2019年8月

 

 

何て言葉をかけていいのか分からず

結果的に放置してしまう気持ちも

 

〇〇したら治ったってテレビでやってたよ!

と教えてくれる気持ちも

 

病気の事は全く会話に出さない気持ちも

 

逆に積極的に聞いてくる気持ちも

 

お酒でもタバコでも

自分が好きな事をしたらいいんだって言う気持ちも

 

あれを食べろ、これは食べるなという気持ちも

 

明らかに見た目が変わったのに

「気付かなかった!」っていう気持ちも

 

「確かに見た目は変わった。でもそんな事は気にするな」

っていう気持ちも

 

外に遊びに誘ってくれる気持ちも

 

「誘うか迷ったけど声をかけるのやめておいた」っていう気持ちも

 

 

 

全ては私に良かれと思ってのこと

 

 

人生観、死生観、優先順位の違いで

対応は千差万別だけれど

きっとみんな「自分だったらこうしてほしい」とか

「相手にとってのベストはこれだろう」って事を

実行してるんですよね

 

周りにいる人の対応は様々で

そこからその人その人の価値観が見えてくる

興味深いし、どれも有難いし、勉強になるなーって思います。

 

 

 

私が癌になる3年前

お姑さんが末期がんになり

1年2ヶ月の闘病の末亡くなりました。

 

お姑さんは早い段階から病院での治療をやめる決断をし

民間療法を選択しました。

私達夫婦はとても治るとは思えなかった。

 

でもお姑さんにとっていい事とはきっと

お姑さんの選択を尊重する事だろうと、

私達も必ず治ると信じて接することだろうと

いうことでした。

 

私達が望む事とお姑さんが望む事は違う。

 

治療に対して調べれば調べるほど

自論に自信が付いて

自身が思うことを実行してほしいと願う。

誘導したい気持ちにかられる。

でもそれは時に

相手の価値観の否定になり

自身の価値観の押し付けになってしまう。

 

 

 

「私は治ると思うねん」

「いつもありがとうな、お義母さん治って

必ずお返しするから。ちょっと待っててな」

 

こんな言葉を私は出来る限り信じようと言い聞かせながら

お姑さんに接していました。

 

でも常に「嘘っぽくないか・・・」と自分の言動を気にしていました。

勿論、お姑さんが私の言動にツッコミを入れる事なんてしません。

内心はどう感じていたのかなんて分からない。

上手く演技できてるよね・・・きっと。

そんな風に思っていました。

 

でも今、自身が末期がんになって思います、

きっと演技はバレバレだっただろうなと。

 

 

それでも不満そうな顔ひとつ見せなかったお姑さん。

嘘をついてるかどうかという事実よりも

”良かれと思っての言動”という気持ちを

受け取ってくれていたのかもしれない。

 

 

癌患者になって知った感情(というか感覚)はあるし

これは健常者にはわからないだろうなって

思う事は実際あるけれど

それは私が情緒の豊かな人間だという事には

繋がらないって思っています。

 

病気になっていなかったら

癌患者の気持ちなんて

今でもわからなかったはずだし

わかりようもない。

 

経験したか否かの違いなだけで

人間的に優れているとか

情緒や感性が豊かだとかっていう話じゃないと思っています。

 

健常者と進行がんの患者の間には

埋められない温度差を感じる時はあるし

健常者の言動は私の希望に合わないこともあるけれど

私にとって言葉は自身の考えを伝えるツール。

どんな言葉をセレクトするのかよりも

発した言葉で伝えたかった気持ちが重要なんです。

 

確かに言葉の選択ミスってあるけれど

それは経験値の問題であって

人格の良し悪しとは違うことが多いように思います。

 

どこかで誰かが発したような耳障りの良い言葉よりも

「何て言ったらいいかわからない・・・」

のほうが個人的には好き。

 

相手の言葉の選択を批評するよりも

汲み取れる人でいたいなと思います。

 

 

お姑さんとは違って

私は多少の苦痛を受け入れてでも生きるって選択をした。

この先こんな気持ちがいつまで継続できるかなんて

全く自信は無いけれど、最期まで理性的でありたいな。

 

 

家からすぐの川

 

 

今年もお盆を無事に済ませることができましたいのししうり坊