俺達と組まないか

1985年のある日、録画しておいたミュートマジャパンを観ていたらいきなり画面いっぱいにその言葉が現れた。そしてその下には電話番号が。ここにかけてこいということか?
流れていたのはエコーズののデビュー曲「訪問者(Visitor)」のPVだった。

いじめられるのが嫌で鍵かけていち抜けた
そろそろ誰か心配してあやまりに来る

給食のパンを届けに来る君だけが頼り
お願いだから

こんな歌詞もありなのか。
彼らとの出会いが10代半ばだったら、画面に突然現れた呼びかけの言葉の下にあった連絡先にきっと電話していただろうくらいに、その言葉の組み方があまりにも印象的だった。

電話をしなかった代わりにというわけではないが、その後は熱心に彼らの活動を追うことになる。

ストッキングまるめながら色っぽい長電話
僕が近づくとドアを閉めるお母さん
背中合わせのEvery day
パパ ママ 忘れないでね お願い思い出して
※by Bad Morning

前述の訪問者(Visitor)の歌詞よろしく、初期の頃の辻仁成が紡ぐ歌詞は「レプリカの街から」、「ヒューマニズムにがまんできない」、「恐るべき子供達へ」、「メモリアル・パークのチャーリー・ブラウン」、「天秤にかけた地球儀」、「ピーナッツ・バターの海に沈めて」等々の曲タイトルと合わせてどこか文学的であったことや、曲の題材として、いじめ、家庭崩壊など当時クローズアップされていた子どもたちの痛みを多く扱っていたのは、ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ等のビート・ジェネレーションに大きく影響を受けてのことだろう。
この頃すでに作家辻仁成の萌芽が。

サウンドの方はパンクというよりU2、エコー&ザ・バニーメン辺りのニューウェイブと呼ばれていたバンドにより近しいもので、凍え震えるといったイメージ。これは伊藤浩樹のフィンガーピッキングで弾くぶっとさとは真逆の繊細なストリングス的でもあるギターサウンドによるところが大きかったのではないだろうか。

ただ、後期になるにつれ

ギターを担いで バイクを転がし
真夜中のスタジオに飛び込んだ
始めようぜすぐに とびきり早いやつを
あの頃の二人は無敵だった
※by Tug of Street


かわったねいつの間にか 

まるで人が違ったみたいだ
かわり過ぎて見過ごすところだった
見慣れた街の交差点で 

かわりはてた君がつぶやいた
まだそんな事続けているのか?
※by Dear Friend

というように、所謂ロックらしい(?)熱きものも歌うようになっていき、それにつれバンドブームとも相まってか、彼らの人気は日を追うごとに高くなっていくことになる。

初期も後期も離れることなく聴き続けてきたバンドだが、エコーズというとどうしても、日曜の夕方を迎えたときのあの憂鬱な気分であり、起き上がるのが億劫なブルーな月曜の朝を想起させるのは、やはり初期の頃のインパクトが自分の中ではより大きいのだろう。

後に、ボーカルの辻仁成が函館で青春期を過ごしたこと、坂の上の教会の隣にある僕の母校の卒業生でもあったことを知り、さらに彼らを近しく感じることになる。
最初で最後に彼らのライブを観たのもその函館で。当時住んでいた苫小牧から200㎞ほど離れた故郷まで車で飛ばして駆けつけたんだ。所縁の地でのライブであったにも関わらず会場は函館市民会館の小ホールの方だということに少しがっかりした記憶があるが、20年以上も過ぎた今となっては、ライブハウスのような空間で彼らのライブを楽しめたのは殊の外幸福だったのかも知れないと思えるのは、長年培ってきた我が嗜好ゆえか。

その後、辻仁成の作家デビュー辺りからバンドの雲行きは怪しくなり、9枚目のアルバムEGGSをリリース後あえなく解散。辻仁成は作家と並行してソロ活動も活発に行っていき、ソロ作品は「遠くの空は晴れている」、「言葉はキュークツ」などのアルバムタイトルのとおり再び文学的色彩を
多く垣間見ることができるようになる。


作家としても次々作品を発表、函館を舞台にした「海峡の光」で芥川賞を受賞、江國香織との合作「冷静と情熱のあいだ」は映画化され大ヒットするなど人気作家の地位も確立。女優の南果歩、中山美穂と結婚する等、いつの間にか遠い遠いあちら側へ行ってしまった感があった。(実のところ、こちら側もあちら側も自分の勝手な線引きであって実態なんてないはずなのだが)

だから、2001年に伊藤浩樹とともにエコーズ時代のファンクラブ名ECHOES OF YOUTHをユニット名として活動を始めたときは、ついにきたなとほくそ笑んだし、ファーストシングル「恋するために生まれた」は新生エコーズと言ってもいいくらい、やはり辻仁成の歌には伊藤浩樹のギターがなければと思わせてくれるほどの出色の1枚だった。

↑ホントはGerman Suplex MIXの方がお勧め


しかし、3枚のシングルを残しユニットはあっという間に消滅。再び、辻仁成の活動から距離を置くことになった。
2008年には三度伊藤とZAMZAN’BANSHEEを結成するも、なぜかこれには触手が伸びなかった。


2010年代中盤くらいからパリでの子育てが話題になったり、テレビのバラエティ番組にちょくちょく出演してお茶の間受けもしてたりと、ここのところ彼の姿を見ることが多くなった。
最近では、欧州でのロックダウンを含めたコロナ禍の様子をSNSで積極的に発信もしている。


辻と最初にタッグを組み、今は天国の人となってしまった今川勉は、今、どんな気持ちで辻の活動を眺めているのだろう。

「こっちに来た時にはまた俺と組まないか」そんなことを思ってくれていたらいいのだけど。

そんな自分も、そろそろまた彼のINGに付き合っていくのも悪くないかもしれない、なんて気分になってきたところだ。