松野明美(147cm,1968年4月27日(53歳))は-  о陸上競技長距離走選手  оマラソン選手  оタレント  о政治家  о熊本市議  о熊本県議  о参院議員熊本選挙区(改選1)検討中  -経歴。 ★松野明美(147cm,1968年4月27日(53歳)) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 日本の政治家 松野 明美 まつの あけみ 前田 明美 まえだ あけみ 生年月日:1968年4月27日(53歳) 出生地:熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区) 出身校:熊本県立鹿本高等学校 前職:陸上競技選手、タレント 所属政党:無所属 配偶者:あり 公式サイト:松野明美公式サイト 熊本県 熊本県議会議員 選挙区:熊本市第1区 当選回数:2回 在任期間:2015年(43歳)4月30日 - 熊本市議会議員 当選回数:2回 在任期間:2010年(38歳) - 2015年(43歳)4月3日 松野 明美 :陸上競技 選手情報 フルネーム:まつの あけみ ラテン文字:Akemi Matsuno 国籍:日本 種目:長距離走・マラソン 所属:ニコニコドー(現役時代) 生年月日:1968年4月27日(53歳) 生誕地:熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区) 身長:147cm 体重:35kg 引退:1995年(27歳) 松野 明美(まつの あけみ、本名:前田明美、1968年4月27日 - )は、元陸上競技長距離走・マラソン選手、タレント、政治家。 1988年(20歳)・ソウルオリンピック女子10000m日本代表。 2010年(42歳)から熊本市議会議員。2015年(47歳)から熊本県議会議員。無所属。旧鹿本郡植木町(現・熊本市北区)出身。現在、次男が障がいを持つ、2児の母である。 ランナーとして 1968年、スイカ・メロンの全国一の産地である熊本県鹿本郡植木町(現:熊本市北区)の農家に生まれる。小学生の頃は無口でいじめられっこだったが、小学校5年生のとき市内のマラソン大会で優勝。そのときの母ユイ子の笑顔がうれしく、陸上に目覚め、それとともに性格も明るくなる。以来、母のバイク伴走でマラソンの自主練習に励んだ。 高校時代は全国的には無名で、当初は看護婦(現:看護師)を目指していた。 高校から実業団へ - 岡田監督との出会い 高校時代の松野は、全国区では無名とはいえ、九州地区では体の小さいランナーとして有名だった。ダントツでインターハイ九州地区大会を制覇しながらも、あまりにも体が軽すぎて(現役当時、身長147cm、体重35kg、足のサイズ21cm)、強風で飛ばされ足をラインの中に入れてしまい失格したほどである。それを見ていた岡田正裕(後に亜細亜大学監督として箱根駅伝で総合優勝)が、倒れながらも前に進もうとする松野の姿に感動し、勧誘したという話は有名。しかし松野の両親は猛反対。そこで岡田は何度も松野の家に通い、「オリンピックに行けるから」と言って説得したという(後に岡田も認めるように、当時としては当然ながら勧誘のためのリップサービスであった)。 高校卒業後、熊本の大手スーパーマーケットであるニコニコドーに入社。スーパーの時計売り場で働く。同時に、同社の取引先の営業マンだった岡田が「駅伝は金がかからないから」と同社社長を説得してその年に創設した実業団チームである同女子陸上部に所属。岡田監督の指導の下、月間1000キロ以上走り込み、国体優勝などの実績を積んでいく。のちには、拒食症・過食症を繰り返し、岡田自身が「休めるときは休め」と声をかけざるをえないほど、松野は練習の鬼となる。 駅伝女王 - 女子長距離界のエースへ 松野の実質上の全国デビューはなんといっても女子駅伝である。全日本実業団対抗女子駅伝や全日本都道府県対抗女子駅伝などでは、小さな体で自分より大きなランナーを次々とごぼう抜きしていく姿が、(当時は女子マラソンや女子駅伝が始まったばかりで、駅伝中継に乗り出したTV局としても視聴率のとれるスターを求めていたということもあり)各メディアで鮮烈に取り上げられた。特に、ルーキーイヤーである1987年(19歳)全日本実業団対抗女子駅伝では、初出場の熊本のニコニコドーという会社の名前やショッキングピンクのユニフォームも衝撃だったが、圧巻は最長の4区10キロで当時女子マラソンの第一人者だった増田明美(日本電気)を含む松野の12人抜き。非公認ながら10キロロードの日本最高記録32分17秒をマーク、松野は一躍全国の注目を集めた。まさしくそれは日本女子長距離界のエースが増田から松野へ代わった瞬間でもあった。 1988年(20歳)ソウルオリンピックでは、女子長距離トラック唯一の代表である10000m代表に選ばれた。本番でも積極果敢な走りを見せ、日本記録を出したものの次点で予選落ち。このとき、松野は増田の持っていた日本記録を6年ぶりに更新している。 女子駅伝の松野というとごぼう抜きのイメージが強いが、1988年(20歳)第7回全国都道府県女子駅伝での荒木久美(鹿児島県チーム、ソウル五輪マラソン代表)との総合2位をめぐるアンカー対決(最後荒木にかわされ熊本チームは3位)など、印象に残る接戦も演じている。中でも1990年(22歳)の全国実業団女子対抗駅伝では、新人五十嵐美紀(リクルート、バルセロナ五輪10000m代表)と最長区間4区で壮絶な総合2位争いを繰り広げた。松野は新人の五十嵐を軽くかわそうとしたが、五十嵐もかわされまいと前に出る。それに触発された駅伝女王・松野もまた前に出る…といった意地の張り合いはすばらしい接戦を生んだ。これは今日でも語り継がれる女子駅伝名場面である。チームとしてはニコニコドーは最終5区でリクルートに破れ総合3位にとどまるも、4区は松野が区間新記録で区間賞をとり、面目躍如。女王のまま、女子駅伝を去ることとなる。なお、同年(22歳)九州実業団駅伝では10キロの非公認ロード記録・30分59秒をマークした。 初マラソン - 大阪国際女子マラソンで2位 1991年(23歳)世界陸上東京大会では、10000mに出場した松野は故障上がりということもあり予選12位に終わり、決勝進出は成らなかった。予選レース後の記者会見では泣きながら「この小さな身体でよく頑張った自分を褒めてやりたい」とコメント、今後は長距離トラック競技からフルマラソン種目に転向する事を表明する。 松野自身初マラソン挑戦となった1992年(24歳)1月、バルセロナオリンピック・女子マラソンの代表選考レースを兼ねた大阪国際女子マラソンでは、スタート直後から積極的に日本人首位争いの集団に加わっていた。だが、大阪城公園内に入った26Km地点を過ぎた辺りで、先頭を走る小鴨由水と浅利純子(共にダイハツ工業所属)らのハイペースについていかず、カトリン・ドーレ(ドイツ ドイツ)と朝比奈三代子(旭化成)の第2集団に待機する。33Km過ぎ、松野はその第2集団から自ら抜け出してロングスパートを開始。残り5Km付近(約37.2Km地点)でペースダウンした浅利らを抜き去り、独り首位をひた走る小鴨を必死に追い掛けるも、その差が全く縮まらないままゴール地点の長居陸上競技場へ。松野と同じくこの大阪国際が初マラソンだった小鴨が、2時間26分26秒でレース当時の日本女子最高記録と及び初マラソン世界最高記録をマークして初優勝を果たし、それから36秒後に松野も日本最高記録(当時は有森裕子の2時間28分01秒)を59秒上回る、2時間27分02秒の好記録で2位に入る。この結果を受け、前1991年(23歳)8月開催の世界陸上東京大会・女子マラソンにおいて2時間29分57秒で日本女子トップの2位入賞・銀メダル獲得により、既に日本代表に内定していた山下佐知子と、大阪国際女子マラソン優勝者・小鴨の二人と共に、松野も女子マラソンの種目で「バルセロナ五輪代表入りはほぼ確実」とも言われていた。 バルセロナ五輪女子マラソン代表選考騒動 - 松野か有森か ところが、日本陸連関係者の間では国内選考レースで記録が良かった松野より、昨年(22歳)8月に酷暑の中世界陸上東京大会女子マラソンで2時間31分08秒で4位入賞の実績を残した、有森裕子(リクルート)を推す声が高いという噂が出たことも有ったのか、ある日の新聞で『(バルセロナ五輪女子マラソン日本代表の)3人目は有森か松野か』と大きく記事にした紙面を見た松野は愕然とし、「有森さんはマラソンで世界陸上しか走ってないし、国内選考会は一度も出ていないのに?何で私と有森さんとが比較されてしまうの??」と、内心怒りがこみ上げたという。 その五輪女子マラソン代表選手発表の2日前、急遽松野は地元の熊本市内で、自ら異例の記者会見まで開くこととなる。松野は岡田監督らの同席の下、会見の席で駆け付けた新聞記者達やマスコミ陣、そして日本陸連に対して迄「私、ホント(オリンピック)に出たら、メダル…獲れるとは、本当に確実に思っていますので、その為にも今精一杯頑張ってますので、どうぞ…選んで下さい(笑)」「やっぱり、強い人は強いと思いますので、強い人を選んで欲しいです。(私は)負けませんから!」などと終始笑顔でアピールし続けていた。 一方、有森は国内選考レースには出なかった(当初有森も大阪国際女子マラソンにエントリー、松野との直接対決が注目されたが左足のケガで欠場)ものの、10km等のロードレースを出走し優勝するなど、故障の不安が無いことを強調している。バルセロナ五輪女子マラソン選考決定の当日まで、松野と有森のどちらに当落となるのか、全く分からない混迷状態となっていた。 1992年(24歳)3月28日、結局バルセロナ五輪の女子マラソン代表へ正式に選ばれたのは山下・小鴨と、そして最後の3人目は有森裕子だった。松野の名前はそこに無く、無念の落選となってしまったのである。しかも日本陸連は松野に対し「前回のソウル五輪同様、女子10000mで選出される可能性がある」との理由で、補欠代表にも選ばなかった(補欠は谷川真理)。この騒動の根本的な原因は、五輪代表選考にとって91年(23歳)世界陸上4位の有森がどういう位置づけなのか、つまり「世界陸上のマラソン競技が選考レースなのかどうか」「世界選手権4位入賞は代表内定なのか」「代表内定と決定はどう違うのか」などを当時の日本陸連は明言していなかったことにある。 松野は余りのショックに泣き崩れて混乱状態となり、落選時の記者会見には出席出来ず、ニコニコドーの小山部長と岡田監督の二人のみが会見に出席。その席で岡田監督も「何故落選となったのかが全く理解出来ない。松野が余りにも可哀想で、凄く残念でならない」「今さら10000mで松野を五輪に出場させるつもりは無い」と悔し涙を見せた。 このような基準の不明瞭な選考により、「裏では金が動いていたのではないか」「陸連の内部対立があったのでは」「あの記者会見は逆にマイナスに作用したのかも」など根拠のない様々な憶測や噂がテレビや週刊誌をにぎわすこととなる。またその後、1992年(24歳)8月のバルセロナ五輪女子マラソン本番で、有森が日本女子陸上選手として64年ぶりの2位入賞・銀メダルを獲得したことにより、選考結果に対して肯定的な風潮となり、松野は苦しむこととなる。さらに松野はその後、当時有森の方が自身よりもマラソン自己記録は遅いのに、自分が五輪に落選して有森が選出された事に一切納得出来ず、それから松野は心中有森をずっと妬み憎しむようになったという。 五輪代表落選 - その後 日本陸上・長距離界の女王から一転悲劇のヒロインとなった松野は結局失意の中、マラソンで次の1996年(28歳)アトランタオリンピック女子マラソン代表を目指すこととなる。しかし、1992年(24歳)8月の北海道マラソン・女子の部では20Km過ぎで優勝争いから脱落、30度近い気温と強い風が終盤松野を苦しめ、結局2時間38分台の4位(同レースではオルガ・アペル(アメリカ合衆国 アメリカ合衆国)が優勝、2位に浅利純子。特別ゲスト解説は有森裕子が担当)と低迷した。 翌1993年(25歳)1月の大阪国際女子マラソンに出走予定だったが故障により欠場、同年(25歳)3月の名古屋国際女子マラソンで松野は進退をかけてレースに臨んだ。その名古屋ではレース終盤まで優勝争いを演じ、優勝したカミラ・グラダス(ポーランド ポーランド)にあと一歩及ばなかったが、日本人トップの2位の好成績をあげる。その後同年(25歳)大阪国際で優勝した浅利純子、2位の安部友恵とともに、1993年(25歳)世界陸上シュトゥットガルト大会女子マラソン代表入りの切符を手にする。しかし、オリンピック代表選考騒動後の松野にとって、肉体的にも精神的にもピークを維持し続けることはもはや不可能であった。 浅利純子が2時間30分03秒の金メダル、安部友恵が2時間31分01秒の銅メダルに沸く世界陸上シュトゥットガルトの競技場に、松野がようやくゴールしたのは優勝の浅利から遅れること8分。8位入賞にも及ばない11位の成績に終わった松野は、競技場内で待っていた浅利と安部に、精根尽きた状態で倒れ込んでしまった。全日本実業団対抗女子駅伝での鮮烈な全国デビューから6年、増田からエースの座を華々しく奪った松野が、ひっそりと表舞台から降りた瞬間である。そして日本女子長距離界はマラソンでは有森・浅利・安部らを始め、トラックでは志水見千子・千葉真子・川上優子等、同じ1968年生まれの真木和・鈴木博美・弘山晴美、そして高橋尚子・野口みずきへと続く群雄割拠の時代=日本女子マラソン黄金期を迎えた。 現役引退後、松野は週刊誌媒体で日本陸連を告発するような以下の発言をしている。 「私はあの時、何も無理やりお願いするつもりで『私を選んでください』って記者会見を開いたんじゃないんです。あの時は絶対オリンピックの女子マラソン代表に選ばれると思って『頑張って金メダルを取ります』っていう挨拶だったんです」 「代表発表の日も期待感一杯で、まさか落ちるなんて考えもしなかった。ニコニコドーの合宿所で岡田監督に呼ばれた時、朗報だと思って飛んでいったんです。そしたら『落選』って聞かされて、頭の中がもう真っ白!その直後の事はよく覚えていませんが、それからマラソンをずっと恨み続ける毎日でした。なんでこんな裏切られ方をするのかって」 「別に有森裕子さんをけ落として出たいっていうんじゃなくて、私はマラソンで五輪に出たかっただけなんです。有森さんを恨んではいませんが、でも私よりタイムが悪かった有森さんが何故選ばれたんでしょうか?今でもよく分からないです、はい」 松野と有森はバルセロナ五輪の当時以来長らく会う機会がなかったが、2011年(43歳)にTBSで放映されたドキュメンタリー「ライバル伝説・光と影」において、約20年ぶりとなる顔合わせが実現した。この番組は好評を博し、映像を追加する形で2012年(44歳)6月に映画として公開された。初日の舞台挨拶に出席した有森に松野が「お話できて本当に良かった。つらかったのは私だけじゃなかったと知り、心の中に残っていたものがスッとなくなりました。でも今でも『私なら金(メダル)を獲れた』と思っています(有森・舞台客らも思わず苦笑していた)。いつか一緒に走りましょう」という電報を送ったことが、有森より紹介された。 引退 - 指導者・タレントの道へ 1995年(27歳)12月28日、足の故障が完治しない事を理由に、翌1996年(28歳)のアトランタ五輪女子マラソンへの国内選考会出場を断念、現役引退を表明する。引退の直接のきっかけは、いじめられっこだった松野が、陸上を始めるきっかけを与えてくれた母ユイ子の「もういいんじゃないかい」という言葉だったという。引退記者会見で「今一番やりたいことは?」と聞かれた後、松野は「できることならもう一度走りたい」と涙を浮かべていた。引退後は、ニコニコドー人事部係長を務める。同時に、1996年(28歳)から2000年(32歳)まで熊本県民テレビでスポーツキャスターも務めた。 1999年(31歳)、ニコニコドー陸上部休部とともに退社し、独立して「松野明美ヒューマンライフ」という事務所を設立。現在は講演やタレント活動などを行っている。また、岡田元ニコニコドー監督が亜細亜大学陸上部監督になった縁で、1999年(31歳)から2001年(33歳)まで亜細亜大学陸上部女子のコーチにも就任。後進の指導にも努めている。 タレントとして 2010年(42歳)2月15日放送の徹子の部屋に出演した際トークの主導権を握り黒柳徹子をも聞き役に回すほどの勢いを見せた。 結婚・子育て 2001年(33歳)結婚。 松野のかかあ天下ぶりと夫の温和で心優しい性格とのギャップからトーク番組への夫婦そろっての出演も多い。 次男が障害を抱えていることもあり、現在は遠地での活動を控え、地元熊本を中心に日帰りが可能な九州内での活動にとどめているため、九州以外で姿を見ることは少なくなっている。 政界入り 2010年(42歳)3月23日。植木出身である松野は、合併直後の3月末に「ふるさと植木をよくしたい」「障碍者・児の住みやすい街にしたい」との公約を掲げ無所属で立候補した。選挙の僅か1ヶ月前の立候補であったが、知名度の高さを生かして定員2人に対して2番目で当選を果たした。 2011年(43歳)4月はマラソンで遊説を行い「人の痛みのわかる議員になりたい」と訴え、幅広く支持を集め11,196票を獲得。2位以下に4,000票以上差をつけてのトップ当選を果たし、2期目のスタートを切った。所属会派は自民党・保守系無所属の会派の1つ「くまもと未来」。 2015年(47歳)4月3日、熊本県議会議員選挙に熊本市第1選挙区から立候補し、同日付けで熊本市議会議員を失職。13日に行われた熊本県議会議員選挙で当選した。 2019年(51歳)4月7日、投開票の熊本県議選では選挙区トップで再選を決めた 。 主な出演番組 ドラマ 「スローダンス」(フジテレビ)一坂花枝=一坂進(温水洋一)の妻役 「電車男」(フジテレビ)同じく一坂花枝役で出演 ドキュメンタリー 「報道発 ドキュメンタリ宣言 健ちゃん ヨーイドン!〜松野明美 ダウン症のわが子を抱いて〜」(テレビ朝日、2010年(42歳)2月22日) バラエティー ゴッドタン 最初でたぶん最後のゴールデンスペシャル 私の落とし方ドラマSP(テレビ東京、2017年(49歳)8月26日) まっちゃんねる(2020年(52歳)10月24日、フジテレビ)- 女子メンタル出演 カテゴリ: 日本の女子マラソン選手 日本の女子長距離走の選手 陸上競技日本代表選手 オリンピック陸上競技日本代表選手 世界陸上選手権日本代表選手 アジア競技大会陸上競技日本代表選手 アジア競技大会陸上競技メダリスト 日本のアジア競技大会銅メダリスト 日本のタレント 日本のスポーツ選手出身の政治家 熊本県議会議員 熊本市議会議員 日本の女性地方議会議員 熊本市出身の人物 1968年生存命人物  -松野明美(147cm,1968年4月27日(53歳))は、  о“元陸上競技長距離走・マラソン選手、タレント、政治家”  о“2010年(42歳)から熊本市議会議員。2015年(47歳)から熊本県議会議員。無所属”  о“小学校5年生のとき市内のマラソン大会で優勝”  о“高校時代は全国的には無名で、当初は看護婦(現:看護師)を目指していた”  о“ダントツでインターハイ九州地区大会を制覇しながらも、あまりにも体が軽すぎて(現役当時、身長147cm、体重35kg、足のサイズ21cm)、強風で飛ばされ足をラインの中に入れてしまい失格したほどである。それを見ていた岡田正裕(後に亜細亜大学監督として箱根駅伝で総合優勝)が、倒れながらも前に進もうとする松野の姿に感動し、勧誘したという話は有名”  о“高校卒業後、熊本の大手スーパーマーケットであるニコニコドーに入社。スーパーの時計売り場で働く。同時に、同社の取引先の営業マンだった岡田が「駅伝は金がかからないから」と同社社長を説得してその年に創設した実業団チームである同女子陸上部に所属。岡田監督の指導の下、月間1000キロ以上走り込み、国体優勝などの実績を積んでいく”  о“全日本実業団対抗女子駅伝や全日本都道府県対抗女子駅伝などでは、小さな体で自分より大きなランナーを次々とごぼう抜きしていく姿が、(当時は女子マラソンや女子駅伝が始まったばかりで、駅伝中継に乗り出したTV局としても視聴率のとれるスターを求めていたということもあり)各メディアで鮮烈に取り上げられた”  о“1987年(19歳)全日本実業団対抗女子駅伝では、初出場の熊本のニコニコドーという会社の名前やショッキングピンクのユニフォームも衝撃だったが、圧巻は最長の4区10キロで当時女子マラソンの第一人者だった増田明美(日本電気)を含む松野の12人抜き。非公認ながら10キロロードの日本最高記録32分17秒をマーク、松野は一躍全国の注目を集めた”  о“4区は松野が区間新記録で区間賞をとり、面目躍如。女王のまま、女子駅伝を去ることとなる”  о“ところが、日本陸連関係者の間では国内選考レースで記録が良かった松野より、昨年(22歳)8月に酷暑の中世界陸上東京大会女子マラソンで2時間31分08秒で4位入賞の実績を残した、有森裕子(リクルート)を推す声が高いという噂が出たことも有ったのか、ある日の新聞で『(バルセロナ五輪女子マラソン日本代表の)3人目は有森か松野か』と大きく記事にした紙面を見た松野は愕然とし、「有森さんはマラソンで世界陸上しか走ってないし、国内選考会は一度も出ていないのに?何で私と有森さんとが比較されてしまうの??」と、内心怒りがこみ上げたという”  о“「私、ホント(オリンピック)に出たら、メダル…獲れるとは、本当に確実に思っていますので、その為にも今精一杯頑張ってますので、どうぞ…選んで下さい(笑)」「やっぱり、強い人は強いと思いますので、強い人を選んで欲しいです。(私は)負けませんから!」などと終始笑顔でアピールし続けていた”  о“日本陸上・長距離界の女王から一転悲劇のヒロインとなった松野は結局失意の中、マラソンで次の1996年(28歳)アトランタオリンピック女子マラソン代表を目指すこととなる”  о“全日本実業団対抗女子駅伝での鮮烈な全国デビューから6年、増田からエースの座を華々しく奪った松野が、ひっそりと表舞台から降りた瞬間である。そして日本女子長距離界はマラソンでは有森・浅利・安部らを始め、トラックでは志水見千子・千葉真子・川上優子等、同じ1968年生まれの真木和・鈴木博美・弘山晴美、そして高橋尚子・野口みずきへと続く群雄割拠の時代=日本女子マラソン黄金期を迎えた”  о“1996年(28歳)のアトランタ五輪女子マラソンへの国内選考会出場を断念、現役引退を表明する。引退の直接のきっかけは、いじめられっこだった松野が、陸上を始めるきっかけを与えてくれた母ユイ子の「もういいんじゃないかい」という言葉だったという”  о“引退後は、ニコニコドー人事部係長を務める。同時に、1996年(28歳)から2000年(32歳)まで熊本県民テレビでスポーツキャスターも務めた”  о“岡田元ニコニコドー監督が亜細亜大学陸上部監督になった縁で、1999年(31歳)から2001年(33歳)まで亜細亜大学陸上部女子のコーチにも就任”  -という。(つづく)<記2021年11月21日>〈19,658Byte〉