e-maidに通うようになって、しばらく過ぎた。ひどく暑い夏が過ぎて、秋の深まりも明け、冬の綻びが見えている。もうすぐ春になる。卒業の季節だ。
心に残るメイドたちの、忘れえぬメイドさんたちの記憶について、また、ぼちぼちと書いていきたい。
時間は少し遡る。
年末、こころさんが最終お給仕日を迎えた。彼女のアカウントも消えて少し経ついま、ふと思い出す。「こころに残るメイドに」と言っていたとおり、彼女とはキリスト教関連での共通点があったので、印象深い人となった。変な言い方だが、クリスチャン・ホームで育ったということに、妙に納得した。教会特有の感じ、滲む優しさのようなもの、人懐っこさが魅力的な人だった。
そして今日、はるさんが卒業式を迎えた。彼女らしい、ユーモアと愛嬌にあふれた、それでいて臆することのない芯の強さを感じさせる挨拶だった。
こころさんもはるさんも、ぼくがemaidに通うようになり、堺のお祭りに行った頃から話すようになった。青空の下、メイド服で朗らかに笑う彼女たちのチェキは、夏らしさを湛えていて、未だ冷える京都の夜を少し暖かくしてくれる。あの日スマホで撮った写真には、真夏の青空の下で食べたソフトクリームのように甘い夏の思い出が詰まっていて、チェキとともに、ぼくを形作っている。
今年の3月6日は、キリスト教の暦で「灰の水曜日」だった。聖公会(英国国教会)の祈祷書には「earth to earth, ashes to ashes, dust to dust(土は土に、灰は灰に、ちりはちりに)」とある。
伝統的な葬儀の祈りではあるが、死では終わらない希望の表明でもある。春が来れば、復活祭があるのだ。最近、日本でもイースターが商業的に定着しつつあるようだが、イースター(キリスト復活祭)の本来の意味は「死を超える希望」なのだ。
より身近な言葉でいえば、断絶では終わらないこと、次なるステップへの期待といえる。
だから見送ったメイドさんお二人についても同じことを思い、願う。それぞれの次なるステップに、どうか神様の祝福がありますように。父と子と聖霊の御名によって、行きましょう、主の平和のうちに。
きっと灰の水曜日が来るたびに、ぼくは、そんな復活祭を迎える春の心を、二人のメイドさんの名前とともに思い出すだろう。年を重ねるということが、こうして少しずつ誰かの思い出によって、柔らかくなることならば、悪くはないかもしれない。さみしくはなるけれど。
はるさん、こころさん、お世話になりました。
本当に有難うございました。
いってらっしゃい!