”ロンドンコーリング”はパンクアルバムか?

僕がクラッシュの音楽に初めて触れたのは1980年の高校入学直後。ポールシムノンがベースをステージに叩きつける瞬間を捉えたペニースミス撮影のジャケットがあまりにも印象的すぎるサードアルバムロンドンコーリングで。
買った日の記憶もなければ、なぜこのアルバムを手にしたのかの記憶も定かではないのだが、雑誌で目にしたこのジャケットのカッコよさと、2枚組のアルバムにも関わらずファンのためにとバンド側がアルバム1枚分の値段で発売するようレコード会社と交渉しそれが実現した、というような記事にことのほか感動したからだったはず。これに関しては、2枚組本来の価格との差をバンド側がレコード会社から借金することで実現させた、なんていう逸話もる。

1979年12月14日にリリースされたこのアルバムは様々なメディアでレビューされているとおり、ロックンロール、ロカビリー、レゲエ、スカ、ジャズなど彼らの様々なルーツミュージックが絶妙なバランスでミックスされ至高の一枚(2枚か)に仕上がっている。

反面、ファーストにあった粗削りな激しさは影を潜め一部のファンから大きな反感と失望を買ったらしい。あの森脇美貴夫氏も「ファーストが彼らの最高傑作で、1977年のクラッシュこそ自分にとってのクラッシュ」と著書に記している。

しかし彼らはファースト、セカンドで評価を受けた状態を良しとはせず前身し続けることを選択して”ロンドンコーリング”を製作したのだ。
発売当初のアルバムの帯に記されたジョーの言葉「すべては歴史が証明してくれる」のとおりこのアルバムは発売から10年が過ぎた1989年に米誌”ローリング・ストーン”が選出した「The Greatest Album Of The 80’s」において見事第1位に輝いている。

このサードアルバムでクラッシュに出会ってしまった僕は多くのクラッシュフリーク同様、Emコードのカッティングギターにベースのリフが絡んでいくオープニングナンバー”ロンドンコーリング”のイントロのカッコよさと、続く”新型キャデラック”から3曲目の”ジミージャズ”までの圧巻の流れに一発ノックアウトされた。全19曲(アルバムクレジットではTRAIN IN VAINがクレジットされず18曲となっている)、捨て曲はもちろん一切なく2枚組ということを全く感じさせないほどに一気に最後まで楽しむことができ、リリースから40年以上たった現在もそれが変わることはない。

このアルバムを名盤たらしめたのはプロデューサーであるガイ・スティーブンスの功績(製作中の奇行ぶりでも有名だが)という声は多いが、それに加えて実はポール・シムノンによるところが大きいのではないかと僕は秘かに考えている。

クラッシュというと音楽のクリエイティブ部分はジョーとミック、イメージ部分はポールが担っていると捉えられがちだが、レゲエ、スカ、ロカビリーなんかのルーツミュージックを積極的にアルバムに反映させたのはポールだったろうし、ヴィンス・テイラーの”新型キャデラック”のカバーを導入することを提案したのもポール、また、このアルバムで聴くことができる彼のベースはセカンドまでのそれとは明らかに違い、その成長ぶりは目を見張るものだった。

クラッシュ解散後に彼が結成したバンドHAVANA 3AMのアルバムで聴くことができるサウンドがこのロンドンコーリングに最も近いものであったことことからもポールのこのアルバムにおける影響力の大きさが伺える。(あくまでも僕の個人的な推察です)

クラッシュ、ピストルズ、ダムドの3大パンクバンドそれぞれのファーストアルバムの激しさ、衝動をもってパンクというならば”ロンドンコーリング”はパンクアルバムと呼ぶことはできないかもしれない。
しかし僕にとってのパンクは、彼らが出演する映画”RUDE BOY”のワンシーンでアルコールで酔いつぶれた主人公のローディー”レイ”に「俺は音楽が好きだ。あんたの音楽はすごい。だがもう音楽と政治を一緒にするなよ。あんたは音楽に政治を入れすぎてる」と吐き捨てられたジョー・ストラマーが「おいでよベイビー 楽しくやろうよ 君といれば僕は最高なんだ」とピアノを弾きながら歌うことで返す姿、それなのである。
彼らがよく口にしていた「パンク・イズ・アティチュード」 未来なんかない”と歌ったピストルズとは逆に”それでも未来に向けて”必死にもがき苦しみながらも前に進もうとする姿勢こそが僕にとってのパンク。


だからこそ、ロンドンコーリングでのクラッシュこそ僕にとってのクラッシュで、そのアルバムは最高のロックン・ロールアルバムであるとともに唯一無二のパンクアルバムだと断言しよう。

発売当初のアルバムの帯にはもうひとつジョーの言葉が記されている。

「パンクとは音楽スタイルを意味しない・・・」