ジャクリーン・ケネディ・オナシス(173cm,1929年-1994年(64歳没))は-  о配偶者:  оジョン・F・ケネディ(1953-1963)  оアリストテレス・オナシス(1968-1975)  оモーリス・テンペルズマン(,1929年8月26日(91歳).ベルギー出身のダイヤモンド商)  о1,000万ドルといわれる(2,600万ドル説)オナシスの財産を手にした  оジャクリーンの遺産相続した財産は彼女の愛人モーリス・テンペルスマンの手によって数億ドルに利殖された  -再婚など。 ★ジャクリーン・ケネディ・オナシス(173cm,1929年-1994年(64歳没)) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシス Jacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassis 任期:1961年1月20日 - 1963年11月22日 先代:マミー・アイゼンハワー 次代:レディ・バード・ジョンソン 個人情報 生年月日:1929年7月28日 出生地:アメリカ合衆国ニューヨーク州サウサンプトン 没年月日:1994年5月19日(64歳没) 死没地:アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市 配偶者:ジョン・F・ケネディ(1953-1963) アリストテレス・オナシス(1968-1975) 子女:キャロライン・ブービェ・ケネディ ジョン・F・ケネディ・ジュニア パトリック・ブービェ・ケネディ 職業:アメリカ合衆国大統領夫人、編集者 宗教:カトリック教会 ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシス(Jacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassis、1929年7月28日 - 1994年5月19日)は、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの夫人。1961年から1963年までアメリカのファーストレディであった。身長5フィート8インチ(約173cm)。 概要 1961年1月20日にアメリカ大統領に就任したジョン・F・ケネディは43歳であり、ジャクリーンも31歳でファーストレディとなった。1968年(38歳)秋にギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスと再婚し世界を驚かせた。オナシスとの死別後、ジャクリーンはニューヨークに移って編集者としての人生を歩んだ。 彼女は単なる大統領夫人という枠を超えて、1960年代から1980年代にかけてファッションアイコンとして世界の女性の憧れとなった。特にケネディ大統領が撃たれた時に彼女が着ていたピンクのシャネルのスーツにピルボックス帽の組み合わせは時代を象徴するファッションとして人々の記憶に残っている。1994年に死去し、元の大統領夫人としてアーリントン国立墓地のジョン・F・ケネディの墓の横に埋葬された。 生涯 生い立ちと教育 1929年、ジャクリーン・リー・ブーヴィエはニューヨーク州ロングアイランドのサフォーク郡サウサンプトンで、父ジョン・ヴェルヌー・ブーヴィエ3世(John Vernou Bouvier III、1891年 - 1957年)と母ジャネット・リー・ブーヴィエ(Janet Lee Bouvier、1907年 - 1989年)の間に生まれた。夫妻の間にはジャクリーンとその妹であるキャロライン・リー・ブーヴィエ(1933年生まれ)の二人の子どもがいた。フランス系の父ジョン・ブービエは株の仲買人で財産家、アイルランド系の母ジャネット・リーの実家も裕福だった。しかし父ジョンは「ブラックジャック」とあだ名された道楽者で女性関係も派手だったため、1940年に夫妻は離婚し、母ジャネットはその後スタンダード・オイルの相続者で実業家ヒュー・ダドリー・オーチンクロスと再婚し、二人の子ども(ジャネットとジェームズをもうけた。 アイルランド系の母ジャネットの家系には、ジャクリーンの曾祖父にあたる人物がアイルランドのコークからアメリカにやってきてニューヨーク市の公立学校の校長になった者がいた。父ジョン・ジャックにはフランス、スコットランド、イギリスの血が入っていた。 6歳のジャクリーン(1935年) ジャクリーンは母ジャネットの影響で幼いころから乗馬を好み、これを生涯の趣味とした。また厳格な母からエチケットやマナーなど厳しく躾られ、母が社交好きであったので女性としての嗜みやファッションセンスを受け継いでいく。 学齢に達したジャクリーンは、ニューヨークのチャピン・スクールを皮切りに、メリーランド州のベセスダにあるホルトン-アームズ校(1942年(12歳) - 1944年(14歳))、コネチカット州ファーミントンのミス・ポーターズ・スクール(1944年(14歳) - 1947年(17歳))へと進んだ。さらにニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー大学(1947年(17歳) - 1948年(18歳))に2年在籍した後でスミス大学の留学プログラムを利用してフランスに渡り、グルノーブル大学とソルボンヌ大学に学んだ1947年(17歳)、ジャクリーンが17歳で社交界にデビューしたとき、コラムニストのイゴ・カッシーニは彼女がその年の「デビュタント・クイーン」(社交界デビューした女性の中のナンバーワン)であると書いた。そして実際に彼女は「デピュタント・オブ・ジ・イヤー」に選出され、さらに「ヴォーグ」誌のエッセイ・コンテストに優勝して才色兼備ぶりを発揮し始める。フランスから戻ったジャクリーンは、ジョージ・ワシントン大学の4年に編入しフランス文学を専攻して1951年(21歳)に学位を取って卒業した。同年(21歳)の夏、ジャクリーンは妹のリーと二人でヨーロッパ旅行を楽しんだ大学卒業後、ジャクリーンは継父オーチンクロスの知人アーサー・クロックの紹介でワシントン・タイムズ・ヘラルド紙に就職し、記者として働いた1952年(22歳)5月、記者でありケネディ兄弟の友人だったチャールズ・バートレット家のパーティーで、ジャクリーンは当時下院議員でその年の秋の上院議員選挙を目指していたジョン・F・ケネディ(ジャック)と知り合ったジャックがジャクリーンを父親の「ジョー」(ジョセフ・P・ケネディ)に紹介すると、ジョーは彼女をすぐに気にいった学歴と気品があり、カトリック教徒で、何より資産家の令嬢である。彼女こそがケネディ家の嫁にふさわしく、将来合衆国大統領のファーストレディとなるべく資質を備えているとジョーは見たのだ。同じころ、ジャクリーンは株式仲買人のジョン・ハステッドと婚約していたが、ケネディとの付き合いが進む中で婚約が解消された。 そして1953年(23歳)5月英王室のエリザベス二世の戴冠式にジャクリーンが取材でロンドン滞在中にケネディから電報でプロポーズされ、ジャクリーンは「オムニ・パーカー・ハウス・ホテル」でこのプロポーズを受け入れた。 結婚 1953年(23歳)9月12日、36歳の上院議員ジョン・F・ケネディと24歳のジャクリーン・ブービエはロードアイランド州ニューポートの聖マリア・カトリック教会で結婚式を挙げた。ボストン大司教リチャード・クッシングの司式で700人が参列した式では、時のローマ教皇ピウス12世の祝電が読みあげられた。オーチンクロス家の所有するハマースミス・ファームで行われたレセプションは1200人のゲストが招かれる社交界の一大イベントであった。 夫の闘病 1954年(24歳)10月、ケネディは脊椎の手術を受けることになった。政治家としてのイメージを傷つけるものとして秘密とされていたが、ケネディはかねてより健康状態に大きな問題を抱えていた。それはアジソン病、恒常的な頭痛、胃痛、腹痛、腰痛、排尿障害、前立腺の炎症などであった。これらの中で特にケネディを苦しめたのは腰痛であった。このころの彼は松葉杖なしには歩けず、自分で靴下を履くのも苦しいほどであった検査の結果、第五腰椎がつぶれていることがわかった。医師団は手術が必要だが、アジソン病の影響で手術には大きなリスクが伴うことを説明した。手術は断行されたが、予想通り術後の経過が悪く、危篤状態に陥って(カトリック教徒が臨終時に司祭から受ける)終油の秘跡まで受けた。その後なんとか持ち直したものの、ケネディは半年もの間ベッドから立ち上がることができなかった。そのような状態にあったケネディをジャクリーンは献身的に支えた結婚後に最初の子は流産し、1956年(26歳)に初めての女児を生んだが死産であった。また、結婚しても変わらないケネディの女癖の悪さに傷ついていたジャクリーンに、死産のニュースを聞いても地中海でのクルーズから戻らなかった夫への不信感がとどめを刺し、彼女は離婚を真剣に考えるようになったジョーは彼女を呼んで、離婚はカトリック教徒であり、政治家であるジャックにとって致命的なイメージダウンになるため結婚生活を続けてくれるよう頼み、もし子どもが生まれたら一人につき100万ドルの信託財産を与えると約束してジャクリーンを翻意させたという。 ジャクリーンはその後、キャロライン(1957年11月29日)、ジョン・ジュニア(1960年11月25日)を続けて生んだ。 ファーストレディ 1960年(30歳)の大統領選挙では、妊娠していたジャクリーンもほかのケネディ家のメンバーと同じように選挙運動に駆り出された1960年(30歳)11月9日、ケネディは僅差でリチャード・ニクソンに勝利31歳のファーストレディは(21歳のクリーブランド大統領夫人、24歳のタイラー大統領後妻ジュリア夫人に次いで)アメリカの歴史上3番目に若かった。 ファーストレディとなってホワイトハウスに入ったジャクリーンは、まずホワイトハウス内部のリフォームと家具や備品の管理に積極的に取り組んだ。これはそれまでにホワイトハウスの近代化を図る名目で歴史的に由緒あるものや家具がホワイトハウスから出されて、ジャクリーンがホワイトハウスに入ったころにはすでに18世紀頃の輝きを失っていた。そこで全ての部屋の暗い色調の壁やカーテンを明るく、若さと気品を感じさせるものに変え、また絵画や家具などの調度品も国内の骨董業者から仕入れ、彼女の感性でホワイトハウスをアメリカ文化を象徴する空間に改装したホワイトハウスの年間維持費を僅か1カ月で使い切った新しいホワイトハウスは評判を呼び政府のイメージアップと費用以上の効果をもたらした。この番組は史上初めてホワイトハウスの奥深くにテレビカメラが入り、案内役をつとめたジャクリーンの気品に視聴者が魅了された夫が大統領になってもその浮気癖は変わらず、ジャクリーンは夫とホワイトハウス内で激しく口論することもあった。 1963年(33歳)8月9日、ジャクリーンは生まれたばかりの息子パトリックを病気で失い、悲嘆にくれた。ジャクリーンの妹リー・ラジヴィルは、姉をギリシャ人大富豪アリストテレス・オナシス所有の船によるクルーズに誘ったジャクリーンは子どもたちを残して出かけることに乗り気ではなかったが、リーの強い勧めもあってこのクルーズに参加した。しかし、この休暇中に既婚者であったリーとオナシスが急接近した。 大統領暗殺 ダラスの人々の熱狂的な歓迎ぶりにケネディ夫妻は防弾ハッチの使用を拒否し、テキサス州知事ジョン・コナリー夫妻と共に大統領専用車リンカーンに乗ってダラス市内をパレードしていった12時30分、エルム通りを走る車の中でジャクリーンの隣に座っていたケネディ大統領が2発の銃弾を受けた。ジャクリーンは突然倒れた夫の異常に気づき、車の後部トランクの上にあがった後方にいたジャクリーンのシークレットサービス、クリント・ヒルが車に駆け上がってジャクリーンを座らせた。車はそのままパークランド記念病院に向かったが、病院に到着後に夫の体を抱きしめているジャクリーンは大統領の身体を引き離さず、クリント・ヒルが自分のスーツの上着を大統領の頭と上半身にかけて、やっと引き離して病院の救急病棟に運び入れた。病院で夫の死を覚悟したジャクリーンは司祭を呼ぶよう依頼し、ずっと夫の傍にいたいと告げて処置室に入った。やがて終油の秘蹟を受けて大統領の死亡が告げられた午後2時15分、暗殺された大統領の遺体は棺に入れられてエアフォースワンに積み込まれ、混乱の続く機内では副大統領リンドン・ジョンソンが第36代大統領としての就任宣誓を行い、血染めの服をきたままのジャクリーンが横に同席してこれを見守ったホワイトハウスからセントマシューズ教会大聖堂まで星条旗に覆われた棺を乗せた砲車が行進し、その後をジャクリーンとロバートとエドワードのケネディ兄弟が寄り添って歩いて教会に向かった。ミサが行われた後に大聖堂の階段下で、ジャクリーンはこの日が3歳の誕生日であった幼い息子のジョン・ジュニアに何かささやき、その直後ジョン・ジュニアは前に進み出て、砲車に載せられて墓地に牽かれていく父の棺に小さな敬礼をして父に最後の別れをした。この場面は世界中の人々の涙を誘い、長く記憶されることとなった1963年(33歳)12月6日、ジャクリーンは二人の子どもと共にホワイトハウスを後にした。 オナシスとの再婚 夫ジョンの死後、ジャクリーンのもっとも大きな不安は子どもたちの安全の確保であった。大統領暗殺後1年間はシークレットサービスの警護がつき、ファーストレディになった時からずっと周囲の警護をしてくれたクリント・ヒルも暗殺事件後も引き続き警護にあたってくれたが、1964年(34歳)末にそれも終了して、不安は増すばかりであった。 その不安は義弟にあたる「ボビー」ことロバート・ケネディの暗殺(1968年(38歳)6月5日)によって頂点に達したかねてよりアリストテレス・オナシスと交際していたジャクリーンは再婚と出国を決意、翻意を促す多くの人々の制止を振り切ってオナシスのもとに向かった1968年(38歳)10月20日、イオニア海に浮かぶスコルピオス島でジャクリーンとオナシスは結婚式をあげた。オナシスとの結婚によって子どもたちの安全と自分の自由が同時に手に入ると考えていたが、しかし、今度はパパラッチたちに追いかけ回されるようになる1969年(39歳)11月に義父ジョーが危篤との知らせを聞いたジャクリーンはすぐにケネディ家に駆けつけ、その最期を看取り、葬儀に参加したパパラッチがギリシャの島でジャクリーンの裸を盗撮し、ハスラー誌の出版者ラリー・フリントはその写真を買い取り、『10億ドルの茂み』のタイトルでポルノ雑誌ハスラーの1975年(45歳)8月号でそれを公表したこともあった。 ジャクリーンとオナシスの関係は再婚する時に子どもを作らない契約書を結び、オナシスから大金を貰い肉体関係となり性行為する夫婦だったので高級売春婦と呼ばれていた。 二人の関係は誰が見ても冷えきったものになっていた。 1975年(45歳)3月にオナシスがパリで死去した際、ジャクリーンはそこに立ちあうことなく、遠く離れたニューヨークで暮らしていた。 晩年 オナシスの死後、ジャクリーンはニューヨークで編集者の仕事につく。晩年のジャクリーンにとって友人であり、恋人であったのはベルギー出身のダイヤモンド商モーリス・テンペルズマンであった。テンペルズマンは妻と長く別居していたが、離婚できなかったので、ジャクリーンと再婚することはなかった1994年(64歳)1月、ジャクリーンは自分が非ホジキンリンパ腫に罹患したことを知った。短い闘病生活の間に病は急速に進行し、5月19日ジャクリーン・オナシスは64歳で世を去った。 カテゴリ: アメリカ合衆国の大統領夫人 ジョン・F・ケネディ ニューヨーク州サフォーク郡出身の人物 フランス系アメリカ人 イングランド系アメリカ人 スコットランド系アメリカ人 アイルランド系アメリカ人 ケネディ家 オナシス家 アリストテレス・オナシス アメリカのソーシャライト パリ大学出身の人物 アーリントン国立墓地に埋葬された人物 ジョージ・ワシントン大学出身の人物 1929年生 1994年没  -ジャクリーン・ケネディ・オナシス(173cm,1929年-1994年(64歳没))は、  о“ジャクリーン・リー・ブーヴィエはニューヨーク州ロングアイランドのサフォーク郡サウサンプトンで、父ジョン・ヴェルヌー・ブーヴィエ3世(John Vernou Bouvier III、1891年 - 1957年)と母ジャネット・リー・ブーヴィエ(Janet Lee Bouvier、1907年 - 1989年)の間に生まれた”  о“妹キャロライン・リー・ブーヴィエ(1933年生)”  о“フランス系の父ジョン・ブービエは株の仲買人で財産家、アイルランド系の母ジャネット・リーの実家も裕福だった”  о“父ジョンは「ブラックジャック」とあだ名された道楽者で女性関係も派手だったため、1940年に夫妻は離婚”  о“メリーランド州のベセスダにあるホルトン-アームズ校(1942年(12歳) - 1944年(14歳))、コネチカット州ファーミントンのミス・ポーターズ・スクール(1944年(14歳) - 1947年(17歳))へと進んだ。さらにニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー大学(1947年(17歳) - 1948年(18歳))に2年在籍した後でスミス大学の留学プログラムを利用してフランスに渡り、グルノーブル大学とソルボンヌ大学に学んだ”  о“1947年(17歳)、ジャクリーンが17歳で社交界にデビューした”  о“「ヴォーグ」誌のエッセイ・コンテストに優勝して才色兼備ぶりを発揮”  о“フランスから戻ったジャクリーンは、ジョージ・ワシントン大学の4年に編入しフランス文学を専攻して1951年(21歳)に学位を取って卒業した。同年(21歳)の夏、ジャクリーンは妹のリーと二人でヨーロッパ旅行を楽しんだ”  о“大学卒業後、ジャクリーンは継父オーチンクロスの知人アーサー・クロックの紹介でワシントン・タイムズ・ヘラルド紙に就職し、記者として働いた”  о“1952年(22歳)5月、記者でありケネディ兄弟の友人だったチャールズ・バートレット家のパーティーで、ジャクリーンは当時下院議員でその年の秋の上院議員選挙を目指していたジョン・F・ケネディ(ジャック)と知り合った”  о“ジャックがジャクリーンを父親の「ジョー」(ジョセフ・P・ケネディ)に紹介すると、ジョーは彼女をすぐに気にいった”  о“学歴と気品があり、カトリック教徒で、何より資産家の令嬢である。彼女こそがケネディ家の嫁にふさわしく、将来合衆国大統領のファーストレディとなるべく資質を備えているとジョーは見たのだ”  о“ジャクリーンは株式仲買人のジョン・ハステッドと婚約していたが、ケネディとの付き合いが進む中で婚約が解消された”  о“1953年(23歳)5月英王室のエリザベス二世の戴冠式にジャクリーンが取材でロンドン滞在中にケネディから電報でプロポーズされ、ジャクリーンは「オムニ・パーカー・ハウス・ホテル」でこのプロポーズを受け入れた”  о“1953年(23歳)9月12日、36歳の上院議員ジョン・F・ケネディと24歳のジャクリーン・ブービエはロードアイランド州ニューポートの聖マリア・カトリック教会で結婚式を挙げた”  о“オーチンクロス家の所有するハマースミス・ファームで行われたレセプションは1200人のゲストが招かれる社交界の一大イベントであった”  о“1954年(24歳)10月、ケネディは脊椎の手術を受けることになった。政治家としてのイメージを傷つけるものとして秘密とされていたが、ケネディはかねてより健康状態に大きな問題を抱えていた。それはアジソン病、恒常的な頭痛、胃痛、腹痛、腰痛、排尿障害、前立腺の炎症などであった”  о“腰痛”  о“松葉杖なしには歩けず、自分で靴下を履くのも苦しいほどであった”  о“検査の結果、第五腰椎がつぶれていることがわかった。医師団は手術が必要だが、アジソン病の影響で手術には大きなリスクが伴うことを説明した。手術は断行されたが、予想通り術後の経過が悪く、危篤状態に陥って(カトリック教徒が臨終時に司祭から受ける)終油の秘跡まで受けた”  о“半年もの間ベッドから立ち上がることができなかった。そのような状態にあったケネディをジャクリーンは献身的に支え、ケネディのためにグレース・ケリーを病室に呼ぶほどであった”  о“結婚後に最初の子は流産し、1956年(26歳)に初めての女児を生んだが死産であった”  о“結婚しても変わらないケネディの女癖の悪さに傷ついていたジャクリーンに、死産のニュースを聞いても地中海でのクルーズから戻らなかった夫への不信感がとどめを刺し、彼女は離婚を真剣に考えるようになった”  о“ジョーは彼女を呼んで、離婚はカトリック教徒であり、政治家であるジャックにとって致命的なイメージダウンになるため結婚生活を続けてくれるよう頼み、もし子どもが生まれたら一人につき100万ドルの信託財産を与えると約束してジャクリーンを翻意させた”  о“1960年(30歳)の大統領選挙では、妊娠していたジャクリーンもほかのケネディ家のメンバーと同じように選挙運動に駆り出された”  о“1960年(30歳)11月9日、ケネディは僅差でリチャード・ニクソンに勝利”  о“31歳のファーストレディは(21歳のクリーブランド大統領夫人、24歳のタイラー大統領後妻ジュリア夫人に次いで)アメリカの歴史上3番目に若かった”  о“ホワイトハウス内部のリフォームと家具や備品の管理に積極的に取り組んだ。これはそれまでにホワイトハウスの近代化を図る名目で歴史的に由緒あるものや家具がホワイトハウスから出されて、ジャクリーンがホワイトハウスに入ったころにはすでに18世紀頃の輝きを失っていた。そこで全ての部屋の暗い色調の壁やカーテンを明るく、若さと気品を感じさせるものに変え、また絵画や家具などの調度品も国内の骨董業者から仕入れ、彼女の感性でホワイトハウスをアメリカ文化を象徴する空間に改装した”  о“ホワイトハウスの年間維持費を僅か1カ月で使い切った”  о“新しいホワイトハウスは評判を呼び政府のイメージアップと費用以上の効果をもたらした”  о“史上初めてホワイトハウスの奥深くにテレビカメラが入り、案内役をつとめたジャクリーンの気品に視聴者が魅了された”  о“夫が大統領になってもその浮気癖は変わらず、ジャクリーンは夫とホワイトハウス内で激しく口論”  о“1963年(33歳)8月9日、ジャクリーンは生まれたばかりの息子パトリックを病気で失い、悲嘆にくれた。ジャクリーンの妹リー・ラジヴィルは、姉をギリシャ人大富豪アリストテレス・オナシス所有の船によるクルーズに誘った”  о“ジャクリーンは子どもたちを残して出かけることに乗り気ではなかったが、リーの強い勧めもあってこのクルーズに参加した。しかし、この休暇中に既婚者であったリーとオナシスが急接近した”  о“かねてよりアリストテレス・オナシスと交際していたジャクリーンは再婚と出国を決意”  о“制止を振り切ってオナシスのもとに向かった”  о“1968年(38歳)秋にギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスと再婚し世界を驚かせた”  о“1968年(38歳)10月20日、イオニア海に浮かぶスコルピオス島でジャクリーンとオナシスは結婚式をあげた。オナシスとの結婚によって子どもたちの安全と自分の自由が同時に手に入ると考えていたが、しかし、今度はパパラッチたちに追いかけ回されるようになる”  о“パパラッチがギリシャの島でジャクリーンの裸を盗撮し、ハスラー誌の出版者ラリー・フリントはその写真を買い取り、『10億ドルの茂み』のタイトルでポルノ雑誌ハスラーの1975年(45歳)8月号でそれを公表した”  о“1975年(45歳)3月にオナシスがパリで死去した際、ジャクリーンはそこに立ちあうことなく、遠く離れたニューヨークで暮らしていた”  о“晩年のジャクリーンにとって友人であり、恋人であったのはベルギー出身のダイヤモンド商モーリス・テンペルズマンであった。テンペルズマンは妻と長く別居していたが、離婚できなかったので、ジャクリーンと再婚することはなかった”  о“1994年(64歳)1月、ジャクリーンは自分が非ホジキンリンパ腫に罹患したことを知った。短い闘病生活の間に病は急速に進行し、5月19日ジャクリーン・オナシスは64歳で世を去った”  -という。(つづく)<記2021年11月20日>〈22,253Byte〉