江川卓(野球)(183cm,1955年5月25日(65歳))は-
 о日本プロ野球界
 -にて、
 о『江』のつく、ひと癖あるやつ
 -のひとりであり、
 о江川
 -に、
 о江夏
 -に、
 о江本
 -である(笑)。
★江川卓(野球)(183cm,1955年5月25日(65歳))
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江川 卓
基本情報
国籍:日本
出身地:福島県いわき市
生年月日:1955年5月25日(65歳)
身長:183cm
体重:90kg
選手情報
投球・打席:右投右打
ポジション:投手
プロ野球選手時代
自主トレ期間中は前年まで現役捕手だった矢沢正がパートナーを務めた。
開幕からの2か月間は一軍昇格を自粛 する。デビュー戦となった1979年6月2日の対阪神戦では、敵将のドン・ブレイザー監督に球種を見抜かれ、リロイ・スタントン、若菜嘉晴、マイク・ラインバックに本塁打を浴びて敗戦投手。また、同1979年6月月17日のプロ初勝利となった対広島戦1979年6月では、試合中に鼻血を出すというハプニングで8回途中降板したが、その後は活躍を見せた。しかし、ルーキーイヤーの成績は9勝10敗の負け越しで、一桁の勝ち星に終わったことなどが影響し、13勝を挙げた藤沢公也(中日)に新人王をさらわれた。なお、1979年4月17日の後楽園球場でのイースタンリーグ・ロッテ戦では、二軍の試合としては異例ともいえる三万人以上の観客が江川目当てに集まり、江川は自身より2歳年上でプロ入り同期のルーキー・落合博満と対戦したが、初回に中堅越えの先制タイムリー二塁打、3回にも左前のタイムリーを打たれた。江川は7月21日に横浜スタジアムで開催されたジュニアオールスターゲームにもオールイースタンのメンバーとして出場、3イニングを無安打4奪三振という見事な投球を見せたが、このときは勝ち越し本塁打を放った加倉一馬(西武)がMVPに選ばれ、江川は最優秀投手賞だった。この1979年のオフに地獄の伊東キャンプに参加する
プロ2年目の1980年には、261回1/3を投げ、16勝、勝率.571、防御率2.48、219奪三振、18完投、5完封(リーグ1位)で、最多勝利と最多奪三振を獲得しベストナインも受賞するも、沢村賞は該当者なしにされた
3年目の1981年には、240回1/3を投げ20勝6敗、勝率.769、防御率2.29、221奪三振、20完投、7完封で、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封(7完封)という投手五冠王 に輝き(日本プロ野球史上6人目、2リーグ分立後3人目)、チームを4年ぶりのリーグ優勝に導いた。最優秀選手に選出され、ベストナインも受賞したものの、沢村賞は同僚の西本聖の受賞となった(当時の沢村賞は現在と異なりプロ野球担当の新聞記者による投票で決定されていた)。勝ち星(江川20、西本18)、勝率(江川.769、西本.600)、防御率(江川2.29、西本2.58)、奪三振(江川221、西本126)、完投数(江川20、西本14)、完封数(江川7、西本3)は江川が上、登板数(江川31、西本34)、投球回数(江川240回1/3、西本257回2/3)は西本が上だった。このことをきっかけに、巨人ファンやそれ以外のプロ野球ファンから同情の声が多く集まって、空白の一日事件から巨人入団までの顛末によるマイナスイメージが徐々に薄れて、イメージ的には「怪我の功名」となった。大正製薬、不二家などのCMにも出演。
その1979年の日本シリーズ(対戦相手は日本ハム)では第1戦、第4戦、第6戦の3試合に先発。第1戦は6回を投げて自責点4の敗勢で降板、その後チームが同点に追いつき敗戦投手は免れたものの、9回裏にリリーフエースの角三男が打たれてチームはサヨナラ負けを喫した。中3日で登板した第4戦は2失点完投勝利。さらに中3日で登板した第6戦(第5戦が雨のため1日順延)も3失点完投勝利で優勝。レギュラーシーズンに続き胴上げ投手となり、巨人を8年ぶりの日本一へ導いた。このとき、9回裏2死後の最後の打者であった五十嵐信一の飛球がマウンド上に上がった際に、普段通り投手に代わって捕球しようとする野手を制してウィニングボールを捕ったことを思い出としている
1982年も263回1/3を投げ、19勝(リーグ2位)、勝率.613、防御率2.36(リーグ2位)、196奪三振(リーグ1位)、24完投(リーグ1位)、6完封(リーグ1位)を挙げる活躍で沢村賞選考基準項目のすべてを満たし最多奪三振を獲得するが、沢村賞には20勝を挙げて沢村賞選考基準項目のすべてを満たした北別府学(広島)が選出されたため、この年も沢村賞を獲得できなかった勝ち星(江川19勝、北別府20勝)、勝率(江川.613、北別府.714)、登板数(江川31、北別府36)、投球回数(江川263回1/3、北別府267回1/3)は北別府の方が上だったが、防御率(江川2.36、北別府2.43)、奪三振(江川196、北別府184)、完投数(江川24、北別府19)、完封数(江川6、北別府5)は江川の方が上だった。結局、江川は沢村賞を獲得できないまま現役生活を終えることになる。
1983年夏に再び右肩を痛める。鍼灸の治療などを受けてマウンドに立ち続けたが、スポーツ新聞などからは「百球肩」と揶揄されるようになった。江川はこの事実が知られることを恐れ、投球数を減らすように工夫し、チーム内でもトレーナー一人以外には知らせなかったという。しかし、この肩痛が最終的に江川を引退に追い込むことになる。この1982年は、レギュラーシーズン優勝決定時を含め3セーブを記録(江川がセーブを記録したのはこの年のみ)。
また、同1982年の西武との日本シリーズでは、シリーズ直前に右足ふくらはぎの肉離れを起こしていたため精彩を欠き、登板した第1戦(先発)、第6戦(リリーフ)で敗戦投手となり、第4戦(先発)でも江川自身に勝ち負けは付かなかったがチームは敗れた。同1982年オフ、堀内恒夫の現役引退に伴い、藤田元司と堀内が背負った背番号18への変更を打診されたが固辞している。
1984年は、ナゴヤ球場で行われたオールスターゲーム第3戦で捕手・中尾孝義(中日)とバッテリーを組み、8者連続奪三振を記録このとき5人目の打者として対戦した落合博満(ロッテ)は、「球は現役投手で一番速い。なぜこれほどの投手が打たれるのかわからない」と述懐している。しかし、9人目に迎えた打者・大石大二郎(近鉄)への3球目にカーブを投げてバットに当てられてしまい、二塁ゴロとなり、1971年第1戦の江夏豊(阪神)に並ぶ9者連続奪三振はならなかった。同年1984年9月16日の対広島戦(広島市民球場)では、先発して延長11回まで0点に抑えたが、12回裏1死無走者、打者・長嶋清幸の場面で158球目を打たれ、これが生涯初の被サヨナラ本塁打となり、自責点1の完投負けを喫した。しかしながら、同年1984年のシーズンも通算2度目のリーグ最高勝率(.750)と通算4度目のリーグ最多完封 を記録した
1985年は右肩故障の影響でプロ入り以来最低の成績 に終わったが、自チーム監督の王貞治が持っていた当時の年間最多本塁打記録(55本)に迫る阪神のランディ・バースに対し、他の巨人の投手が敬遠をする中で真っ向勝負をしている。そのことからバースは引退後に江川を最高の投手と評していた
1985年のシーズンオフに支那鍼治療で復肩した江川は、新ストライクゾーンが導入された翌1986年は好調だった。だが、1985年6月26日の対阪神戦で、7試合連続本塁打の日本タイ記録が掛かったバースに真っ向勝負を挑むも、最終打席で本塁打を許している。また、大阪スタヂアムで行われた1985年7月20日のオールスターゲーム第2戦では4回からリリーフ登板、1死二塁で西武の高卒ルーキー・清原和博と初対決し(清原は代打で登場)、カウント2-1からストレートを投げて空振り三振に切って取った。
明くる年の1987年、神宮球場で行われた6月2日の対ヤクルト戦では、6回1/3を投げて自責点3で降板、江川自身に勝ち負けは付かなかったが、ヤクルトの4番で「怪物」といわれたボブ・ホーナーと初めて対戦。日米「怪物」対決は、ホーナーから3打席連続三振を奪った江川に軍配が上がった(試合は7対6で巨人勝利)。しかし、1987年9月20日の対広島戦で、4番・小早川毅彦に2打席連続で本塁打を打たれる(シングルヒット1本を含めて猛打賞)。2本目の本塁打は逆転サヨナラツーランとなり、3失点(小早川の2本塁打によるもの)で完投しながら敗戦投手となり、江川は小早川がベースを一周する間ずっとマウンドに膝をついて呆然としたまま動くことが出来なかったこれをきっかけに、球団の慰留を押し切って現役を引退した。球団代表の長谷川実雄は、江川と「強い信頼関係、100%の信頼関係で結ばれている」「引退というものは、一芸に秀でた達人がその世界を去るということ。自由にしてあげるのが礼儀」として任意引退ではなく自由契約とした。
引退会見では、優勝のかかった対広島戦を前にして長年傷めていた右肩の故障が限界に達し、即効性があり一時的に力は回復するが投手生命を縮めるという、いわゆる「禁断のツボ」に鍼を打つ治療を受けたと語り、引退記者会見に出席した多くのスポーツ記者が、涙をにじませて語る江川の姿にもらい泣きした。しかし、鍼灸関係者から、鍼灸治療でそのような危険な治療方法があるかのような誤解と不安を与えたとの不満と抗議が起こり、そのようなツボが江川が主張した患部(肩胛骨)の裏にあるという事実も確認できなかったため、治療をした鍼灸医の姓名を明らかにするように、鍼灸医の団体から正式な抗議を受けた。この件に関しては、江川サイドから文章で謝罪することで一応の決着が計られたが、鍼灸医団体からの抗議自体が大手のマスコミではほとんど報じられなかった。のちに江川は、引退記者会見でテンションが高まったあまり、思わず口をついた作り話であることを認めた。
現役引退は1987年の春頃に既に考えていたとのことで、5月には夫人に同年限りで引退する考えを打ち明けている。『たかが江川されど江川』によると、同年5月13日、後楽園球場での阪神戦で、8回まで完封ペースだったが、江川の法大の後輩・木戸克彦の代打として登場したプロ入り通算0安打の無名のルーキー・八木裕に100球目の投球をフルスイングで本塁打されたことにも大きなショックを受けたという。八木は同年オフ、江川の法大の先輩・長崎慶一の引退に伴い、江川も一時的に与えられた背番号3を与えられた。また、『巨人-阪神論』では、前年の1986年の時点で肩の痛みなどから引退を考えていたと述べ、入団初年に9勝で終わって以来、「一桁勝利で終わるようではプロ野球を続けちゃダメだ」と考えるようになり、1987年は13勝したものの来年はたぶん一桁になると思ったことも引退を決めた原因であると述べている。上記の小早川の本塁打については、その日はここ数年で一番調子のいい日で、肩の痛みもなく、これで空振りが取れれば来年もう一度二桁勝利が取れるという「賭け」として、キャッチャーは外角のサインを出していたが、敢えてそれを無視し、自ら完璧だと思って投げた勝負の内角ストレートを打たれたことで、その自信を失ったという。奇しくもこの年挙げた勝ち星は小林繁が引退した年と同じ13勝だった。ただし、江川の通算勝利数は小林の通算勝利数(139勝)より4勝下回る。
プロ野球人生最後の登板となった因縁の西武との1987年度日本シリーズにおいては、第3戦に先発投手として登板。好投を見せるも打線がそれに応えることができず、石毛宏典とジョージ・ブコビッチにソロ本塁打を打たれ、8回2失点(9回は水野雄仁が登板)で敗戦(最終スコアは1対2)。チーム自体も相手の組織力と隙のない野球の前に完敗を喫し(最終成績は2勝4敗)、最後の花道を飾ることはできなかった。
この年の8月に次年度の球団カレンダー用の写真撮影が行われた際には、カメラマンから桑田真澄との2ショットを依頼されたのに対し、のちに写真の差し替えで桑田に迷惑をかける可能性を考慮して、2ショットを拒否した。
シーズン終了後の球団納会では、長嶋茂雄の引退試合のコメント(「わが巨人軍は永久に不滅です」)をもじって「巨人軍選手会は永遠に不滅です」と最後の挨拶を行った。

 江川卓(野球)(183cm,1955年5月25日(65歳))は-
 о“開幕からの2か月間は一軍昇格を自粛”
 о“デビュー戦となった1979年6月2日の対阪神戦では、敵将のドン・ブレイザー監督に球種を見抜かれ、リロイ・スタントン、若菜嘉晴、マイク・ラインバックに本塁打を浴びて敗戦投手”
 о“ルーキーイヤーの成績は9勝10敗の負け越し”
 о“1979年4月17日の後楽園球場でのイースタンリーグ・ロッテ戦では、二軍の試合としては異例ともいえる三万人以上の観客が江川目当てに集まり、江川は自身より2歳年上でプロ入り同期のルーキー・落合博満と対戦したが、初回に中堅越えの先制タイムリー二塁打、3回にも左前のタイムリーを打たれた”
 о“1979年のオフに地獄の伊東キャンプに参加する”
 о“プロ2年目の1980年には、261回1/3を投げ、16勝、勝率.571、防御率2.48、219奪三振、18完投、5完封(リーグ1位)で、最多勝利と最多奪三振を獲得しベストナインも受賞するも、沢村賞は該当者なしにされた”
 о“3年目の1981年には、240回1/3を投げ20勝6敗、勝率.769、防御率2.29、221奪三振、20完投、7完封で、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封(7完封)という投手五冠王 に輝き(日本プロ野球史上6人目、2リーグ分立後3人目)、チームを4年ぶりのリーグ優勝に導いた。最優秀選手に選出され、ベストナインも受賞したものの、沢村賞は同僚の西本聖の受賞となった(当時の沢村賞は現在と異なりプロ野球担当の新聞記者による投票で決定されていた)。勝ち星(江川20、西本18)、勝率(江川.769、西本.600)、防御率(江川2.29、西本2.58)、奪三振(江川221、西本126)、完投数(江川20、西本14)、完封数(江川7、西本3)は江川が上、登板数(江川31、西本34)、投球回数(江川240回1/3、西本257回2/3)は西本が上だった”
 о“中3日で登板した第4戦は2失点完投勝利。さらに中3日で登板した第6戦(第5戦が雨のため1日順延)も3失点完投勝利で優勝。レギュラーシーズンに続き胴上げ投手となり、巨人を8年ぶりの日本一へ導いた。このとき、9回裏2死後の最後の打者であった五十嵐信一の飛球がマウンド上に上がった際に、普段通り投手に代わって捕球しようとする野手を制してウィニングボールを捕ったことを思い出としている”
 о“1982年も263回1/3を投げ、19勝(リーグ2位)、勝率.613、防御率2.36(リーグ2位)、196奪三振(リーグ1位)、24完投(リーグ1位)、6完封(リーグ1位)を挙げる活躍で沢村賞選考基準項目のすべてを満たし最多奪三振を獲得するが、沢村賞には20勝を挙げて沢村賞選考基準項目のすべてを満たした北別府学(広島)が選出されたため、この年も沢村賞を獲得できなかった”
 о“勝ち星(江川19勝、北別府20勝)、勝率(江川.613、北別府.714)、登板数(江川31、北別府36)、投球回数(江川263回1/3、北別府267回1/3)は北別府の方が上だったが、防御率(江川2.36、北別府2.43)、奪三振(江川196、北別府184)、完投数(江川24、北別府19)、完封数(江川6、北別府5)は江川の方が上だった”
 о“1983年夏に再び右肩を痛める”
 о“「百球肩」と揶揄される”
 о“この事実が知られることを恐れ、投球数を減らすように工夫し、チーム内でもトレーナー一人以外には知らせなかった”
 о“肩痛が最終的に江川を引退に追い込む”
 о“1984年は、ナゴヤ球場で行われたオールスターゲーム第3戦で捕手・中尾孝義(中日)とバッテリーを組み、8者連続奪三振を記録”
 о“このとき5人目の打者として対戦した落合博満(ロッテ)は、「球は現役投手で一番速い。なぜこれほどの投手が打たれるのかわからない」”
 о“9人目に迎えた打者・大石大二郎(近鉄)への3球目にカーブを投げてバットに当てられてしまい、二塁ゴロとなり、1971年第1戦の江夏豊(阪神)に並ぶ9者連続奪三振はならなかった”
 о“1984年のシーズンも通算2度目のリーグ最高勝率(.750)と通算4度目のリーグ最多完封 を記録した”
 о“1985年は右肩故障の影響でプロ入り以来最低の成績 に終わった”
 о“当時の年間最多本塁打記録(55本)に迫る阪神のランディ・バースに対し、他の巨人の投手が敬遠をする中で真っ向勝負をしている。そのことからバースは引退後に江川を最高の投手と評していた”
 о“1985年6月26日の対阪神戦で、7試合連続本塁打の日本タイ記録が掛かったバースに真っ向勝負を挑むも、最終打席で本塁打を許している”
 о“1987年、神宮球場で行われた6月2日の対ヤクルト戦では、6回1/3を投げて自責点3で降板、江川自身に勝ち負けは付かなかったが、ヤクルトの4番で「怪物」といわれたボブ・ホーナーと初めて対戦。日米「怪物」対決は、ホーナーから3打席連続三振を奪った江川に軍配が上がった(試合は7対6で巨人勝利)”
 о“1987年9月20日の対広島戦で、4番・小早川毅彦に2打席連続で本塁打を打たれる(シングルヒット1本を含めて猛打賞)。2本目の本塁打は逆転サヨナラツーランとなり、3失点(小早川の2本塁打によるもの)で完投しながら敗戦投手となり、江川は小早川がベースを一周する間ずっとマウンドに膝をついて呆然としたまま動くことが出来なかった”
 о“これをきっかけに、球団の慰留を押し切って現役を引退した”
 о“長年傷めていた右肩の故障が限界に達し、即効性があり一時的に力は回復するが投手生命を縮めるという、いわゆる「禁断のツボ」に鍼を打つ治療を受けたと語り、引退記者会見に出席した多くのスポーツ記者が、涙をにじませて語る江川の姿にもらい泣きした。しかし、鍼灸関係者から、鍼灸治療でそのような危険な治療方法があるかのような誤解と不安を与えたとの不満と抗議が起こり、そのようなツボが江川が主張した患部(肩胛骨)の裏にあるという事実も確認できなかったため、治療をした鍼灸医の姓名を明らかにするように、鍼灸医の団体から正式な抗議を受けた。この件に関しては、江川サイドから文章で謝罪することで一応の決着が計られたが、鍼灸医団体からの抗議自体が大手のマスコミではほとんど報じられなかった”
 о“小早川の本塁打については、その日はここ数年で一番調子のいい日で、肩の痛みもなく、これで空振りが取れれば来年もう一度二桁勝利が取れるという「賭け」として、キャッチャーは外角のサインを出していたが、敢えてそれを無視し、自ら完璧だと思って投げた勝負の内角ストレートを打たれたことで、その自信を失った”
 -確かに、
 о掛布は打たせてやった
 -という向きもあったが、
 о小早川に打たれるようでは駄目だ
 -という思いは強かったであろう。(つづく)<記20年11月08日>〈16,760Byte〉