ミス・ユニバース(児島明子(1959年(23歳)),1952年開始)は-  о児島明子(168cm,54.5kg,94-58-97cm,1936年10月29日(84歳))  -が優勝者。 ★児島明子(168cm,54.5kg,94-58-97cm,1936年10月29日(84歳)) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 こじま あきこ 児島 明子 プロフィール 生年月日:1936年10月29日 現年齢:84歳 出身地:日本・東京 瞳の色:ブラック 毛髪の色:ブラック 公称サイズ(1959年時点) 身長 / 体重:168 cm / 54.5 kg BMI:19.3 スリーサイズ:94 - 58 - 97cm。 単位系換算 身長 / 体重:5′ 6″ / 120 lb スリーサイズ:37 - 23 - 38 in 活動 ジャンル:ファッション モデル内容:一般 備考:第8回ミス・ユニバース世界大会優勝 事務所:FMG モデル: テンプレート - カテゴリ 児島 明子(こじま あきこ、1936年10月29日 - )は、日本のファッションモデルである。1959年(23歳)にアメリカ合衆国で開催された第8回ミス・ユニバース世界大会で栄冠を獲得した。日本人として、アジア人として、ヨーロッパとアメリカ州以外のアフリカ・アジア太平洋の女性として初めてのミス・ユニバース世界大会優勝者である当時は「有色人種」初のミス・ユニバースとも言われた。また、1952年の第1回大会で優勝したミス・フィンランド、アルミ・クーセラ以来の旧枢軸国(第二次世界大戦の敗戦国)出身のミス・ユニバースでもあり、アメリカと戦った国としては初めてである宝田明の元妻、児島未散の母としても知られる。 人物・来歴 1936年(昭和11年)10月29日、東京府東京市(現在の東京都区部)世田谷区豪徳寺に生まれた。出生時の体重は1貫110匁(4160グラム)もあった5歳から水泳を始めた。小学校2年のとき大東亜戦争(太平洋戦争)のため高知県高知市に疎開し、高知市立潮江小学校・私立土佐女子中学校を卒業した。4人きょうだいの2人目であったが、1950年(昭和25年)に旧軍人だった父が亡くなり、以後は姉や弟と共に母に育てられた。高知市立高知商業高等学校在学中は平泳ぎの選手として活躍した1953年(16歳)推薦を辞退した姉の代わりに、帝国劇場で開かれた第2回ミス・ユニバース日本大会に16歳の若さで四国代表として出場し、日本代表に選ばれた伊東絹子(世界大会で第3位に入賞)に次ぐ準ミスに入賞した。 高校卒業後、帰京してFMGに所属し、ファッションモデルをしていた。1958年(21歳)ミス・ユニバースとミス・ワールドの日本代表を同時に選ぶ大会に応募し、21歳で東京代表となった。しかし日本代表を選ぶ直前の6月4日、都内で行われた各地代表のパレードの最中、児島らが乗っていた車が追突事故に巻き込まれ、児島を含む4人が負傷した。児島は有力候補と見られていたが、やむなく棄権した児島は2か月の入院を余儀なくされたが、翌年の地区予選を免除され、東京体育館で開かれる日本大会に出場出来ることになった。年が明けると、オーストラリアを2回訪れてファッションショーに参加した。 1959年(23歳)6月12日、三たび挑戦した児島は優勝し、前年の森武知子からミス・ユニバース日本代表(『ミス・ユニバース・ジャパン』)を引き継ぎ、同年7月18日(現地時間による。日本時間では19日)からアメリカ・ロングビーチで開催された第8回ミス・ユニバース世界大会に出場した。この大会はミスUSA大会と合同で行われ、児島はホテルでミス・イリノイと同室であった。児島は7月24日(日本時間では25日)の最終審査で、ブラジル、イングランド、USA、ノルウェーの各代表を抑えて優勝し、第7代ミス・ユニバースのミス・コロンビア、ルス・マリナ・スールアガから栄冠を譲り受けた。当時、児島は英語が得意ではなかったが、夢は"to make a lovely wife"と話し、好きなスポーツとして水泳とゴルフを挙げた。また、5月26日に開催が決まっていた1964年東京オリンピックについて「5年後には日本でオリンピックが催されます。日本では全力をあげてその準備を進めています。みなさんの来日を心からお待ちしています。私はスポーツ選手ではありませんが、いまこの美しいロングビーチで美のオリンピックともいうべきミス・ユニバース・コンテストに参加できたことを心から幸福に思っています」と日本語で話した児島は当時22歳で身長は168センチメートル(168 cm=5フィート6インチ=66インチ)、体重は54.5キログラム(54.5 kg=120ポンド)、スリーサイズは94-58-97 cm(37-23-38インチ)。バスト94 cmとヒップ97 cmは、公表された限りにおいて、どちらも現在に至るまで歴代ミス・ユニバース・ジャパンの最大サイズである。また世界大会でも、5位のミス・ブラジル、ベラ・リベイロ(身長67インチ、スリーサイズ37-23-37インチ。以下数値のみ)、4位のミス・イングランド、パメラ・アン・サール(67、36-24-36)、3位のミスUSA、テリー・ハンティンドン(67、36-23-36)、2位のミス・ノルウェー、ヨルン・クリスチャンセン(68、35-24-35)はいずれもバスト、ヒップの大きさ、ウエストの細さで児島を超えなかった歴代のミス・ユニバースと比べても、初代のアルミ・クーセラ(65、34-23-34)、第2代のミス・フランス、クリスティアン・マルテル(66、33-22-35)、第3代のミスUSA、ミリアム・スティーブンソン(66、36-24-36)、第4代のミス・スウェーデン、ヒレヴィ・ロンビン(67、36-23-36)、第5代のミスUSA、キャロル・モリス(67、36-25-36)、第6代のミス・ペルー、グラディス・ツェンダー(67、36-23.5-36)、そしてルス・マリナ・スールアガ(64、35.5-23.5-35.5)のバスト、ヒップを全て上回り、ウエストはマルテルに次ぐ細さだった児島は第8代ミス・ユニバースとして黄金のトロフィーなどの賞品、2500ドル(当時の為替レートで90万円)の賞金と8500ドル(306万円)の契約金を受け取り、契約に従ってアメリカ合衆国の各州や世界の各国を訪れた。一時は1貫200匁(4.5キログラム)も痩せるなど苦労もあったが、1960年(29歳)7月、マイアミビーチで開かれた第9回世界大会で優勝したミスUSAのリンダ・ビメント(66、37-23-36)に栄冠を授けた。ビメントは児島と同じ身長・体重・バスト・ウエストの持ち主で、ヒップだけは2インチ小さかった。児島から日本代表を引き継いだ古野弥生はセミファイナルに進出したが、最終審査に残ることは出来なかった。 1966年(29歳)4月29日、29歳で俳優の宝田明(当時32歳)と結婚し、二男一女を授かったが、1984年(53歳)に離婚。子どもは三人とも児島が引き取り、養育した。歌手の児島未散は長女で、宝田との最初の子どもである。 カテゴリ: 日本の女性ファッションモデル ミス・ユニバース出場者 ミス・ユニバース・ジャパン出場者 高知市立高知商業高等学校出身の人物 東京都区部出身の人物 1936年生存命人物  -ミス・ユニバース(児島明子(1959年(23歳)),1952年開始)  о“日本のファッションモデル”  о“1959年(23歳)にアメリカ合衆国で開催された第8回ミス・ユニバース世界大会で栄冠を獲得した。日本人として、アジア人として、ヨーロッパとアメリカ州以外のアフリカ・アジア太平洋の女性として初めてのミス・ユニバース世界大会優勝者である”  о“当時は「有色人種」初のミス・ユニバースとも言われた”  о“1952年の第1回大会で優勝したミス・フィンランド、アルミ・クーセラ以来の旧枢軸国(第二次世界大戦の敗戦国)出身のミス・ユニバースでもあり、アメリカと戦った国としては初めてである”  о“宝田明の元妻、児島未散の母としても知られる”  о“出生時の体重は1貫110匁(4160グラム)もあった”  о“5歳から水泳を始めた”  о“私立土佐女子中学校を卒業した”  о“高知市立高知商業高等学校在学中は平泳ぎの選手として活躍した”  о“1953年(16歳)推薦を辞退した姉の代わりに、帝国劇場で開かれた第2回ミス・ユニバース日本大会に16歳の若さで四国代表として出場し、日本代表に選ばれた伊東絹子(世界大会で第3位に入賞)に次ぐ準ミスに入賞した”  о“1958年(21歳)ミス・ユニバースとミス・ワールドの日本代表を同時に選ぶ大会に応募し、21歳で東京代表となった。しかし日本代表を選ぶ直前の6月4日、都内で行われた各地代表のパレードの最中、児島らが乗っていた車が追突事故に巻き込まれ、児島を含む4人が負傷した。児島は有力候補と見られていたが、やむなく棄権した”  о“児島は2か月の入院を余儀なくされたが、翌年の地区予選を免除され、東京体育館で開かれる日本大会に出場出来ることになった”  о“1959年(23歳)6月12日、三たび挑戦した児島は優勝し、前年の森武知子からミス・ユニバース日本代表(『ミス・ユニバース・ジャパン』)を引き継ぎ、同年7月18日(現地時間による。日本時間では19日)からアメリカ・ロングビーチで開催された第8回ミス・ユニバース世界大会に出場した。この大会はミスUSA大会と合同で行われ、児島はホテルでミス・イリノイと同室であった。児島は7月24日(日本時間では25日)の最終審査で、ブラジル、イングランド、USA、ノルウェーの各代表を抑えて優勝し、第7代ミス・ユニバースのミス・コロンビア、ルス・マリナ・スールアガから栄冠を譲り受けた。当時、児島は英語が得意ではなかったが、夢は"to make a lovely wife"と話し、好きなスポーツとして水泳とゴルフを挙げた。また、5月26日に開催が決まっていた1964年東京オリンピックについて「5年後には日本でオリンピックが催されます。日本では全力をあげてその準備を進めています。みなさんの来日を心からお待ちしています。私はスポーツ選手ではありませんが、いまこの美しいロングビーチで美のオリンピックともいうべきミス・ユニバース・コンテストに参加できたことを心から幸福に思っています」と日本語で話した”  о“児島は当時22歳で身長は168センチメートル(168 cm=5フィート6インチ=66インチ)、体重は54.5キログラム(54.5 kg=120ポンド)、スリーサイズは94-58-97 cm(37-23-38インチ)。バスト94 cmとヒップ97 cmは、公表された限りにおいて、どちらも現在に至るまで歴代ミス・ユニバース・ジャパンの最大サイズである。また世界大会でも、5位のミス・ブラジル、ベラ・リベイロ(身長67インチ、スリーサイズ37-23-37インチ。以下数値のみ)、4位のミス・イングランド、パメラ・アン・サール(67、36-24-36)、3位のミスUSA、テリー・ハンティンドン(67、36-23-36)、2位のミス・ノルウェー、ヨルン・クリスチャンセン(68、35-24-35)はいずれもバスト、ヒップの大きさ、ウエストの細さで児島を超えなかった”  о“歴代のミス・ユニバースと比べても、初代のアルミ・クーセラ(65、34-23-34)、第2代のミス・フランス、クリスティアン・マルテル(66、33-22-35)、第3代のミスUSA、ミリアム・スティーブンソン(66、36-24-36)、第4代のミス・スウェーデン、ヒレヴィ・ロンビン(67、36-23-36)、第5代のミスUSA、キャロル・モリス(67、36-25-36)、第6代のミス・ペルー、グラディス・ツェンダー(67、36-23.5-36)、そしてルス・マリナ・スールアガ(64、35.5-23.5-35.5)のバスト、ヒップを全て上回り、ウエストはマルテルに次ぐ細さだった”  о“児島は第8代ミス・ユニバースとして黄金のトロフィーなどの賞品、2500ドル(当時の為替レートで90万円)の賞金と8500ドル(306万円)の契約金を受け取り、契約に従ってアメリカ合衆国の各州や世界の各国を訪れた”  о“1960年(29歳)7月、マイアミビーチで開かれた第9回世界大会で優勝したミスUSAのリンダ・ビメント(66、37-23-36)に栄冠を授けた。ビメントは児島と同じ身長・体重・バスト・ウエストの持ち主で、ヒップだけは2インチ小さかった”  о“1966年(29歳)4月29日、29歳で俳優の宝田明(当時32歳)と結婚し、二男一女を授かった”  о“歌手の児島未散は長女”  -という。 ★森武知子(ともこ,164cm,54kg,87-57-92cm,1938年頃(81歳)) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 もりたけ ともこ 森武 知子プロフィール 出身地:日本 福岡県 公称サイズ(1958年 時点) 身長 / 体重:164 cm / 54 kg BMI:20.1 スリーサイズ:87 - 57 - 92cm。 単位系換算 活動 備考:ミス・ユニバース日本代表 モデル: テンプレート - カテゴリ 森武 知子(もりたけ ともこ、1938年頃 - ) 1958年(20歳)のミス・ユニバース・ジャパンである。 経歴 1938年頃、福岡県門司市に生まれる。 門司トンネル博覧会事務局に在職中の1958年(20歳)6月、福岡県代表としてミス・ユニバース・ジャパンに出場。以前にミス関門トンネルにも選ばれたこともある。 1958年(20歳)7月、カリフォルニア州ロングビーチで行われたミス・ユニバース1958(第7回世界大会)に日本代表として出場、セミファイナルに進出し「トップ15」に入賞するとともに、特別賞「ミス・フレンドシップ」を受賞。 その後、大阪でモデルとして活躍した。『週刊サンケイ』 昭和33年7月27日号の表紙を飾るほか、『現代人間模様』の第11回(1959年6月22日)および第12回(6月29日)として放送された「第六レース」前編・後編に出演。 カテゴリ: ミス・ユニバース出場者 ミス・ユニバース・ジャパン出場者 北九州市出身の人物 存命人物  -ミス・ユニバース(児島明子(1959年(23歳)),1952年開始)  о“1958年(20歳)6月、福岡県代表としてミス・ユニバース・ジャパンに出場”  о“1958年(20歳)7月、カリフォルニア州ロングビーチで行われたミス・ユニバース1958(第7回世界大会)に日本代表として出場、セミファイナルに進出し「トップ15」に入賞するとともに、特別賞「ミス・フレンドシップ」を受賞”  -というセミファイナリスト。 ★伊東絹子(164cm,52kg,86-56-92cm,1932年6月29日(88歳)) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 いとう きぬこ 1953年 プロフィール 生年月日:1932年6月29日 現年齢:88歳 出身地:日本 東京 瞳の色:ブラック 毛髪の色:ブラック 公称サイズ(1953年時点) 身長 / 体重:164 cm / 52 kg BMI:19.3 スリーサイズ:86 - 56 - 92cm。 備考:日本代表選出時は164cm, 54kg, 90-60-92 単位系換算 活動 デビュー:1951年 ジャンル:ファッション モデル内容:一般・下着 備考:第2回 ミス・ユニバース世界大会 3位入賞 他の活動:女優・洋装店経営 事務所:エフ・エム・ジー モデル: テンプレート - カテゴリ 伊東 絹子(いとう きぬこ、1932年6月29日 - ) 日本のファッションモデル、女優である。1953年(21歳)の『ミス・ユニバース・ジャパン』であり、同年アメリカ合衆国カリフォルニア州のロングビーチで開催された世界大会・第2回 『ミス・ユニバース』で第3位に入賞した。 人物 『ミス・ユニバース』世界大会への日本代表としての出場は、前年の小島日女子に続いて二人目であり、伊東は日本人初の入賞者となった。伊東は日本におけるファッションモデルの先がけのひとりとも言われ、ミス・ユニバースに入賞した昭和28年には、伊東の体形に因んだ『八頭身美人』が流行語となった。小林製薬の冷蔵庫用脱臭消臭剤「キムコ」は「キヌコ」をもじったもの。 経歴 1932年(昭和7年)、東京府東京市(現在の東京都区部)芝区(現在の港区芝)に生まれる。東京都立鷺宮高等学校卒業。虎ノ門タイピスト学院英文科卒業とする資料もある。 高校卒業後、自動車会社の事務員として働く。1951年(19歳)、 『英文毎日』(毎日新聞社)が開催したファッションコンテストに応募。東京から20名、大阪から15名の合格者のひとりとなる。「毎日ファッション・ガール」の第一期生である。和江商事(のちのワコール)の下着ショーに出たこともある1953年(20歳)5月31日、ミス・ユニバースの地方予選「ミス東京」で優勝同年(20歳)、帝国劇場で開かれた日本大会で児島明子らを抑えて第2代目の『ミス・ユニバース・ジャパン』に選ばれる同年(20歳)7月17日(現地時間による。日本時間では18日)にロングビーチで行われた第2回ミス・ユニバース世界大会に、日本代表として出場した。当時21歳になったばかりだった伊東は、ここで3位に入賞した伊東はいわゆる「八頭身」がもてはやされ、大東亜戦争(太平洋戦争)での敗戦から8年にして日本女性の体形が国際水準に近づいた、と話題になった同年、毎日ファッションガールの岩間敬子、香山佳子らとともに、相島政子を代表とする団体『エフ・エム・ジー』を結成した。 また、女優として1954年(22歳)から1956年にかけて映画・テレビドラマに出演1956年(24歳)4月4日、全国装粧品業者大会のファッションショーに出演。 その後はデザイナーを志し、1957年(25歳)にフランスに渡って修業し、1958年(26歳)9月、銀座みゆき通りに洋装店「伊東絹子の店」を開いた1968年36(歳)には在フランス日本国大使館員と結婚した。結婚後には一男をもうけ、芸能活動は行わずに外交官夫人(専業主婦)として過ごした。1974年(42歳)時点では家族三人でスイスのジュネーヴに住んでいた。1997年(65歳)には65歳で京都に住んでいた。 フィルモグラフィ 年 :月 :日 :タイトル :役 :配給・放送 :備考 1956 :4 :18 :のり平の三等亭主 :茂子 :東宝 :原作『愉快な家族』(夏目咲太郎) 1955 :12 :11 :いらっしゃいませ :伊東絹子に似た美人 :東宝 : 1954 :5 :12 :わたしの凡てを :北村道子 :東宝 :スクリーンデビュー 1954 :4 :17 :Yankee Pasha :Harem girl(as Miss Japan):Universal International Pictures(UI):クリスティアン・マルテルほか、世界の美女が出演 1955 :10 :16 :力道山の夢 :本人 :日本テレビ :2回で打ち切り ・備考 その他 1953年の国内大会で第2位、つまり伊東に惜敗した児島明子(当時、高知県在住の高校生)は、6年後の1959年(歳)、日本人初のミス・ユニバースとなった。ただし、国内に与えたインパクトは伊東が第3位入賞した時よりも小さかった。 世界大会出場当時の年齢について、毎日新聞の報道は19歳とする。一方、サンデー毎日および『芸能人物事典 明治・大正・昭和』には昭和7年6月29日生まれと記載がある。これに基づくと当時21歳。本記事ではこの説を採る。 カテゴリ: 東京都区部出身の人物 日本の女性ファッションモデル 日本の女優 ミス・ユニバース・ジャパン出場者 ミス・ユニバース出場者 1932年生存命人物  -ミス・ユニバース(児島明子(1959年(23歳)),1952年開始)  о“日本のファッションモデル、女優”  о“1953年(21歳)の『ミス・ユニバース・ジャパン』であり、同年アメリカ合衆国カリフォルニア州のロングビーチで開催された世界大会・第2回 『ミス・ユニバース』で第3位に入賞”  о“『ミス・ユニバース』世界大会への日本代表としての出場は、前年の小島日女子に続いて二人目であり、伊東は日本人初の入賞者となった”  о“ミス・ユニバースに入賞した昭和28年には、伊東の体形に因んだ『八頭身美人』が流行語となった”  о“1951年(19歳)、 『英文毎日』(毎日新聞社)が開催したファッションコンテストに応募。東京から20名、大阪から15名の合格者のひとりとなる。「毎日ファッション・ガール」の第一期生”  о“和江商事(のちのワコール)の下着ショーに出たこともある”  о“1953年(20歳)5月31日、ミス・ユニバースの地方予選「ミス東京」で優勝”  о“同年(20歳)、帝国劇場で開かれた日本大会で児島明子らを抑えて第2代目の『ミス・ユニバース・ジャパン』に選ばれる”  о“同年(20歳)7月17日(現地時間による。日本時間では18日)にロングビーチで行われた第2回ミス・ユニバース世界大会に、日本代表として出場した。当時21歳になったばかりだった伊東は、ここで3位に入賞した”  о“伊東はいわゆる「八頭身」がもてはやされ、大東亜戦争(太平洋戦争)での敗戦から8年にして日本女性の体形が国際水準に近づいた、と話題になった”  о“同年、毎日ファッションガールの岩間敬子、香山佳子らとともに、相島政子を代表とする団体『エフ・エム・ジー』を結成した”  о“女優として1954年(22歳)から1956年にかけて映画・テレビドラマに出演”  о“1956年(24歳)4月4日、全国装粧品業者大会のファッションショーに出演”  о“デザイナーを志し、1957年(25歳)にフランスに渡って修業し、1958年(26歳)9月、銀座みゆき通りに洋装店「伊東絹子の店」を開いた”  о“1968年36(歳)には在フランス日本国大使館員と結婚した。結婚後には一男をもうけ、芸能活動は行わずに外交官夫人(専業主婦)として過ごした”  о“1953年の国内大会で第2位、つまり伊東に惜敗した児島明子(当時、高知県在住の高校生)は、6年後の1959年(歳)、日本人初のミス・ユニバースとなった。ただし、国内に与えたインパクトは伊東が第3位入賞した時よりも小さかった”  -という。(つづく)<記2021年9月28日>〈19,417Byte〉