ロベルト・プロシネツキ

ストイコビッチもジーコもドン引きさせた天才!プロシネツキ スーパープレイ&ドリブル ゴール●レアルマドリード バルセロナ クロアチア代表 ワールドカップ ファンタジスタ

モドリッチと並ぶクロアチア史上最高のプレーヤーの一人、ロベルト・プロシネツキ。ストイコビッチは曰く「旧ユーゴスラビア史上最も才能に溢れた選手。彼の右に出る曲芸師はいない」とのことで、「技術的な面で欠点が見あたらない選手は二人のロベルトだけと思う」と語ったのはかのジーコです(もう一人のロベルトはバッジョ)。

1987年、ワールドユースで決勝を出場停止ながらMVP。
クラブではストイコビッチ、サビッチェビッチら共に ユーゴスラビアのレッドスターで活躍。三度のリーグ優勝をもたらし、オシム率いるユーゴスラビア代表に選出され、1990年のイタリアワールドカップに出場し、大会の最優秀若手選手を受賞。1990-91シーズンにはレッドスターの絶対的司令塔としてチャンピオンズリーグ制覇に大きく貢献。 ユーゴスラビアの年間最優秀選手に選出され、バロンドールでは第5位に。

1991年には、大きな期待を背にレアルマドリードに移籍。背番号10を託されるも、相次ぐ怪我及び、ユーゴスラビアの内戦の影響からか制裁を欠きます。

その後、リーガエスパニョーラのレアル・オビエドで見事に復活。その活躍からクライフに見初められ、バルセロナに移籍(レアルマドリードとバルセロナでプレーした数少ない選手の一人に)。しかしまたもや怪我に悩まされ、大きな成果を得ることはできませんでしたが、当時若手だったシャビは「ものすごいテクニシャンだった」と後に述懐しています。

その後、セビージャで見事なプレーを見せ、クロアチアの強豪であるディナモ・ザグレブではキャプテンとして3度のリーグ優勝をもたらします。このときキングカズこと三浦知良とは一時期チームメイトで、イングランドのポーツマス(後に歴代のベストイレブンに選出されています)では、川口能活とチームメイトでした。

1996年に独立したクロアチア代表で、ボバン、スーケルら共にユーロのベスト8進出に貢献。1998年のフランス・ワールドカップでは、初出場した日本代表とも対戦し、大会3位に。ジャマイカ戦及びオランダ相手の3位決定戦で鮮やかなゴールを決め、異なる2ヶ国の代表として得点した初のケースとなりました。また2002年の日韓W杯にも出場し、2004年に現役を引退しています。

ニックネームは「バルカンの黄金銃」。トップスピードでドリブルしながらボールを引くという俄かに信じがたいプレースタイルで、その様が引き金を引くまでの一連の動きに似ていたためだと云われいます。

とてつもないヘビースモーカーとしても有名で、スタミナ面の問題があり、好不調の波も激しく、常にボールを必要とするプレースタイルから活躍できるクラブも限られていましたが、かのマラドーナが晩年、インスタグラムで自身のライバルを何名か挙げる企画で、旧ユーゴスラビアの代表から唯一選出されています。

日本では同世代のストイコビッチやサビッチェビッチらに比べ、やや知名度が落ちるとこがあるかも知れませんが、欧州での技術面の評価は旧ユーゴスラビア陣の中でもトップクラスと云われています。

名古屋グランパスに移籍する噂もあったプロシネツキ。ジダンやロナウジーニョにも負けてないと思わせる、鮮やかな足技にドリブル、スーパープレイをご堪能下さい。