ニート。
「Not in Employment, Education or Training」の頭文字をとったもので、元はイギリスの労働政策に用いられる語だそうだ。
日本では、失業者でもフリーターでもない、つまり、働いているでもなく、勉強しているわけでもなく、そして家事労働をしているわけでもない、産むものもなく、ただ消費をするだけの人をさしてそう呼ぶ。
私の従兄弟に、俗に言うニートという生活を送っている者がいる。
夢、理想・・・そういうもののない人生はつまらない。
己の能力を安売りせず、昨日より今日、今日より明日、夢・理想の名を借りた進化を遂げる己を思い描きつつ、現実を夢思う。
誇り高いし、人の生としての高み。
総じてニートと呼ばれる人たちはプライドが高い。
理想を思い描く妄想力にも長けている。
しかし、私が敢えてここで妄想力と称したのには意味がある。
どんなに気高い理想があろうとも、そんなに大きな夢があろうとも、現実を正確に見つめる目、見極める力、受け入れる心が養われていなければ、それは夢でも理想でもない、全てただの妄想なのである。
世の中は己の力で回すことはできても、己を中心に回っている訳ではない。
己の意に介さぬことは五万とあれど、それをかわすなり、昇華するなり、受け入れ改善するなり、己にとって負の流れを正の流れに変えていくことこそ、成長というもの。
その歩みを自ら止めた者には、成長という言葉自体がタブー化し、そこがはき出せぬ憤りのはけ口となる。
「自分を正当に評価してくれない」
「自分にはもっと能力に見合った生き方があるに違いない」
「己を見つめ将来を決断するには、時には歩みすら止め熟考せねばならない」
彼らはそういうだろう。
でも、よく考えてみて欲しい。
評価なんてものは100人いれば100通りある。
今、自分で自分を評価しているその評価も、1/100の評価に過ぎない。
能力に見合った生き方・・・それが出来ないから今こうして世間から認められない生活をしているのではないか?
そこに見合うための努力は成されたのか?
歩みを止めて熟考している間にも、立ち止まっているそこは過去、既に今ではなく過去になっているのだ。
歩みを止めない流れの中に生きている者として、歩みを止めることこそ致命傷になるということ。
それは常に他よりも一歩先へ歩んでいかねばならない経営者やベンチャーと呼ばれる生業に就く者にとっては、至極当たり前に染みこんでいる考え。
苦しい? 歩きながら考えるのは苦しい?
たとえ今苦しくても、時間が経てばそれが自分の息になる。
甘やかしてはいけない。
一時の感情や己の中にある弱さで、その人の人生を堕落させてはいけない。
言葉には魂が宿る。
厳しい言葉を発すると言うことは、発した者がその言葉に魂を込め、また魂のこもった言葉に己も縛られると言うことだ。
だから、厳しいことを言うには、覚悟がいる。言葉をぶつける相手が、それを受け入れるために覚悟が必要なのと同様に。
でも、多くの人は解ってはいても、己に対する甘えがあるからその言葉が言えないのだ。
私もそうだ。
己に甘えがある。
難しい・・・厳しい・・・
カノジョが不可抗力とはいえ、職を失った時、私は私が経験した職のない時の厳しさを全て教えた。
最後まで一緒に苦しむ覚悟で全てを教えた。
カノジョは徐々にではあるがそれを理解し、今理不尽に厳しい環境でありながらも、生活と自分の将来のためのスキルを得ようと頑張って働いている。
歩きながら考えてるんだよね。
歩きながら後ろでもなく、足下でもなく、少しだけど先を見て考えてる。
私もまた甘えが出てきたのかな・・・
こうやって文字は書けるけど、言葉はでない。
魂がこもらないね・・・・
私も頑張らないと・・・・
「Not in Employment, Education or Training」の頭文字をとったもので、元はイギリスの労働政策に用いられる語だそうだ。
日本では、失業者でもフリーターでもない、つまり、働いているでもなく、勉強しているわけでもなく、そして家事労働をしているわけでもない、産むものもなく、ただ消費をするだけの人をさしてそう呼ぶ。
私の従兄弟に、俗に言うニートという生活を送っている者がいる。
夢、理想・・・そういうもののない人生はつまらない。
己の能力を安売りせず、昨日より今日、今日より明日、夢・理想の名を借りた進化を遂げる己を思い描きつつ、現実を夢思う。
誇り高いし、人の生としての高み。
総じてニートと呼ばれる人たちはプライドが高い。
理想を思い描く妄想力にも長けている。
しかし、私が敢えてここで妄想力と称したのには意味がある。
どんなに気高い理想があろうとも、そんなに大きな夢があろうとも、現実を正確に見つめる目、見極める力、受け入れる心が養われていなければ、それは夢でも理想でもない、全てただの妄想なのである。
世の中は己の力で回すことはできても、己を中心に回っている訳ではない。
己の意に介さぬことは五万とあれど、それをかわすなり、昇華するなり、受け入れ改善するなり、己にとって負の流れを正の流れに変えていくことこそ、成長というもの。
その歩みを自ら止めた者には、成長という言葉自体がタブー化し、そこがはき出せぬ憤りのはけ口となる。
「自分を正当に評価してくれない」
「自分にはもっと能力に見合った生き方があるに違いない」
「己を見つめ将来を決断するには、時には歩みすら止め熟考せねばならない」
彼らはそういうだろう。
でも、よく考えてみて欲しい。
評価なんてものは100人いれば100通りある。
今、自分で自分を評価しているその評価も、1/100の評価に過ぎない。
能力に見合った生き方・・・それが出来ないから今こうして世間から認められない生活をしているのではないか?
そこに見合うための努力は成されたのか?
歩みを止めて熟考している間にも、立ち止まっているそこは過去、既に今ではなく過去になっているのだ。
歩みを止めない流れの中に生きている者として、歩みを止めることこそ致命傷になるということ。
それは常に他よりも一歩先へ歩んでいかねばならない経営者やベンチャーと呼ばれる生業に就く者にとっては、至極当たり前に染みこんでいる考え。
苦しい? 歩きながら考えるのは苦しい?
たとえ今苦しくても、時間が経てばそれが自分の息になる。
甘やかしてはいけない。
一時の感情や己の中にある弱さで、その人の人生を堕落させてはいけない。
言葉には魂が宿る。
厳しい言葉を発すると言うことは、発した者がその言葉に魂を込め、また魂のこもった言葉に己も縛られると言うことだ。
だから、厳しいことを言うには、覚悟がいる。言葉をぶつける相手が、それを受け入れるために覚悟が必要なのと同様に。
でも、多くの人は解ってはいても、己に対する甘えがあるからその言葉が言えないのだ。
私もそうだ。
己に甘えがある。
難しい・・・厳しい・・・
カノジョが不可抗力とはいえ、職を失った時、私は私が経験した職のない時の厳しさを全て教えた。
最後まで一緒に苦しむ覚悟で全てを教えた。
カノジョは徐々にではあるがそれを理解し、今理不尽に厳しい環境でありながらも、生活と自分の将来のためのスキルを得ようと頑張って働いている。
歩きながら考えてるんだよね。
歩きながら後ろでもなく、足下でもなく、少しだけど先を見て考えてる。
私もまた甘えが出てきたのかな・・・
こうやって文字は書けるけど、言葉はでない。
魂がこもらないね・・・・
私も頑張らないと・・・・