おやじの靴を はいてみた
俺には ちょっとキツイけど
なかなか渋い音を出す
Stepping Slipping it’s my Daddy’s shoes



ARB3枚目のアルバムBOYS & GIRLSの2曲目に収められたダディーズ・シューズ。 

あの頃、この歌を聴いて靴箱にある親父の靴を片っ端から玄関口に並べた少年がどれだけいただろうか?当然自分もそのうちの一人だったが、親父の靴の中には目当てのトンガリ靴はなかった。


すでに鬼籍に入った親父はごくごく普通のサラリーマンだったが、ネクタイなんか締めるような仕事ではなく、夜勤、泊まりなんかがある時間的には少し変則的な内勤の仕事をしていた。

若い頃は酒を飲まず、コーヒーにパチンコ。休日に出かけた親父に連絡をとりたいとき、母はよくブラジルという名の喫茶店かパチンコ屋に電話をしていた記憶がある。
そんな親父が酒を飲むようになったのは40を過ぎてかららしいが、それからはほぼ毎晩飲み歩き、ボーナス支給日に、つけでたまったかなりの額の飲み代を母に要求する姿を目にしたことも一度や二度ではなかった。


外では毎晩のように飲み歩く親父ではあったが、家で飲むことは皆無。まぁ、毎晩飲み歩いてりゃ家で飲む時間がないのが当たり前ではあるが。
※退職してからは、孫を連れた我々と家で晩酌するのが愉しみではあったようだ。

煙草もやるが、酒同様家で吸うことは全くなく、会社に向かうために一歩家を出た途端煙草に火をつける、そんな親父ではあった。

こんな風だから、親父と晩飯を一緒になんてことは一切なく、どこかに連れて行ってもらったなんて記憶も全くないが、酒を飲んで暴れることもなく、勉強しろだとか、その髪型はなんだ、だとかうるさいことを言われることもなくで、決して煙たい存在ではなかった。

また、人付き合いがよく、親父の事を悪く言う人はいないと誰もが話していたということをよく母が話していたが、それは外面がいいだけだという愚痴とセットであったのは、若い頃に他人の借金の保証人になってかなりの額を肩代わりしていたこともあってのことだろう。


話を親父の靴に戻そう。

高3の夏の終わり、バンドで学祭のステージに立つことになった自分、トンガリ靴を借りることはなかったが、親父のタンスからこっそり拝借したステンカラーのコートを衣装にしたのは、ダディーズ・シューズを歌う石橋凌がそんな感じのコートを着ていたのを雑誌で目にしたからで、そんな石橋凌とは違ってコートに着られる感じで全くサマになっていなかったのは18歳の高校3年生だということを考えれば当然のことではある。


↓その時の写真が一枚だけ残ってたりして…


あれからなんだかんだと40年。


この秋、長女の結婚式のために東京から帰省した長男が、結婚式に履いていく靴がないから親父の靴を貸してくれと、10年越えの6ホールのドクターマーチンをセレクト。

お前は靴を履くときにつま先をトントンとやる癖があるから、それだけは絶対にするなと言い聞かせたものの、結婚披露パーティの後も散々飲み歩き夜遅くに帰ってきた後の翌朝、玄関に置かれたドクターマーチンのつま先には、見事にトントンとやった後の傷が残されていた。



そうさ これが 俺の
オイラの おやじの靴さ
擦り切れてて キズだらけの
古ボケた靴

長男がダディーズ・シューズの歌詞にあるそんなことを思うはずは全くもってないのだが、少しキズが付いたドクターマーチンを目にしながら、オイラの靴を借りて札幌の夜の街を歩いていたことが、ちょっとだけ嬉しくもあって。


些末な思い出話なんかを綴ってしまいましたが、今週も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。