コンピュータメーカを10年勤め上げた僕は、退職した翌月の一日からウィズユーサービスという人材派遣会社に転職した。僕を熱心に誘った常務は伊藤といい、AMGのベンツを乗りまわす、実質的に会社のNo.2の40代半ばの男で、時代劇によく出てくる悪代官あるいは、それに癒着する越後屋といった感じのその風貌で(実際に僕が彼に初めに会った時の印象がそうだった)、会社では快活に笑い、楽しく人生を謳歌していた。

 僕はウィズユーサービスで、3か月後には総務部長となり、会社の中では伊藤派の一員として、33歳には似つかわしくない派手な生活を送ることになった。伊藤は、この会社の社長からの信頼は絶大であり、50代前半の社長の息子がまだ中学生と小学生であったこともあり、息子の代になるまでの繋ぎの社長候補であることは、会社の誰もが暗黙のうちに認めていた。そんな中で、僕は伊藤の傘下で、一目置かれる存在として、特別な目で見られることにすっかり慣れてしまっていた。

 伊藤とは頻繁に飲みに行った。伊藤と飲みに行くと、全てウィズユーサービスの子会社で、警備会社である「ウィズユーセキュリティ」あての請求書で処理し、請求書が会社に届くと、子会社のフロアへ行き、「よろしく~」と言って、経理の女性にそれを渡して済ませているようだった。実際にそれで湯水の如く接待費を使用しても、社長は一言も文句を言うこともなかった。それは伊藤自体が、ウィズユーセキュリティの役員を兼務している上、ウィズユーセキュリティの接待費を使う人など、伊藤以外にはいなかったからだ。


 こんな生活を送っていたからと言って、僕は総務という新しい仕事を蔑ろにしていたわけではない。労務管理、賃金制度、社会保険事務、債権管理、登記関係など総務に関係する実用書を読み込み、一端の総務マンとして十分な知識を習得していたし、事実、会社のあらゆる制度の改革を断行した。会社自体が旧態然としていたし、それを問題視し、改革することを社長や伊藤が望んでいたこともあり、改革自体の阻害要因は見当たらなかった。

 こんなふうに、派手な生活を送りながらも、仕事に打ち込める環境に僕は至って満足していたし、家族も満足しているように見えた。入社して3年目で、マイホームを持ち、ピアノルームにはピアノを習っていた一人息子である春広のためにグランドピアノを置いた。30年ローンで建てたマイホームの支払いは高額であったが、年々収入は増加していたので、余裕のある暮らしが可能なくらいの収入を得ていたこともあり、何も問題はなかった。



 高広が中学3年に上がる2か月ほど前、僕は家族会議の席上でこう言った。

「おれは父親だよね。そして夫でもある。だけど、一人の人間として違う生き方をすることは許されないことなんだろうか」

 家族会議と言っても、定期的に開催されているものではない。ただ、夕食を食べ終わったところで、話があると私が家族に言い、食卓に留まってもらい、そう口火を切っただけだ。そこから、僕の家庭で初めて開催された家族会議が始まったのだ。妻の美月があっけに取られ口を開く。

「何いきなり」

「会社辞めようと思ってさ」

「そんなこと、こんな時に言わないでよ。もう決めたわけじゃないんでしょ?」

「明日、相手の会社に返事するつもりなんだけど、その前に相談しておこうと思って」

「あのさ、普通は子供の前で話す前に私に相談するもんじゃないの」

美月は明らかに興奮している。

 そもそも会社を辞めたいという相談は、もう1年近く美月には相談してきていた。その度に「辛いのはわかるけど、もう少し我慢してみたら」と言って、それをかわしてきたのは美月だし、これから先、相談しても同じ答えしか返って来ない気がしていた。

 しかし、今は理由がある。去年の源泉徴収票は、今勤めている人材派遣会社に入る前の年収を下回ってしまっているからだ。

 この人材派遣会社は、僕が大手のコンピュータメーカで営業として担当していたクライアントだった。僕はこのコンピュータメーカで平均的なペースで昇格し主任というポストであった。やはり全国区いや世界的と言っていいこのコンピュータメーカに比べれば、地場企業は賃金的には折り合わない。しかし、この会社の常務は熱心に入社を働きかけてきて、転職時の待遇は、部長職、年収は現状より1割増しという破格の条件だった。

 熱意に絆されたわけではないが、僕が勤務していたコンピュータメーカは余りに規模が大きく、この硬直した組織は相当の大手術が必要と誰もが感じている一方で、自分が将来に渡り企業のマネジメントとは無縁な気がしていたので、むしろ小さな組織で、しかもマネジメントに携われるというこの話にあっさり乗ってしまった。


 「何もしないのはゼロなんだ。プラスにもマイナスにも転じない。だけど、例え失敗しても行動したことはプラスに転じることがあるんだよ。そのときはマイナスだと感じてもね」
 僕は、部屋に閉じこもって延々とTVゲームを続ける息子に、現状から抜け出すきっかけを掴んでもらいたかったのだ。いや、むしろ、僕がストレスで耐え切れなくなる前に、自分自信の精神を解き放ちたい、そんな気持ちから出た言葉だったのかもしれない。少なくとも、自分の常識で捉えられる範囲に息子がいてくれれば安心できると考えていた。
 今年17歳になる息子、高広は黙っていた。彼が今のような生活を習慣とするようになってもう2年ほど経つ。
 彼が中学3年のとき、単身赴任だった僕が、1か月に一度の定期帰宅で家庭に異変が起きてきていることは気づいていた。2回に1回は、彼と会うことがなかった。つまり、中学の友達の家に遊びにいったまま帰って来ない日があったのだ。
 それに、彼は受験生であったが、受験勉強している姿を一度として見たことが無かった。高校受験の直前ですら、家にいないか部屋に籠ってゲームをしていたし、 家族は彼と会話することさえ憚れた。それだけ、声を掛けたら最後、何か取り返しのつかない事態に発展してしまいそうで、家族は皆それを口にすることさえなかったが、同じように考えていたのかもしれない。

 そうして彼は自分が引き返せないところまで来てしまったと感じ、家族は家族でそれを呼び戻すきっかけをつかめず、2年の歳月が流れてしまっていた。