私たち新人が生徒会室を訪ねると、一人の先輩がすり鉢に何やら黒い粉を入れ、

タバコをくわえながら、すりこぎで静かに掻き回していた。

 

そうである。当時はタバコをたしなむ高校生がけっこういたのである。

私も高校一年生では流石に吸わなかったが、二年生の夏頃から始まってしまった。

 

「何をしているんですか?」と尋ねると、

「爆弾づくりだよ」

「そうですか……え……ば、ばくだん〜〜(>_<)?」

 

黒い粉は火薬で、それを厚紙のパイプに詰める。

新聞紙でくるんで、導火線をつければ、立派な爆弾の完成である。

火薬はどうやら理科室で調合したものらしかった。

 

「大丈夫!火薬の中に釘やガラスの破片を入れると殺傷能力が生じるけれど、

このままだと大きな音がするだけなんだ」

とくわえタバコの先輩が応える。

 

「はあぁ、そうなんですかぁぁ…(^^;;。で、なんで爆弾を?」

「いざというときに備えるためさ」

 

いざというときって…(^^;;。

 

と訝っていると、先輩が

「まぁ、我が生徒会の伝統だよ。知ってるだろ?学生運動の名残さ。」

 

1970年、私は小6だったが、通りを挟んだ反対側は、大学の教育学部の建物で、

その屋上から、ヘルメットにマスク姿の学生さんが、石や火炎瓶を下にいる機動隊めがけて投げていた。

 

1960年の安保闘争から始まる学生運動は、その後10年間隆盛を極め、1970年頃にピークを迎えていた。

 

小学校の通学路は機動隊の人たちが盾で通り道を確保してくれていたが、

自分たちも大学生になったら、ああいうことをしなければならないのか、

これは体を鍛えなくちゃと、真面目に思ったものである。

 

1972年のあさま山荘事件を境にして、学生運動は下火になっていくが、

この事件を起こした連合赤軍のメンバーに、私たちの高校の先輩がいたのだった。

 

F高校は、高校にしては珍しく、学生運動があったらしく、

学校を占拠し,公権力と闘う熱い時代があった。

その名残が「爆弾づくり」という伝統として残っていたのである。

 

そのときである……。

ポトリと先輩のタバコの吸い殻がすり鉢の中に落ちた……。

 

紙に詰めていない火薬はドカン!とはいかない。

ゆっくりと酸素と反応して,モクモクとした黒煙を上げ始める。

 

それを見た他の先輩が反射的に叫ぶ!

「窓を開けろっ!急げっ!」

 

私たちはいっせいに窓に駆け寄り,手あたり次第窓を開けると,

顔を外に出してせき込む。

 

しかし,ときすでに遅し…。

私たちのま新しいワイシャツは,見事に真っ黒に染まったのであった。

 

家に帰って母に何があったかと問い詰められたので,正直に報告すると,

「それじゃ仕方がないわね」……とだけいって,洗濯機に入れた。

その後,私はグレーのワイシャツに困らなくなった。

 

まぁ,そんな時代であった。