『ガラスの街』@リリック・ハマースミス

“CITY OF GLASS” @ Lyric Hammersmith

 

 

ポール・オースターの出世作というべき『ガラスの街』の舞台化。翻案はダンカン・マクミランが担当。アルメイダで今をときめくロバート・アイクとともにあの『1984』を作り上げた人物です。そしてヴィジュアライズを『War Horse』などを手掛けている59 Productions が担当(演出はレオ・ウォーナー)と、とにかく圧倒的な映像技術を駆使した最先端の演劇の形が見られることを期待して馳せ参じたのです。

 

オースターの作品は比較的好きでいくつかは過去に読んだことがあるものの『ガラスの街』は未読で、ロンドンに向かう飛行機のなかで読み漁りました。途中からそれこそ寝る間を惜しんで読み進める感じになるくらいに引き込まれて、一気呵成に読破。ものすごく面白かったし、他の作家にはないオースターのこのオリジナリティ、そりゃ高く評価されるよなあ。いまやすっかりお気に入りの作品です。

 

で、その舞台化。各メディアのレビューを平均的に捉えると「そこそこ」から「まあまあ」の間ぐらいかな? いろいろな人がいろいろ思うでしょうが、個人的にはとてもイマイチでした。まあ確かに圧倒的な映像技術ではあったし、ビジュアルを見てるだけでも飽きずに時間はあっという間に過ぎていく。その意味では決して長く感じたわけでもないけれど、でもこの明らかに圧倒的な映像技術は、演劇的な面白さとうまく接続されてはいない印象。

 

ごく正直に言ってしまえば、最初の“語り”のセリフを耳にした瞬間に、「・・・ああ、これはきっとダメだわ」って直感してしまって、その直感は結局正しかったわけ。なんというか、ヴィジュアルをあそこまで極めていながら、“音”への意識は極めて雑だった。

 

でも演劇って“音”だから、出発点は。

 

その点、サイモン・マクバーニーとコンプリシテの『The Encounter』はすさまじかった。あの試みは紛れもなく演劇的体験の拡大だったし。・・・そんなことも考えてしまって、劇場内での時間にどっぷりと浸かった、という感じでは、一切なし。

 

とにかく大問題は、“語り”というものをどう設定していたのか?というところに尽きます。これはもうテキストがどうのこうのというより、確実に演出の責任だと思う。そもそも、『ガラスの街』という作品の最大の面白さって、頭の中で人物がスイッチしていく感覚、誰が誰であるかなって境界線がいつのまにか溶解して曖昧になっていくところにある(断言)。気がついたら“彼”は“私”になっていて、つまり、小説の読み手自身が登場人物たちといつのまにか入れ替わってしまっていて、小説世界のなかに入り込んでしまってそこにいるように思えてくる、あの感覚。あのとてつもない面白さを手放してしまうことは、この特異な小説の本質を見失っている証拠のように思えてしまうなあ。

 

今回の舞台化で“語り手”を含めた彼ら全員は、私たち観客にとって距離のある他人だったんだよね。その時点で、小説を読んでいたとき脳内・体内で起きていたあの圧倒的な想像的体験を超えることができない。文字に書かれていることの一部を(薄っぺらく)具現化しただけ、みたいな感じに思えてしまって、とても残念だった。ヴィジュラライズはこんなこともできるのかという感心はするものの、演劇的にワクワクする瞬間はほとんどなかった。

 

あ、一箇所だけ、グランドセントラル駅で“第二のスティルマン”が現れる瞬間、あそこだけはトリックに見事に引っかかって「おおっ!」と思ったなあ。でもほんと、それだけ。