少し前、ピアノを弾こうとして、爪が割れていることに気づきました。
ほんの小さなヒビでしたが、その瞬間から、鍵盤に触れるのが急に怖くなりました。ここで弾いたら、もっと割れるのではないか。悪化したら、しばらく弾けなくなるのではないか。そんなことばかり考えてしまい、結局ふたを閉めてしまいました。


私は趣味で少しピアノを弾いているだけです。それでも、爪の状態ひとつで「弾きたい」という気持ちが簡単にしぼんでしまうことに、自分でも驚きました。若い頃は、多少欠けても気にせず弾いていた気がします。今は、年齢や季節のせいなのか、爪が前よりずっと頼りなく感じられます。


ピアノを弾くことで、さらに爪が割れそうな気がする。
その不安が、音楽への一歩をためらわせます。弾かなければ音楽は遠ざかるのに、弾けば身体にダメージが出そうで怖い。その板挟みのような気持ちが、なんとも言えず重く感じられました。


そんなとき、ふと疑問が浮かびました。
高齢になっても演奏を続けているピアニストたちは、爪の不安とどう付き合っているのだろう、と。


調べてみると、少し意外なことがわかってきました。多くの高齢ピアニストは、爪を強くしようとか、完璧な状態に保とうとはしていないようなのです。爪は弱くなるもの、割れやすくなるもの、という前提に立ったうえで、とにかく短く整え、音楽の邪魔をしない状態にしている。それだけ、という姿勢が共通していました。


マルタ・アルゲリッチさんも、爪について多くを語ることはありません。けれど、映像を見ると、爪は驚くほど短く、存在感がありません。爪がどうこうという次元に、意識を留めていないようにも見えます。音楽に集中するために、爪は「気にならない状態」にしておく。それ以上でも以下でもないのだろうと思いました。


また、高齢のピアニストほど、弾き方そのものが変わっていることにも気づきました。強く打ち込むのではなく、衝撃を分散させるようなタッチで、爪に負担が集中しないように弾いている。結果として、爪をこれ以上傷めない奏法になっているように見えます。


さらに印象的だったのは、爪の不調を理由に、自分を責めていないことです。今日は爪が弱いから控えめにする。今の季節は無理をしない。そうやって、身体の状態を前提条件として受け入れながら、音楽と距離を取っているようでした。


爪が割れそうで弾きたくない、という今の自分の気持ちは、決して特別なものではないのかもしれません。プロでさえ、同じように身体の変化を感じながら、それでも音楽を手放さずにいるのです。


そう思うと、少し気持ちが楽になりました。
今日は弾かなくてもいい。爪が落ち着いたら、また鍵盤に触れればいい。怖さを感じる自分を否定せず、それでも音楽を完全に遠ざけない。そのくらいの距離感で、ピアノと付き合っていけばいいのだと思えるようになりました。


割れかけた爪は、私にとって不便な存在でしたが、同時に、年齢とともに変わる身体と、音楽との向き合い方を考えるきっかけにもなりました。
無理をしなくても、音楽は続けられる。そのことを、静かに教えてくれた気がしています。