいているわけにはいかない。。少しでも勢力伸張させ、残る同盟国との絆を深めておきたいらぶ。。と・こ・ろ・が・・・

 

天正13年6月、家康は北条との同盟を固めるため傘下の真田昌幸に沼田城を北条に明け渡すよう命じ、拒否される。昌幸は家康と断交、別れ上杉景勝に帰属。

 

同8月、 第一次上田合戦。VS家康は大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉ら7000人の軍勢で上田城を攻めるも、1300人といわれる戦死者を出して惨敗。(真田方の戦死者わずか40人)

 

同9月、北条軍が徳川軍に呼応して真田領の沼田城を攻めるが、沼田城主・矢沢頼綱(真田幸隆の弟)に翻弄され、こちらも敗戦。

 

同11月、秀吉の調略によって、家康の重臣・石川数正が秀吉に寝返る。

 

 

家康:「おのれwwwビックリマーク真田めビックリマークあやつのせいで何もかもうまくいかんビックリマーク

 

西日本で家康に味方しうる勢力はもはや無くなった。せめて北東の邪魔者・真田を始末して、後顧の憂い無く秀吉との再戦に備えたかった。小国相手に苦杯をなめた事で家康のプライドは傷つき、昌幸への憎しみムキーが増すばかりとなった。。

 

 

*****

 

天正13年11月29日亥の刻、岐阜県北西部を震源とする激震地震が発生(天正大地震)。マグニチュード7.9~8.1。ナマズカー各地で甚大な被害を出した。高い建造物などは例外なく倒壊し、多数の死傷者が出た。このときの地震の範囲と規模は1891年(明治21年)の濃尾地震を上回る。

 

この巨大地震が秀吉、家康らに果たして何をもたらしたのか。いつまでも続く戦乱の世に、天地の神がお怒りになっているのではないか。そう考えたとしても不思議はない。。

 

*****


徳川家の中でいつの間にか真田征伐が最優先課題となり、ついに秀吉の力を借りてまでもそれを完遂させようとした。もともと秀吉に対抗しようと始めた行動だったが、本末転倒となってしまったのだ。。天正14年4月、縁者の少ない秀吉は自分の妹・朝日姫を旦那と離縁別れさせ、家康と結納させた。

秀吉:「ついにボロピンクうんこ(改を出したな、家康。これで一気に王手まで持っていくぞビックリマーク


秀吉は家康の使者に対しては自分の裁量で真田を潰す事も匂わせつつ、それをするつもりは無い。


秀吉:「もう一押しじゃビックリマーク家康めに上洛するよう、促せっビックリマーク

 

家康はこの期に及んでも病気だと称して上洛を拒むのは、秀吉に暗殺されるかもという心配があったからだ。

10月 秀吉の生母大政所が旭日姫を見舞うとして家康のもとに赴く。

 

家康:「ここまでされては・・・汗命まではとられまいて。」

10月27日 家康はついに、再三の上洛要請に応え、大坂城シンデレラ城に赴き秀吉と会見した。

 

これが秀吉への臣従を意味するのはいうまでもない。

 

家康:「かくなる上は、秀吉より少しでも長生きしてやるビックリマークビックリマークビックリマーク

 

この時家康は固く心に誓ったのであった。。。流星

 

 

 

おわり。。。

 

 

本日のまとめ:

「天正地震の影響もあるものの、実際は真田昌幸のせいで秀吉に臣従するはめになった」