『平成上皇后』は-
 о日清製粉グループ会長の正田英三郎・冨美子夫妻の長女:明治時代以降初めての民間出身の皇后ならびに皇族
 -となり、
 о平成上皇を支えた
 -のであった。
★平成上皇后(正田美智子,162㎝,1934年10月20日(86歳))日清製粉グループ会長の正田英三郎・冨美子夫妻の長女:明治時代以降初めての民間出身の皇后ならびに皇族
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美智子
第125代天皇后
在位期間
1989年1月7日 - 2019年4月30日
昭和64年1月7日 - 平成31年4月30日
皇后:1989年(昭和64年)1月7日
上皇后:2019年(令和元年)5月1日
誕生:1934年10月20日(86歳)
日本・東京府東京市本郷区本郷本富士町
(現:東京都文京区本郷)
東京帝国大学医学部附属病院
諱:美智子(みちこ)
旧名:正田美智子(しょうだ みちこ)
印:白樺
氏族:正田家
父親:正田英三郎
母親:正田富美子
配偶者:明仁(第125代天皇、上皇)
結婚:1959年(昭和34年)4月10日
美智子(みちこ、1934年〈昭和9年〉10月20日 - )は、日本の第125代天皇・明仁の皇后(在位:1989年〈昭和64年〉1月7日 - 2019年〈平成31年〉4月30日)、上皇后(在位:2019年〈令和元年〉5月1日 - )。皇族。お印は白樺。敬称は陛下。勲等は勲一等宝冠大綬章。旧名は、正田 美智子(しょうだ みちこ)。
明治時代以降初めての民間出身の皇后ならびに皇族で、現皇室典範下で夫帝の即位に伴って立后した初めての皇后でもある。明仁の退位に伴い、皇室史上初めての上皇后(じょうこうごう)となった
現在の住居は、東京都港区にある仙洞仮御所。
来歴
少女時代
1934年(昭和9年)10月20日、日清製粉グループ会長の正田英三郎・冨美(1981年(昭和56年)に富美子と改名した)夫妻の長女として東京府東京市本郷区(現・東京都文京区東部)の東京帝国大学医学部附属病院で誕生
大和郷幼稚園、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園を経て、1941年(昭和16年)に雙葉学園雙葉小学校に入学。1944年(昭和19年)、疎開のため、神奈川県藤沢市の乃木高等女学校附属小学校(現・湘南白百合学園小学校)、群馬県の館林南国民学校(現・館林市立第二小学校)、1945年(昭和20年)5月には、長野県の軽井沢第一国民学校(初等科5年に転入、同年9月まで在籍)と転校を繰り返し、軽井沢にて終戦を迎えた。雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の俵孝太郎旧居に、一時在住したこともある。
小学生時代の性格は、担任の回想では「真面目な女子児童」、「活発で勝ち気だった」、「神経質な性格だった」とされていて、スポーツが得意な女子だった。また、ピアノ・絵画・料理、香道も習っていた。
1947年(昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業するが、当時は品川区五反田に在住しており通学に不便なことから聖心女子学院中等科へ入学する。1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院高等科を卒業中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称は米国の子役であったシャーリー・テンプルのような天然パーマだったことから「テンプルちゃん」や「ミッチー」「ミチ」と呼ばれていた。
1957年(昭和32年)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現・英語英文学科英語英文学専攻)を首席で卒業。在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた。卒業式では総代として答辞を読んだ。自身は大学院進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。クラブ活動では合唱部・英語劇クラブ・テニス部に所属していた。テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、関東学生ランキングの第4位にランクインした。昭和29年度(1954年度)の成人の日記念の読売新聞社主催の感想文では2位に入選した。大学の卒業論文は、『ゴーズワージーのフォーサイト・クロニエル』(The Forsyte Chronicles by John Galsworthy)。大学卒業後にフランス語の習得をしながら19世紀の児童文学の研究を続けていた。
同年8月、長野県の軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会にて当時皇太子だった明仁親王と出会う。テニスコートの誓いにちなんだ「テニスコートの出会い」として知られ、その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。
同年1958年11月27日、皇太子明仁親王と正田美智子の結婚が皇室会議(議長:内閣総理大臣・岸信介)において満場一致で可決された同日、両親の正田英三郎と富美子夫人との記者会見にて、記者から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と回答。これは当時の流行語にもなった。また第一印象について「ご清潔な方」とした。
結婚への反発
11月の皇室会議では、猛反対をした一人であった秩父宮妃勢津子も賛成、全員一致で可決した。
皇太子妃時代
1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と結婚する。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まった
お印は夫妻の出会いの場だった軽井沢にちなんで白樺とした。
1960年(昭和35年)9月22日 - 10月7日、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国連邦政府より招待され訪米。ホワイトハウスにも招待され、ドワイト・アイゼンハワー大統領夫妻と会談した。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。
1963年(昭和38年)3月22日に宮内庁病院に緊急入院、胞状奇胎と診断され翌23日の午後に流産の処置手術が行われた。
1965年(昭和40年)11月30日、第二子・第二男子礼宮文仁親王誕生
1969年(昭和44年)4月18日、皇太子明仁親王との第三子・第一女子紀宮清子内親王誕生。苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。
これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止した
1984年(昭和59年)、銀婚式となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点をつけるか」との問いに対し、皇太子が「点数をつけることはできないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。
皇后時代
1993年(平成5年)10月20日、満59歳の誕生日に赤坂御所にて倒れる。
島田雅彦のまとめによれば、その中で大内を名乗る人物は、天皇夫妻を昭和天皇や香淳皇后に比して、「華美で西洋風な生活を送り、神道よりもキリスト教に親和性が高く(元々、皇后が学習院ではなくミッション系大学の出でもあることから)、国民の望む皇室の主としてふさわしくない」という批判をし、それを皮切りに『週刊文春』などにも平成の皇后に対するバッシング記事が掲載された。宮中の最高権力者の一人となった皇后への、守旧派の「最後の反撃」と国民の「漠たる反感」が背景とされる。なお、皇后に対しては、入江相政や山田康彦といった元侍従らからの苦言も、それらの人物の手記などから少なからず確認されている。
このため皇后は精神的な苦痛から失声症となった。これに対し、宝島社および文藝春秋の関係者宅に何者かが銃弾を撃ち込む騒動が起き、このショックと皇后が宮中祭祀を熱心に行ったことで事態は沈静化したが、前代とは違う形の菊タブーが明らかになったとされる。翌1994年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している。
1994年(平成6年)10月20日、還暦を迎える。
1995年(平成7年)1月31日、天皇と共に夫妻で兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災発生後の兵庫県神戸市を見舞い(行幸啓)、同市長田区の菅原市場にその日皇居から自ら切って持参した黄色と白の水仙を供えた。この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ、同市布引ハーブ園内で展示されている被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者の労をねぎらう様子が大きな反響を呼ぶ。また、一人の病身の被災者のために自ら布団を敷いた。
1998年(平成10年)、インド・ニューデリーで開催された「国際児童図書評議会(IBBY)」に際してビデオによる講演を行い、日本神話に触れ、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。2002年(平成14年)、IBBYの本部があるスイス・バーゼルで開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBY名誉総裁として出席し祝辞を述べた。これが唯一の単独での海外公務となっている。
2005年(平成17年)10月20日、清子内親王降嫁前の記者会見では子どもたちに対する思いを語り、徳仁親王が優しく、よく励ましの言葉をかけてくれたこと、文仁親王が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということ、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。婚礼の朝には、民間へ降嫁する愛娘を気遣い、抱きしめて励ましたという。
2007年(平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。ストレス性のものと診断された。通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。同2007年5月21日からは、天皇とともに欧州訪問の途についている。8月8日には須崎御用邸での静養を中止し、天皇とともに新潟県中越沖地震の被災地を訪問
2011年(平成23年)3月30日、天皇とともに夫妻で、同年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震による東日本大震災の被災者約290人が避難している東京武道館(東京都足立区)を訪問し(行幸啓)、膝をつきながら、一人ひとりを親しく激励した
2015年(平成27年)7月29日、皇后は6月末ごろから胸の痛みを訴え、その頻度が週に数回程度から徐々に増えてきたため、同月24日に24時間の心電図検査を受けた。その結果、心臓の筋肉に血流が不足する心筋虚血を疑う所見がみられたという。宮内庁は29日、心筋虚血の疑いがあるため、同年8月9日に、東京大学病院で精密検査を受診すると発表した。同病院で冠動脈の状態をCT検査で確認し、治療を受け、以後体調は安定している。
上皇后時代
2016年(平成28年)8月8日に国民に向けたビデオメッセージとして全国放送された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」の録画収録の際には、その場にも同伴した。2017年(平成29年)6月9日に天皇の退位等に関する皇室典範特例法が成立、202年ぶりとなる天皇譲位が実現することとなった。
これにより夫・明仁が2019年(平成31年)4月30日で退位し、翌(令和元年)5月1日に長男の皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位することに伴い、皇太子徳仁親王妃雅子が立后した。
美智子の称号は「上皇后(じょうこうごう)」となった。前皇后の称号については、夫帝の生死に関わらず歴史的に用いられてきた「皇太后(こうたいごう)」、あるいはその略称である「太后(たいこう)」の称号を用いるべきであるとする反対意見もあったが、「退位した上皇が健在にもかかわらず、(皇室史上においても)崩御により夫と死別した未亡人というイメージが強い皇太后の称号を使用することは避けるべき」という見解が出たため、新称号を創設する運びとなった。
上皇后となって1ヶ月が経過した後、2019年(令和元年)6月8日に宮内庁病院で心臓の検査を受けた。この検査は白内障の手術を受けるために行われた血液検査において、心不全の診断指標であるBNP値が上昇していたことから実施された。専門医による診断の結果、中等度の三尖弁逆流症、軽度の僧帽弁逆流症及び不整脈の所見が認められた。その後、上皇との同伴で京都府での「孝明天皇山陵及び明治天皇山陵に親謁の儀」を済ませた後の6月16日に右眼の白内障手術を、6月23日に左眼の白内障手術を受けた
2020年3月31日、上皇と共に仮住居となる高輪皇族邸(高輪仙洞仮御所)に引越した。
2020年(令和2年)9月11日、コロナ禍で4月以降外出を控えられていたが、定期検診のため宮内庁病院に入られた。
年譜
1934年(昭和9年)10月20日、東京府東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)の東京帝国大学医学部附属病院にて誕生。
1939年(昭和14年)、大和郷幼稚園に入園(文京区本駒込)。
1939年(昭和14年)、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園に編入園(千代田区六番町)。
1941年(昭和16年)、雙葉学園雙葉小学校に入学。
1944年(昭和19年)、乃木高等女学校附属小学校(現・湘南白百合学園小学校)に編入学(神奈川県藤沢市)。
館林南国民学校(現・館林市立第二小学校)に編入学。
1945年(昭和20年)5月、軽井沢第一国民学校(現・軽井沢町立東部小学校)に編入学。
1947年(昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業。
1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院中等科を卒業。
1955年(昭和30年)3月、聖心女子学院高等科を卒業。
1957年(昭和32年)、聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現・英語英文学科英語英文学専攻)を卒業。
1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王(当時)と成婚。皇太子妃冊立。
同日付で勲一等宝冠章を受章。
逸話
少女時代
非常に優れた運動神経の持ち主で、学生時代にはリレーの選手などに選ばれることが多かった。この当時は勝気な性格であったと伝えられる。
学生時代に学校において出会ったアイルランド人のカトリック教会修道女たちに深い思いを寄せており、一人ひとりの顔と名前を今なお鮮明に思い出すことができるという。
家庭・育児に関するもの
成婚時に「殿下にお料理を作って差し上げたい」と希望し、新造の東宮御所奥公室に小さな厨房を設置
皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止。3人の子をすべて自らの手で育てた。とりわけ浩宮徳仁親王は誕生に際し、母子手帳が発給されたことでも知られ、「乳が足りない際には(乳母を立てず)人工栄養で育てるよう」指示がなされた
その他
王室間の交流を持つイギリスのディクソン社からプリンセス・ミチコというバラを献呈されており、皇居の庭にも植えられている。
音楽に造詣が深く、学生時代からピアノが得意とされる。バチカン訪問の際の音楽会では、即興でグノーの『アヴェ・マリア』の伴奏を弾いた。自宅でじかに演奏に接したピアニストの中村紘子は、あれだけ想いの深い演奏をするピアニストは日本にはいない、もしピアニストになっていたら自分には出番がなかっただろう、と最大級の讃辞を送っている
1999年(平成11年)、父・正田英三郎の死去に伴い、東京都品川区東五反田五丁目(通称「池田山」)の生家正田邸が相続の対象になった際は、相続権を放棄。正田邸跡地は小公園「品川区立ねむの木の庭」になっている。
発言
成婚前・皇太子妃時代(昭和)
「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」 - 1958年(昭和33年)11月27日、婚約決定記者会見での明仁親王評。
「わたくしも差し上げるのならお点ではなく、感謝状を」 - 1984年(昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて。明仁親王の「点数をつけることはできないが努力賞ということで」をふまえ。
カテゴリ:
日本の皇后
戦後日本の女性皇族
勲一等宝冠章受章者
大チャクリー勲章受章者
文学士取得者
日本の慈善家
日本の赤十字の人物
20世紀日本の女性
21世紀日本の女性
聖心女子大学出身の人物
正田家
東京都区部出身の人物
1934年生存命人物

 -『平成上皇后』は、
 о“初めての民間出身の皇后ならびに皇族で、現皇室典範下で夫帝の即位に伴って立后した初めての皇后”
 о“明仁の退位に伴い、皇室史上初めての上皇后(じょうこうごう)となった”
 о“1934年(昭和9年)10月20日、日清製粉グループ会長の正田英三郎・冨美(1981年(昭和56年)に富美子と改名した)夫妻の長女として東京府東京市本郷区(現・東京都文京区東部)の東京帝国大学医学部附属病院で誕生”
 о“大和郷幼稚園、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園を経て、1941年(昭和16年)に雙葉学園雙葉小学校に入学。1944年(昭和19年)、疎開のため、神奈川県藤沢市の乃木高等女学校附属小学校(現・湘南白百合学園小学校)、群馬県の館林南国民学校(現・館林市立第二小学校)、1945年(昭和20年)5月には、長野県の軽井沢第一国民学校(初等科5年に転入、同年9月まで在籍)と転校を繰り返し、軽井沢にて終戦を迎えた”
 о“小学生時代の性格は、担任の回想では「真面目な女子児童」、「活発で勝ち気だった」、「神経質な性格だった」とされていて、スポーツが得意な女子だった”
 о“1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院高等科を卒業”
 о“中高時代も成績はトップクラス”
 о“1957年(昭和32年)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現・英語英文学科英語英文学専攻)を首席で卒業”
 о“卒業式では総代として答辞を読んだ”
 о“クラブ活動では合唱部・英語劇クラブ・テニス部に所属”
 о“テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、関東学生ランキングの第4位にランクイン”
 о“テニスコートの誓いにちなんだ「テニスコートの出会い」として知られ、その後もテニスを通して交際を深めた”
 о“1958年11月27日、皇太子明仁親王と正田美智子の結婚が皇室会議(議長:内閣総理大臣・岸信介)において満場一致で可決された”
 о“同日、両親の正田英三郎と富美子夫人との記者会見にて、記者から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と回答”
 о“当時の流行語にもなった”
 о“1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と結婚する。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まった”
 о“1960年(昭和35年)9月22日 - 10月7日、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国連邦政府より招待され訪米。ホワイトハウスにも招待され、ドワイト・アイゼンハワー大統領夫妻と会談した”
 о“1965年(昭和40年)11月30日、第二子・第二男子礼宮文仁親王誕生”
 о“1969年(昭和44年)4月18日、皇太子明仁親王との第三子・第一女子紀宮清子内親王誕生”
 о“皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止した”
 о“皇后は精神的な苦痛から失声症となった”
 о“皇后が宮中祭祀を熱心に行ったことで事態は沈静化したが、前代とは違う形の菊タブーが明らかになった”
 о“1994年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメント”
 о“1994年(平成6年)10月20日、還暦”
 о“1995年(平成7年)1月31日、天皇と共に夫妻で兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災発生後の兵庫県神戸市を見舞い(行幸啓)、同市長田区の菅原市場にその日皇居から自ら切って持参した黄色と白の水仙を供えた。この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ、同市布引ハーブ園内で展示されている”
 о“被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者の労をねぎらう様子が大きな反響を呼ぶ”
 о“文仁親王が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していた”
 о“清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じた”
 о“清子内親王のおおらかでのどかな性格”
 о“2007年(平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。ストレス性のものと診断された”
 о“2007年5月21日からは、天皇とともに欧州訪問の途についている。8月8日には須崎御用邸での静養を中止し、天皇とともに新潟県中越沖地震の被災地を訪問”
 о“2011年(平成23年)3月30日、天皇とともに夫妻で、同年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震による東日本大震災の被災者約290人が避難している東京武道館(東京都足立区)を訪問し(行幸啓)、膝をつきながら、一人ひとりを親しく激励した”
 о“2015年(平成27年)7月29日、皇后は6月末ごろから胸の痛みを訴え、その頻度が週に数回程度から徐々に増えてきたため、同月24日に24時間の心電図検査を受けた。その結果、心臓の筋肉に血流が不足する心筋虚血を疑う所見がみられた”
 о“冠動脈の状態をCT検査で確認し、治療を受け”
 о“2016年(平成28年)8月8日に国民に向けたビデオメッセージとして全国放送された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」の録画収録の際には、その場にも同伴した”
 о“美智子の称号は「上皇后(じょうこうごう)」となった”
 о“上皇后となって1ヶ月が経過した後、2019年(令和元年)6月8日に宮内庁病院で心臓の検査を受けた。この検査は白内障の手術を受けるために行われた血液検査において、心不全の診断指標であるBNP値が上昇していたことから実施された。専門医による診断の結果、中等度の三尖弁逆流症、軽度の僧帽弁逆流症及び不整脈の所見が認められた”
 о“上皇との同伴で京都府での「孝明天皇山陵及び明治天皇山陵に親謁の儀」を済ませた後の6月16日に右眼の白内障手術を、6月23日に左眼の白内障手術を受けた”
 о“非常に優れた運動神経の持ち主で、学生時代にはリレーの選手などに選ばれることが多かった。この当時は勝気な性格であった”
 о“成婚時に「殿下にお料理を作って差し上げたい」と希望し、新造の東宮御所奥公室に小さな厨房を設置”
 о“慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止。3人の子をすべて自らの手で育てた。とりわけ浩宮徳仁親王は誕生に際し、母子手帳が発給されたことでも知られ、「乳が足りない際には(乳母を立てず)人工栄養で育てるよう」指示がなされた”
 о“学生時代からピアノが得意”
 о“バチカン訪問の際の音楽会では、即興でグノーの『アヴェ・マリア』の伴奏を弾いた。自宅でじかに演奏に接したピアニストの中村紘子は、あれだけ想いの深い演奏をするピアニストは日本にはいない、もしピアニストになっていたら自分には出番がなかっただろう、と最大級の讃辞を送っている”
 -という。(つづく)<記2020年12月30日>〈20,545Byte〉