『日本語の終わりとハードボイルドメイドカフェ』 | さむの御帰宅日記

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ネットの海の枯れ珊瑚のあぶく

 

 カランカラン。「旦那様がお帰りになりました、おかえりなさいませ」、帰館に気付いたメイドの声に、他のメイドの声が重なる。扉が館内の空気を押し出すのに併せて、もう一度、扉鳴がカランと響いた。

 「あぁ、来てましたか」こちらに気付いた男が、ぼくの向かいに座る。彼は、夏川蝉佑。ほとんど消滅しかかっている日本語で書く作家だ。プラガミ・ハルキ賞の受賞作家でもある。いつも何が入っているのかわからない、レトロなノート型パソコンをカバンに入れて持ち歩いている。ヴィンテージもので、確かWindows10か何かという型番だ。窓林檎検索社Appldowglesの前進が生産していた有機体式以前の外化記憶装置らしい。

 「おかえりなさいませ」水と湿毛巾を、メイドが持ってくる。「烏龍茶で」と夏川が頼んだので、ぼくも「いつもの珈琲を、特別なやつ」と注文した。何が特別かといえば、いまでは高級品の少し良い豆を挽いて、メイドがその場で淹れてくれるのだ。发达国家では珍しい、懐古趣味とも言える方式だが、まだこのあたりでは現役である。

 「この前、路上で通行人に話しかけている人を見かけて」と、夏川がいう。「ええっ」メイドもぼくも思わず、声をあげて驚いた。正気の沙汰とは思えない。いくらここが租界の关系特区とはいえ、路上で他人に話しかけるなんて。とんでもない奴がいたものだ。P.C.法が可決発効された直後ならいざ知らず、いまだにそんな人間がいようとは。

 「夏威夷産はいいね」、そういいながら烏龍茶をジョッキで飲み干す夏川。メイドが慣れた手つきで、次のジョッキを持ってきて言った。「それで、どうなったんですか」「まさか、日本語じゃないよね?」ぼくもメイドに続く。聞かないわけにはいかない。

 「いや、それが日本語だったよ。何を言ってるかわからなかったけど、あれは日本語だった。もちろん、すぐに警察が来て連れていかれた。警察相手には英語で喚いていて、京都大学の吉田寮から来た、と言っていた。あれはクインズだったから、もしかすると香港租界の人間かもしれない。警察は、勧誘未遂の疑いで逮捕と宣言したから、たぶんデータの投函・勧誘目的だったんじゃないかな。」

 ぼくとメイドは目を丸くした。投函と勧誘なんて、民間人にも即時射殺が法定許可されている重犯罪だ。P.C.法が最初に禁止した七項目のひとつだ。信じられない。

 「最近、物騒ですね、怖い」、メイドが珈琲を淹れ始める。香りがひらいていく。珈琲を淹れたメイドは仕事へ戻る。夏川と話していると、奥から支配人が出てきた。代々、この喫茶店をやっていて、現在14代目。水没する以前のナンバシティの頃から店を構えているらしい。老舗中の老舗だ。「毎度、最近、ここいらも物騒になってきましたなぁ、そういえば、先生、次回作も期待してます」、彼はそれだけ伝えると、また仕事に戻った。


 たしか100年ほど前だった。最後のオリンピックとともに日本の経済も終わった。ますます「グローバルな価値観」が断末魔のように聞こえていた時代だ。オリンピック以前からのハラスメントに関する運動の極大化、その反動の過激化、その結果、P.C.法が成立し、今では貴重な紙を使った投函、勧誘、路上での声かけなどが禁じられた。当時の人々のあけすけな感覚は想像もつかない。

 もっとも、子どもの頃に一度だけ、集団学習で通過したキリスト教原理主義ネオカトリック派の教会では「原初、人類の父祖たちは裸だった」と聞いた。公認宗教も政府もそんなアナーキーな思想を認めるわけがない。また、欧州でも、半裸や全裸で過ごせる海水浴場や水浴施設があったという。そんな荒唐無稽な話は到底信じられない。もしそんなものがあったとすれば、区画ごとAPC砲で消滅させられているに違いない。他人に肌を見せるなんて。

 こんなことは初等入力で誰もがインストールして知っている歴史だ。ただ、プログラム・データそのものが破損しているので、詳しいことはわからない。データの破損は、2045年の戦災と大地震・津波の甚大な被害を示している。大げさな言い方だが、大量絶滅が起きたようにそれ以前の膨大な記録が失われた。もっとも、絶滅したのは、当時「日本人」と呼ばれたぼくら、そして極東域の大部分だった。全世界の沿岸部にも相当な被害が出た。

 元老議会と長老党員たちから伝え聞いているのは、当時の州都東京の複数個所で、ミサイルが落ちて爆発が起きたこと。その15分後に南海トラフ大地震が発生したこと。加えて、南海トラフ大地震だけでなく、世界規模で何かしらの災害が起きたらしいこと。「この国のかたち」は、あの日、失われた。しかし、发达国家の熱烈な援助により復興を果たした。そう伝え聞いている。



 夏川が次の烏龍茶を飲み干し、お花摘みに、と席を立ったところで、カランカランと扉が鳴った。「旦那様がおかえりにな」「ユニバーサル・クローン社、警察部門です。市民の皆さんは動かないように。一言も発しないでください。共生党選弁護人を介して発言してください。風紀紊乱、違法営業、不適切言語使用、騒擾罪の疑いのための捜査です。」

 しまった。会社にバレるとまずい。緑民服を着ていない。

 今日、路上であれ、職場であれ、家族以外の男女が顔を見せて会話することは禁じられている。しかし、租界関係特区にあるこの喫茶店では、合法的に男女の会話が許可されている。実は、それだけでなく、ここでは客もメイドも本物の服を着て、自分の顔を出して会話している。合法に見せかけた違法なのだ。

 なぜなら世界市民たるもの、みな緑民服を着ることが義務づけられている。出生時に移植される生体視聴学野と緑殖迷彩被装、通称「緑民服」は、人々に見た目の自由と平等を与えた。生体視聴学野は、人々の緑殖迷彩被装と連動し、市民の顔、身体、印象をすべて平均的で違和感のないものに代えた。自分の顔、身体と服で外を歩き、他者と出会うこと、それは罪なのだ。

 「市民、あなたのアバター情報がデータベースと照合できません。それはあなた自身の顔面ではありませんか。さらに服装についてもエラーが出ています。市民憲章に違反の疑いがあります。摘発します。」メイドが警察に質されている。

 「市民、あなたも緑殖迷彩被装を着ていませんね。AFB罪容疑(abusing of facial being harassment)で拘束します。ユニクロンのドローンが近づいてくる。顔とあだ名だけは知っている常連客たちも追い詰められている。

 「ユニクロンだけ狙え!」轟音とともに閃光が走り、扉と道沿いのガラスが吹っ飛んだ。何が起きたのか分からない。耳鳴りがする。衝撃で椅子から落ちていた。背中が痛い。手のひらを割れたマグで切っている。

 目の前で、夏川のカバンがバラバラになっている。中に入っていたノート型パソコンも折れて中身が見えている。そこから何か、白い紙のようなものが出ている。何だろう。写真か。

 「市民の幸福への攻撃と違法光学複写物チェキ(CHEKI:crime of hentai knowledge images)の存在を感知しました。教育モードに転換、洗浄フェーズに移行します。」耳鳴りの中、ドローンの武器使用解除の宣言が聞こえた。

 なんだ。なんで夏川のカバンからチェキが大量に出てくるんだ。チェキの所持は、最低でも禁固20年からだぞ。粉塵の中、ひらひらと舞い散るチェキ、そこに手にペンを持った夏川が見えた。ペン先から光が一閃、ドローン一体が二つに斬れて崩れ落ちた。

 何なんだ、あれ。ペン型超電磁砲?汎アメリカ合衆国の兵器の?噂では聞いたことあったが、実在したのか。夏川の背後に別のドローンが迫る。今度はそのドローンの頭半分が吹っ飛んだ。

 排気ガスのような匂いがする。博物館で聞いたことのあるような何かのエンジン音がする。「ヒーハー!DANNA様の登場だぜ!」吹っ飛んだガラスの外に、警察ドローン部隊を襲う違法チェキ・シンジケートが見えた。トゲの生えたバイクに乗るあの男たち、廃棄区画で有名なザカモトじゃないのか。なんで今、DANNA(Deliverance the Anti Nerd National Alliance:対オタク国軍 救済組織)が警察と戦ってるんだ。

 何が起きてるんだ。とにかく逃げなくては...と起き上がり、裏口を目指したら、洗浄兵器フェーズのドローンの目前に出てしまった。洗浄フェーズのドローンは、動体感知で殲滅を行い、現場を浄化する。これはやばい。固まっていたら、そのままドローンが縦に真っ二つに割れて倒れた。カランカラン、同時に背後で扉が崩れるとともに鈴が鳴った。周囲の音が止む。戦闘が終わったようだ。ドローンの代わりにメイド長が立っている。

 「夏川先生、行きましょう」、メイド長が夏川に声をかける。夏川はメガネを拭いて、「じゃあ、また」とぼくに本を渡す。「異世界...?...ぶ?」、古書のようでタイトルも読めない。

 別のメイドがいう。「旦那様のおかえりです」。いつものような声はない。土埃とエンジンの轟音とともに、踵を返した夏川とメイドたちが遠ざかっていく。汚れた顔とぼろぼろの服で、ぼくは彼女らを見送った。



 「Villain of Angels:恶棍天使」、通称ヴィランジュ。後にも先にも、ぼくが彼女らに出会ったのは、あの一度だけだ。すぐに警察に保護されて、どさくさに紛れて、たまたま現場に居合わせた通行人ということになった。ぼくをスキャンしたドローンは全部破壊されていたからだ。

 違法チェキ・シンジケートDANNA、日本語思想犯・夏川蝉佑、反P.C.法テロリストVillAnge、あれ以来、彼らの名前を忘れることができない。ナンバシティから船で海を渡り、州都京都に戻ってのち、ぼくも少々、危ない橋を渡った。吉田寮の地下図書館で歴史を調べたのだ。数ある租界でも有名な自治都市・左京区の22世紀学研究室の伝手があったからだ。

 そして、あの日が来た。中央委員会のニュース番組が突如として切り変わり、ヴィランジュの声明文が配信された。同時に、緑色服が突如としてクラシカル・メイド服に変化し、声明が終わり次第、生体視聴学野の機能が解除されると宣言された。

 あの日から一年、夏川蝉佑には会っていない。しかし、彼は巨大レジスタンスの一員だったらしい。日本語思想犯として投獄されていた津田という男が率いる神戸租界連合、また支配人が密かに所属していたナンバシティとその海底基地の仲を、夏川が取り持ったと聞いた。さらに、これらの海上租界と旧奈良・和歌山緩衝地帯、出島・香川と淡路島フロートが京都ともうすぐ海上連絡橋で結ばれる。この建設にも夏川が噛んでいるらしい。ほどなく、旧東日本の租界とも同盟関係が結ばれるだろう。夏川の同志カルロ禅という男があちらの指導者ときく。

 租界同盟の独立、ヴィランジュの旗に集い、ぼくもそのために戦うつもりだ。顔を見せて語る自由とメイド服を着る自由が、その先に待っている。