ソドムの市(パオロ・ボナチェッリ,1975年)は-  оパオロ・ボナチェッリ(168cm,1939年02月28日(82歳))  -主演。 ★ソドムの市(パオロ・ボナチェッリ,1975年) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ソドムの市 Salò o le 120 giornate di Sodoma 監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ 脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ セルジオ・チッティ 原作:マルキ・ド・サド 『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』 製作:アルベルト・グリマルディ 出演者:パオロ・ボナチェッリ 音楽:エンニオ・モリコーネ 撮影:トニーノ・デリ・コリ 編集:ウンベルト・アンセルッチ 配給:ユナイテッド・アーティスツ 公開:フランス 1975年11月22日 パリ映画祭 イタリア 1976年1月10日 フランス 1976年5月19日 日本 1976年9月25日 上映時間:117分 製作国:イタリア フランス 言語:イタリア語 フランス語 ドイツ語 『ソドムの市』(ソドムのいち、 イタリア語: Salò o le 120 giornate di Sodoma, 「サロ、或いはソドムの120日」の意)は、1975年製作・映画祭上映、1976年公開、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督のイタリア・フランス合作映画である。マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を原作としている。スカトロ描写や性器の露出などの場面が非常に多い。ただしそれは単なるパゾリーニの嗜好としてだけではなく、様々な現代社会への批判が込められているという。 目次 1 概要 2 ストーリー 3 製作の経緯 4 政治的意図 5 フィルムの盗難 6 パゾリーニ殺害事件 7 キャスト 8 スタッフ 9 脚注 10 外部リンク 概要 パゾリーニは、原作では18世紀のスイス山奥の城館であった舞台を20世紀のイタリアに置き換え、この物語を現代における権力と個人の関係、消費社会のメタファーに作りかえた。その構成はダンテの 『神曲』 の構成を借りており、「地獄の門」「変態地獄」「糞尿地獄」「血の地獄」の4つの章から成る本作の完成後、パゾリーニ監督はローマのオスティア海岸で謎の多い死を遂げており、この作品が遺作となった欧米ではあまりの過激な表現が問題となり、上映禁止になった。 ストーリー イタリアが連合国に降伏した後、残余のファシストたちは、北部の町サロに集まり、亡命政権(イタリア社会共和国)を形成していた。このナチス傀儡政権の権力者たち、大統領・大司教・最高判事・公爵の4人は、自分たちの快楽のために、市町村条例を新しく制定する。その規定に従って美少年・美少女が狩り集められ、さらにその中から彼らの厳選した男女各9人が、秘密の館に連れ去られる。 権力者たちは、そこで自分たちの定めた規則に従って、あらゆる淫蕩・変態行為に耽る。毎日、集会所で4人の語り婆たちのうち1人に猥褻な体験を話させることによって欲望をかきたて、少年少女たちを相手にその話を実行に移すのである。その変態行為は次第にエスカレートしていき、最後には死に至る拷問が待っている。しかし、犠牲者たち同様に狩り集められてきた館の少年警備兵たちは、苦悶する犠牲者たちを尻目に、ラジオの音楽に合わせてダンスのステップなどを踏んでいる。 製作の経緯 原案の執筆に協力した映画監督のプピ・アヴァティの述懐によると、企画当初はパゾリーニは一切関与していなかった。当初は『デアボリカ』(1973年)や『メリーゴーランド』(1974年)などの脚本家として知られるアントニオ・トロイジオらの発案によって、『性の告白』(1974年)や『課外授業』(1975年)などのエロティック作品で知られるヴィットリオ・デ・システィ監督によるB級ポルノ映画として企画された。しかし、原案執筆を依頼されたプピ・アヴァティらがマルキ・ド・サドの原作をもとに準備稿を作成すると、あまりに過激な描写が検閲を通らないと判断されたため、デ・システィが演出を拒否する事態となった。デ・システィ監督の降板後に、プピ・アヴァティがパゾリーニ脚本によるセルジオ・チッティ監督の『エロスの詩』(1973年)を見て、パゾリーニを『ソドムの市』の企画に参入させることを提案する。アヴァティとパゾリーニは、この時点で初めて出会うこととなった。パゾリーニの提案によって、時代背景をファシズム政権時代のイタリアに移した脚色が行われ、さらにアルベルト・グリマルディの製作およびパゾリーニ自身の演出によって、映画化されることが決定した。 政治的意図 当時のイタリアもまた欧米における学生運動が展開されていた時期であった。こうした状況下でパゾリーニは自らの意見を映画の様々な描写の中に込めている。スカトロ描写に関しては現代の消費文明、特に食物の浪費(飽食)を強く批判する意図があったと語り、また経済面でイタリアの主導権を握る北イタリアの文化が貧しい南イタリアへ浸食していることに対する批判でもあったという。また、舞台をナチ・ファシスト政権下のイタリアに設定したのは、左翼運動に反感を抱いていた右翼への攻撃が意図されていた。 フィルムの盗難 1975年8月26日、フェデリコ・フェリーニ監督の『カサノバ』などと共に本作のネガフィルムの一部がローマの現像所から盗まれた。パゾリーニはラッシュプリントからネガを複製して対処したが、画質の劣化は避けられず、本作の当該箇所は映像が粗いままとなっている。 パゾリーニ殺害事件 1975年11月2日、本作を撮影し終えた直後のパゾリーニが、ローマ郊外のオスティア海岸で轢死体となって発見された。警察は、パゾリーニから性的暴行を受けた少年による犯行と断定し、逮捕した。しかしパゾリーニの遺体は、全身が殴打された上に、パゾリーニ自身の車で何度も轢かれており、ネオ・ファシストの暗殺とも噂された。 ローマ地方裁判所は、少年ペロージの単独犯行は不可能であるとして、未知の共犯者とともに行われた故殺とした。しかしローマ高等裁判所は、共犯者ありに関する条項を破棄した。そして、1979年に最高裁は、少年に殺意はなく正当防衛として9年7ヵ月の刑が確定した。 2005年5月7日、実行犯とされた少年ペロージがイタリア・Rai 3のドキュメンタリー番組“Ombre sul giallo”に出演し「自分は、犯人グループから家族に危害を加えると言われ、やむなく罪を被った。実際は、他の数人の男によるリンチ(パゾリーニを「薄汚いコミュニスト」などと罵倒していたという)により、パゾリーニは殺された」と告白した。また、本作の脚本家でありパゾリーニの助監督を長く務めたセルジオ・チッティは、「フィルムの盗難も、殺害犯グループが仕組んだものである。パゾリーニは、フィルムの返還交渉のために犯行現場におびき出された」と証言している。 キャスト 公爵 - パオロ・ボナチェッリ 司教 - ジョルジョ・カタルディ(声:ジョルジョ・カプローニ- ノンクレジット) 最高判事 - ウベルト・パオロ・クィンタヴァレ 大統領 - アルド・ヴァレッティ(声:マルコ・ベロッキオ - ノンクレジット) カステッリ夫人 - カテリーナ・ボラット マッジ夫人 - エルサ・デ・ジョルジ ヴァッカーリ夫人 - エレーヌ・シュルジェール(声:ラウラ・ベッティ- ノンクレジット) ピアニスト - ソニア・サビアンジュ 衛兵 - エツィオ・マンニ 黒人のメイド - イネス・ペレグリーニ 犠牲者の少年 - セルジォ・ファセッティ 犠牲者の少年 - ブルーノ・ムッソ 犠牲者の少年 - アントニオ・オルランド 犠牲者の少年 - クラウディオ・チケッティ 犠牲者の少年 - フランコ・メルリ 犠牲者の少年 - ウンベルト・ケサーリ 犠牲者の少年 - ランベルト・ブック 犠牲者の少年 - ガスパール・ド・ジェンノ 犠牲者の少女 - ジュリアナ・メリス 犠牲者の少女 - ファリダー・マリク 犠牲者の少女 - グラツィエッラ・アニチェート 犠牲者の少女 - レナータ・モア 犠牲者の少女 - ドリット・エンケ 犠牲者の少女 - アンティニスカ・ネムール 犠牲者の少女 - ベネデッタ・ゲターニ 犠牲者の少女 - オルガ・アンドレス 最高判事の娘(大統領の妻)- タチアーナ・モジランスキ 大統領の娘(公爵の妻)- スザンナ・ラダエリ 公爵の娘(司教の妻)- ジュリアーナ・オルランディ 公爵の娘(最高判事の妻)- リアナ・アクアヴィーヴァ スタッフ 監督 - ピエル・パオロ・パゾリーニ 製作 - アルベルト・グリマルディ 原作 - マルキ・ド・サド 脚本 - ピエル・パオロ・パゾリーニ、セルジオ・チッティ 撮影 - トニーノ・デリ・コリ 音楽 - エンニオ・モリコーネ 衣装デザイン - ダニロ・ドナティ 音楽演奏 - アルナルド・グラジオッシ ピエル・パオロ・パゾリーニ監督作品 アッカトーネ マンマ・ローマ ロゴパグ 愛の集会 奇跡の丘 華やかな魔女たち 大きな鳥と小さな鳥 アポロンの地獄 テオレマ 豚小屋 王女メディア 愛と怒り デカメロン カンタベリー物語 アラビアンナイト ソドムの市 カテゴリ: 1975年の映画 イタリアのLGBT関連映画 フランスのLGBT関連映画 レズビアン関連映画 バイセクシュアル関連映画 成人向け映画 少年愛作品 BDSM作品 猟奇映画 イタリアの歴史を題材とした映画作品 ロンバルディアを舞台とした映画作品 ローマで製作された映画作品 近親相姦を題材とした映画作品 小説を原作とする映画 ピエル・パオロ・パゾリーニの監督映画 エンニオ・モリコーネの作曲映画 反ファシズムに関するメディア マルキ・ド・サド 映画における異性装 第二次世界大戦のイタリア戦線を題材とした作品  -ソドムの市(パオロ・ボナチェッリ,1975年)は、  о“1975年製作・映画祭上映、1976年公開、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督のイタリア・フランス合作映画”  о“マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を原作としている。スカトロ描写や性器の露出などの場面が非常に多い。ただしそれは単なるパゾリーニの嗜好としてだけではなく、様々な現代社会への批判が込められているという”  о“パゾリーニは、原作では18世紀のスイス山奥の城館であった舞台を20世紀のイタリアに置き換え、この物語を現代における権力と個人の関係、消費社会のメタファーに作りかえた”  о“構成はダンテの 『神曲』 の構成を借りており、「地獄の門」「変態地獄」「糞尿地獄」「血の地獄」の4つの章から成る”  о“本作の完成後、パゾリーニ監督はローマのオスティア海岸で謎の多い死を遂げており、この作品が遺作となった”  о“欧米ではあまりの過激な表現が問題となり、上映禁止になった”  о“大統領・大司教・最高判事・公爵の4人は、自分たちの快楽のために、市町村条例を新しく制定する。その規定に従って美少年・美少女が狩り集められ、さらにその中から彼らの厳選した男女各9人が、秘密の館に連れ去られる”  о“あらゆる淫蕩・変態行為に耽る。毎日、集会所で4人の語り婆たちのうち1人に猥褻な体験を話させることによって欲望をかきたて、少年少女たちを相手にその話を実行に移すのである”  о“当初は『デアボリカ』(1973年)や『メリーゴーランド』(1974年)などの脚本家として知られるアントニオ・トロイジオらの発案によって、『性の告白』(1974年)や『課外授業』(1975年)などのエロティック作品で知られるヴィットリオ・デ・システィ監督によるB級ポルノ映画として企画された”  о“パゾリーニの提案によって、時代背景をファシズム政権時代のイタリアに移した脚色が行われ、さらにアルベルト・グリマルディの製作およびパゾリーニ自身の演出によって、映画化されることが決定した”  о“スカトロ描写に関しては現代の消費文明、特に食物の浪費(飽食)を強く批判する意図があった”  о“パゾリーニ殺害事件”  о“1975年11月2日、本作を撮影し終えた直後のパゾリーニが、ローマ郊外のオスティア海岸で轢死体となって発見された。警察は、パゾリーニから性的暴行を受けた少年による犯行と断定し、逮捕した。しかしパゾリーニの遺体は、全身が殴打された上に、パゾリーニ自身の車で何度も轢かれており、ネオ・ファシストの暗殺とも噂された”  о“1979年に最高裁は、少年に殺意はなく正当防衛として9年7ヵ月の刑が確定した”  о“フィルムの盗難も、殺害犯グループが仕組んだものである。パゾリーニは、フィルムの返還交渉のために犯行現場におびき出された”  -という。 ★ソドム百二十日あるいは淫蕩学校(未完の小説,1785年) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ソドム百二十日あるいは淫蕩学校 Les Cent Vingt Journées de Sodome ou l’École du libertinage モーリス・エーヌによる1931年の版 モーリス・エーヌによる1931年の版 作者:マルキ・ド・サド 国:フランス 言語:フランス語 『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』(ソドムひゃくにじゅうにちあるいはいんとうがっこう、フランス語: Les Cent Vingt Journées de Sodome ou l’École du libertinage)は1785年にマルキ・ド・サドがバスティーユ牢獄で著した未完の小説である。サドの最初の本格的な作品だった。 悪事と放蕩によって莫大な財産を有する4人の男が、フランス中から拉致してきた美少女・美少年達と深い森の城館で120日に及ぶ性的・拷問的饗宴を繰り広げる物語が、性倒錯、暴力、善悪、反道徳、無神論といったテーマと共に描かれている。小説として完成しているのは序章と第一部のみであり、第二部から第四部は草案の域にとどまっているが、これは時間的・状況的制約のみならず、作者が「想像力を超えたものを表現する」ことができなかった可能性も指摘されている。 目次 1 原稿の歴史 2 あらすじと登場人物 3 評価 4 日本語訳 5 映画作品 6 脚注 7 参考文献 8 関連項目 9 外部リンク 原稿の歴史 主に: 原稿発見の詳細(2016年5月) バスティーユ牢獄の「巻紙」 1785年10月22日に、サドはバスチーユ牢獄中で本書の清書を始める。作品の押収を避けるため、幅12センチの小紙片を糊付けして作った長さ12.1メートルの薄い巻紙の両面に小さくぎっしり詰まった文字で清書する作業は、午後7時から10時の間に行われ、11月28日に完成した。 だがフランス革命勃発の直前、1789年7月2日、サドはブリキ管を使って即席で作ったメガホンで壁の下に集まった群集を扇動しようとし、その結果、7月4日の午前1時、自身の言葉によると「蛆虫のように裸のままで」シャラントン精神病院へと連れ去られた。このため、彼はこの原稿を含む全ての私物をバスティーユに置き去りにせざるを得なかった。7月14日、牢獄は陥落し、略奪・破壊の後、サドの原稿も紛失してしまった。このような作品の喪失はサドに、その言葉によると、「血の涙」を流させた。 だがサドの死後、アルヌー・ド・サン=マキシミンがバスチーユ牢獄のサドの一室で『ソドム』の巻紙を発見し、後にヴィルヌーヴ=トラン家が3代に亘って所有することとなった。原稿は19世紀末にベルリンの精神科医イヴァン・ブロッホへ売却され、ブロッホは1904年にオイゲン・デューレンの偽名で最初の版を公刊したが、これは多数の転写ミスを含む粗悪な品質だった。ブロッホの死後、1929年にモーリス・エーヌがシャルル・ド・ノアイユ子爵の委託を受け原稿を入手、1931年から1935年にかけて、検閲を避けるため「愛書家の購読者」限定で出版し、その品質からこれが真正の原典版と考えられている。 のち1985年に、草稿は子爵の子孫によって売却され、ジュネーブの(主にエロティックな)稀覯書蒐集家であるジェラルド・ノルトマン(1930-1992)の手に渡った。草稿は2004年になって初めて、ジュネーブ近郊のマーチン・ボードマー基金にて公開された。 あらすじと登場人物 ルイ14世治世の終わり頃、殺人と汚職により莫大な財産を有する、45歳から60歳の4人の悪徳の限りを尽くした放蕩者達、ブランジ公爵、公爵の兄弟である司教、キュルヴァルの法院長、財務官デュルセが真冬にシュヴァルツヴァルトの古城シリング城に集まり、彼ら4人の絶対権力の下に置かれた42人の犠牲者、4人の遣り手婆、8人の絶倫男と共に閉じ籠る犠牲者は4人の妻(それぞれがそれぞれの娘と婚姻している)と、両親の下から誘拐された若い少年少女たちである4人の遣り手婆=「語り女」たちが、1ヶ月交代で1人150話ずつ計600の倒錯した物語を語り、主人たちはしばしばその場でそれを実行に移す。作品は日誌の形で構成され、4ヶ月と「単純(性交を伴わない)」「複合」「犯罪」「殺人」の4種の情熱に対応した4部からなる(第1部は完成されているが、残りは草案のみ)。犠牲者はありとあらゆる性的虐待と恐ろしい拷問の末に大半が殺される。 評価 この作品を最初に出版したブロッホ博士は、ありとあらゆる性的フェティシズムの徹底的なカテゴリ化には「医学者や、法学者や、人類学者たちにとって……科学的な重要さがある」と評している。ブロッホは『ソドム百二十日』をリヒャルト・フォン・クラフト=エビングの『性的精神病理』と同等に考えていた。フェミニズムの著述家シモーヌ・ド・ボーヴォワールは1955年にフランス当局がサドの主要4作品の破壊を企てた時に『我々はサドを焚書にすべきなのか?』というエッセイを書いて『ソドム百二十日』を弁護した。 映画作品 『サロ、またはソドムの120日』(邦題『ソドムの市』) 1975年製作、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督、舞台をファシズム末期のイタリアに置き換えた映画。同時代人の多くはこれを史上最も物騒な映画だと考えたが、この映画には強姦、食糞、四肢切断などの恐怖シーンこそあれ、実際に小説に出て来る邪悪な営為にはほとんど触れていない。世界各国で上映禁止とされた。 関連項目 マルキ・ド・サド サディズム 澁澤龍彦 - 日本への紹介者。 ソドムとゴモラ 黄金時代(映画)- ルイス・ブニュエル監督の映画。最後の場面に言及がある。 女犯坊(エロトピア連載版)- 当作をモチーフにしたエピソードがある。 読書する女 - 老判事に朗読させられ、二度目に二人の友人を呼んで読まされそうになり、朗読者をやめることになる。 外部リンク 『ソドム百二十日』などの英訳PDF - ブロッホ、ロラン・バルトのサド論などもあり。 『ソドム百二十日』の英訳オンラインテクスト - 訳稿はPDF版と同じ。 カテゴリ: フランスの小説 18世紀の小説 哲学を題材とした小説 未完の文学作品 ドイツの歴史を題材とした作品 文学における小児性愛 1785年の作品 猟奇小説 マルキ・ド・サド  -ソドムの市(パオロ・ボナチェッリ,1975年)は、  о“悪事と放蕩によって莫大な財産を有する4人の男が、フランス中から拉致してきた美少女・美少年達と深い森の城館で120日に及ぶ性的・拷問的饗宴を繰り広げる物語が、性倒錯、暴力、善悪、反道徳、無神論といったテーマと共に描かれている”  о“1789年7月2日、サドはブリキ管を使って即席で作ったメガホンで壁の下に集まった群集を扇動しようとし、その結果、7月4日の午前1時、自身の言葉によると「蛆虫のように裸のままで」シャラントン精神病院へと連れ去られた。このため、彼はこの原稿を含む全ての私物をバスティーユに置き去りにせざるを得なかった。7月14日、牢獄は陥落し、略奪・破壊の後、サドの原稿も紛失してしまった。このような作品の喪失はサドに、その言葉によると、「血の涙」を流させた”  о“アルヌー・ド・サン=マキシミンがバスチーユ牢獄のサドの一室で『ソドム』の巻紙を発見し、後にヴィルヌーヴ=トラン家が3代に亘って所有することとなった”  о“ルイ14世治世の終わり頃、殺人と汚職により莫大な財産を有する、45歳から60歳の4人の悪徳の限りを尽くした放蕩者達、ブランジ公爵、公爵の兄弟である司教、キュルヴァルの法院長、財務官デュルセが真冬にシュヴァルツヴァルトの古城シリング城に集まり、彼ら4人の絶対権力の下に置かれた42人の犠牲者、4人の遣り手婆、8人の絶倫男と共に閉じ籠る”  о“犠牲者は4人の妻(それぞれがそれぞれの娘と婚姻している)と、両親の下から誘拐された若い少年少女たちである”  о“4人の遣り手婆=「語り女」たちが、1ヶ月交代で1人150話ずつ計600の倒錯した物語を語り、主人たちはしばしばその場でそれを実行に移す”  о“ブロッホ博士は、ありとあらゆる性的フェティシズムの徹底的なカテゴリ化には「医学者や、法学者や、人類学者たちにとって……科学的な重要さがある」と評している”  о“1975年製作、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督、舞台をファシズム末期のイタリアに置き換えた映画”  -という。(つづく)<記2021年8月26日>〈18,420Byte〉