きんのじにとってプロレスというのは、青春の1ページであったと、はっきり言えます。
中学生時代には熱狂したものでした。
最近はプロレスというものも衰退しつつあり、きんのじもニュースでチェックするぐらいにとどまってましたが、
それでもプロレスは大好きでした。
プロレスというものは語りつくせないものがあります。
三沢光晴という人間がどれだけプロレスの中で輝いていたかを語っても、
プロレスに詳しくない方にとっては、?というものになるでしょう。
なので、ここでは三沢光晴さんの、その人間性というものについて書きたいと思います。
三沢さんは、もともとはジャイアント馬場亡き全日本プロレスという団体に所属していました。
実はマスクマンで、タイガーマスクの2世を演じていた選手でした。
いずれマスクを脱ぎ、全日本プロレスのエースとして一時代を築くようになります。
しかし、そんな最中ジャイアント馬場が亡くなり、社長を兼務することを余儀なくされたのでした。
三沢さんはもちろん、選手と社長の2足のワラジを履くことになります。
選手側の気持ちも十分にわかるポジションだったということです。
だからこそ、自身が社長となったことで、会社の中を改革しようと奔走します。
当時はプロレスラーに休業補償などはなかったんですね。
これってびっくりすることかもしれませんけど、たとえば試合中に骨折して休んでも、
その間は給与は支払われないということです。
仕事中の怪我なのにです。
そのあたりの改革、そして、若者向けの演出などを導入しようとするのですが、
老舗全日本プロレスのフロント陣営と対立することになるんですね。
どうしてもフロント陣営と折り合いがつかなかった三沢さんは社長を辞任、そして全日本プロレスを退団。
この時にプロレスを辞めようかとも思ったようです。
しかし、そんな三沢さんにほとんどの所属レスラー、そして所属スタッフがついてきたんです。
全日本プロレスに残されたのはわずか2名の選手。
それだけ人望が厚かったんですね。
これだけの選手がついてくるんだから、プロレスを辞めるというわけにはいかず、
現在のプロレス団体、NOAHというものを立ち上げることになったわけです。
もちろん選手が活動しやすい環境を整え、保障制度なども完備。
プロレスラーから見れば、試合環境の整ったカンパニーというイメージだったのでしょう。
その評価は海外でも非常に高いものがあります。
そして三沢さんという人物は、何よりもその義理人情の厚さが選手、スタッフの中でも高い人間でした。
とある先輩レスラーがガンにおかされていると知った時、
三沢さんはすぐに会場をおさえ、彼の引退記念復興を独自に催しました。
そして、その売上の全部をそのレスラーに送ったということです。
彼はもう故人ではあります。
今も活躍する格闘家兼レスラーのある選手は、もともとNOAH所属のレスラーだったんですが、
自身が総合格闘技に挑戦したいと相談した時に、団地に穴を空けることになると退団の意向を伝えたところ、
所属のままでも大丈夫だよと、その選手を後押ししました。
その選手は結局は退団してフリーの選手として今は活躍しておりますが、
このときの義理を決して忘れず、忙しいながらもNOAHの試合には参加してます。
レスラーという職業の辛さを一番理解し、一企業としてのプロレス団体を引っ張ってきた三沢さん。
筋を通してきた人間には必ず耳を傾けるという器の大きさもありました。
逆に、不義理を通した人間に対しては、許すことはしなかった。
レスラーとして、社長としても決しておごりたかぶることなく、常に寛大でありました。
今回の事故はいろいろな憶測がたえませんが、
おそらく鬱積した肉体的な疲れ、精神的な疲れだときんのじは思います。
プロレスが衰退するなか、なんとか頑張ろうと奔走していましたから。
本当に、お疲れ様でした。