ジュリー・アンドリュース(173cm,1935年10月1日(84歳))は-
 оその年の最高興行収入映画であり、20世紀フォックス史上最大のヒットとなった
 о2013年現在、これは今までの映画の中で三番目の興行収入をあげている
 -という、
 о『メリー・ポピンズ』(1964年)29歳:アカデミー主演女優賞
 -以来、
 о『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)30歳
 -では既に、
 о期待されたスター
 -であった。
★ジュリー・アンドリュース(173cm,1935年10月1日(84歳))
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デイム・ジュリー・アンドリュース
Dame Julie Andrews
デイム・ジュリー・アンドリュース Dame Julie Andrews
2013年5月16日 オーストラリア、シドニーのハイアットホテルでの記者会見にて
本名:Julia Elizabeth Wells
ジュリア・エリザベス・ウェルズ
生年月日:1935年10月1日(84歳)
出生地:イングランドサリー州ウォルトン・オン・テムズ
国籍:イギリス
身長:173 cm
職業:女優、歌手、作家、演出家、ダンサー
ジャンル:映画、舞台
活動期間:1945年 -
配偶者:トニー・ウォルトン(1959年 - 1967年)離婚
ブレイク・エドワーズ(1969年 - 2010年)死別
著名な家族:エマ・ウォルトン・ハミルトン(娘)
ジェニファー・エドワーズ(義娘)
ジェフリー・エドワーズ(義息子)
アメリア・エドワーズ(養女)
ジョアンナ・エドワーズ(養女)
主な作品
映画
『メリー・ポピンズ』(1964年)29歳
『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)30歳
『ビクター/ビクトリア』(1982年)47歳
『プリティ・プリンセス』シリーズ(2001年、2006年)舞台(66歳)
『マイ・フェア・レディ』(1956年 - 1962年)
受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1964年『メリー・ポピンズ』
ヴェネツィア国際映画祭
栄誉金獅子賞
2019年
AFI賞
生涯功労賞
2020年
英国アカデミー賞
新人女優賞
1965年『メリー・ポピンズ』
エミー賞
バラエティ/ミュージカル番組部門
1971年『Julie and Carol at Lincoln Center』
1972年『ジュリー・アンドリュース・アワー』
ノンフィクション・シリーズ部門
2003年『Broadway: The American Musical』
グラミー賞
子どものためのアルバム賞
1964年『メリー・ポピンズ(サウンドトラック)』
子ども向けスポークン・ワード・アルバム賞
2010年『Julie Andrews' Collection of Poems, Songs and Lullabies』
特別賞
2010年 特別功労賞生涯業績賞
ゴールデングローブ賞
主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)
1964年『メリー・ポピンズ』
1965年『サウンド・オブ・ミュージック』
1982年『ビクター/ビクトリア』
全米映画俳優組合賞
生涯功労賞
2006年 映画界、演劇界への長年に渡る貢献に対して
その他の賞
ディズニー・レジェンド
1991年 映画出演ハリウッド名声の歩道
映画
1979年 6901 Hollywood Blvd.
備考
大英帝国勲章
デイム・ジュリー・エリザベス・アンドリュース(デイム・ジュリー・アンドルーズ、Dame Julie Elizabeth Andrews, DBE, 1935年10月1日 - )は、イギリス生まれの女優、歌手、 作家、演出家、ダンサー。2000年、エリザベス2世より舞台芸術の功績で大英帝国勲章に叙され、デイムの称号をつけて呼ばれる。
1954年の上演作品『ボーイ・フレンド』でブロードウェイデビュー両方ともトニー賞に彼女がノミネートされた『マイ・フェア・レディ』、『キャメロット』で世間の名声を得た。1957年にはテレビで1億人以上が視聴したミュージカル『シンデレラ』に主演した。
アンドリュースはディズニー映画『メリー・ポピンズ』(1964年)で長編映画デビューアカデミー主演女優賞を獲得した。ディズニー映画でアカデミー主演女優賞にノミネート(後に受賞)されたのはいまだに彼女だけである。『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)では2回目のアカデミー賞ノミネートを果たし、ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞した。後者の映画は現在でも最高興行収入を獲得した映画第3位である1964年から1967年の間、『卑怯者の勲章』、『ハワイ』、アルフレッド・ヒッチコック監督作品『引き裂かれたカーテン』、『モダン・ミリー』などでも人気を得て、当時の世界で一番成功した映画スターとなった
彼女の4オクターブもの、非常に印象的な声域は、1997年の喉の手術によって失われてしまった
アンドリュースはアカデミー賞を1度受賞している他に、英国アカデミー賞を1度、ゴールデングローブ賞を5度、グラミー賞を3度、エミー賞を2度、そしてディズニー・レジェンドとケネディ・センター名誉賞の受賞経験がある
生い立ち
ジュリア・エリザベス・ウェルズは、1935年10月1日、イギリスのサリー州ウォルトン・オン・テムズで生まれた。母親のバーバラ・ワード・ウェルズ(旧姓モリス)は、金属加工と木工の学校教師のエドワード・チャールズ・"テッド"・ウェルズと結婚した
テッド・アンドリュースは酔って、彼の継娘とベッドを共にしようと二回も試みたため、アンドリュースは部屋に鍵をかけるようになった
ソプラノ歌手で声楽師でもあるマダム・リリアン・スタイルズ・アレンに学んだ。リリアンについてアンドリュースは「彼女は私に大きな影響を与えてくれました」、 「彼女は私の三人目の母のような存在で、私は世界中で一番たくさんの母親と父親がいます」と語っている。リリアンの自伝『Julie Andrews – My Star Pupil 』で、リリアンは「ジュリーの声の精度と音質には驚かされた。彼女にはすぐれた絶対音感の才能があった」と書いている
自身の声について、「私は混ざり気のない、きれいで、とても細く、4オクターブの声を持っていて、犬が数マイル離れていても呼べたほどでした」と語っている
経歴
イギリスでのキャリア初期
彼女はまだ小さかったため、ビールの木枠の上に立ちマイクで歌った。「緊張して恐ろしかったですが、上手くいきました」
アメリカ合衆国でのキャリア初期
彼女の19歳の誕生日の前夜の1954年9月30日に、ジュリー・アンドリュースはロンドンで大成功したミュージカル『ボーイ・フレンド』のポリー・ブラウン役でブロードウェイデビューを果たす。批評家たちは、アンドリュースはこのミュージカルで優れた人材だ、と評した。『ボーイ・フレンド』の契約が切れる間際に、アンドリュースはブロードウェイの『マイ・フェア・レディ』のオーディションを受けてはどうかと勧められ、見事選ばれた1955年の11月に、彼女にとっては初めてのテレビ映画である『High Tor 』に出演する契約を交わしビング・クロスビーと共演した
1956年、彼女は『マイ・フェア・レディ』にレックス・ハリソンのヘンリー・ヒギンズ役に対し、イライザ・ドゥーリトル役として出演するロジャーズは『マイ・フェア・レディ』でのアンドリュースの才能に感心、彼女はロジャース&ハマースタインのテレビミュージカルである『シンデレラ』に出演した『シンデレラ』はアルフレッド・アントニーニの音楽的な演出の下で1957年3月31日にCBSで放映され、人々を魅惑し、推定1億700万人が視聴した
1960年、ラーナーとロウは彼女をグィネヴィア王妃として、リチャード・バートンや、当時まだ新人だったロバート・グーレ『キャメロット』に出演させたバートンは後に彼女のことを「彼女は僕の好きな共演者三人の中の一人で、他の二人はE.テイラーとP. オトゥールだ。彼女は僕が唯一、一緒に寝たことがない主演女優さ」などと語っているジャック・ワーナーは「私は自分の仕事上、誰が映画に利益を与えるかを知っている。オードリー・ヘプバーンが作品を赤字にさせるようなことは絶対にない」と語っているワーナーはアンドリュースのもう一つの当たり役『キャメロット』の映画化権も持っており、アンドリュースはインタビューで「もちろん『キャメロット』の映画化には出演したいと思いますわ。だけど、ワーナーさんが私にやらせてくれるかしら?」と述べており、最初は舞台のオリジナル・キャストで映画化が発表されたが、結局映画ではバネッサ・レッドグレーブがグィネヴィア王妃役を演じている
アンドリュースは1959年5月10日にサリーのウェイブリッジで舞台美術家であるトニー・ウォルトンと結婚した。アンドリュースと夫は1962年の9月にイギリスに戻り、娘のエマ・キャサリン・ウォルトンがロンドンで二ヶ月後に生まれた
ハリウッドスターの座
1963年、アンドリュースはウォルト・ディズニー・ピクチャーズのミュージカル映画『メリー・ポピンズ』の撮影を始める。ウォルト・ディズニーは、『キャメロット』の公演を観てアンドリュースは「何をやっても完璧!」なイギリス人のナニーにぴったりだと思った
『メリー・ポピンズ』はディズニー史上、一番の興行成績をあげたアンドリュースはこの映画で1964年のアカデミー主演女優賞、ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞した。ディズニー映画でアカデミー主演女優賞にノミネート(後に受賞)されたのはいまだに彼女だけである。彼女と共演者達はグラミー賞 最優秀子どものためのアルバム賞も受賞した。『ポピンズ』の作詞・作曲を担当したリチャード・M・シャーマンがメリー・ポピンズらしい「かわいい仕返し」をしようと考え、アンドリュースはゴールデン・グローブ賞の受賞スピーチで「最後に、これを現実にしてくださったジャック・ワーナーさんに感謝したいと思います」マイ・フェア・レディは同じく賞にノミネートされていた
1965年、アンドリュースは『サウンド・オブ・ミュージック』に出演その年の最高興行収入映画であり、20世紀フォックス史上最大のヒットとなった2013年現在、これは今までの映画の中で三番目の興行収入をあげているアンドリュースはこのマリア・フォン・トラップ役で、二つ目のゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞、アカデミー主演女優賞にもノミネートされたが、ダーリングのジュリー・クリスティに敗れてしまった
1966年、アンドリュースは『ハワイ』に出演その年の最高興行収入映画になっている。また、同じ年にアルフレッド・ヒッチコック監督映画、『引き裂かれたカーテン』に出演、ポール・ニューマンと共演している。次の年には『モダン・ミリー』(1967年)に出演、ゴルデン・グローブ賞にノミネートされた。当時、『モダン・ミリー』と『引き裂かれたカーテン』はユニバーサル・ピクチャーズ史上、それぞれ一番と二番目のヒットであった
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星
1991年、ABCのテレビ映画『君が眠る前に』でアン=マーグレットと共演、テレビドラマデビューを果たした。同年、アンドリュースはディズニー・レジェンドを受賞した。
1995年、彼女は舞台ミュージカル版の『ビクター/ビクトリア』に出演する。これは彼女がブロードウェイデビューをした35年後であった。
アンドリュースは1997年のブロードウェイの終演間近、声が嗄声になり、ショーを辞めざるを得なくなった。その後、彼女はニューヨークのマウントサイナイ病院で喉から非癌性の声帯結節を取り除く手術を受けた。(しかし、最近アンドリュースが、それはビクター/ビクトリアで無理をしたための「声帯に発生する一種の筋肉紋でした」、また「私は癌もなく、結節もありませんでした。何もなかったのです」と述べている。1999年アンドリュースは喉の手術を行ったスコット・ケセラー氏とジェフリー・リビン氏を含むマウントサイナイ病院の医師を医療過誤で告訴した。当初、医師たちはアンドリュースに声は6週間で戻ると断言していたが、アンドリュースの義理の娘のジェニファー・エドワーズは1999年に「二年もたちましたが、まだそれ(以前の歌声)は戻っていません」と話している。訴訟は2000年9月に落ち着いた。
アンドリュースは1997年の声帯から結節を取り除くための手術の失敗によってなくしたものは、戻ってこないことを認めている有名な4オクターブのソプラノは虚弱なアルトに変わってしまった
その後2000年からマサチューセッツ総合病院の院長のスティーブン・M・ゼイトルズが彼女に4回手術をし話し声は戻ってきているものの、歌声までは戻っていない
2000年、アンドリュースは舞台芸術の功績でエリザベス2世よりバッキンガム宮殿で大英帝国勲章を受勲しデイム・コマンダー(司令官騎士 DBE)となる2002年にはビバリー・ワイルシャー・ホテルで開かれた女王の在位50周年を記念するゴールデン・ジュビリーのハリウッドパーティでゲストの一人だった
2001年ケネディ・センター名誉賞を受賞する。同じ年、『サウンド・オブ・ミュージック』で共演したクリストファー・プラマーと生放送でテレビ放送された『On Golden Pond 』(1979年の戯曲『黄昏』を脚色)で再共演した。
キャリアの復活
2001年、アンドリュースは『プリティ・プリンセス』に出演、ディズニー映画は『メリー・ポピンズ』(1964年)以来となった。彼女はクラリス・レナルディ女王を演じ、その続編、『プリティ・プリンセス2/ロイヤル・ウェディング』(2004年)でも同役を演じた。『プリティ・プリンセス2』では喉の手術をおこなってから初めて映画で歌った
2004年、アニメ大ヒット作『シュレック2』(2004年)にリリアン王妃の声を担当し、『シュレック3』(2007年)、『シュレック フォーエバー』(2010年)の続編でも同役を担当する
2007年1月、映画俳優組合より生涯功労賞を受賞、彼女の目標はこれからも舞台の演出を続けること、そして彼女のブロードウェイ・ミュージカルを演出することだと述べた。
2010年–現在
2010年5月21日、映画『シュレック フォーエバー』が公開され、再度、女王役を演じた
2010年12月15日、アンドリュースの夫、ブレイク・エドワーズがカリフォルニア、サンタモニカの Saint John's Health Center で肺炎の合併症により死去した
家族
1959年には幼なじみでデザイナーのトニー・ウォールトンと結婚、娘エマが生まれた。
以降、2010年にエドワーズが亡くなるまでハリウッドのベストカップルとして知られた
カテゴリ:
イングランドの女優
イギリスの舞台演出家
ミュージカル俳優
イングランドの子役
イギリスの映画俳優
イギリスの声優
イングランドの歌手
英国アカデミー賞受賞者
アカデミー賞受賞者
グラミー賞受賞者
エミー賞受賞者
ゴールデングローブ賞受賞者
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム
大英帝国勲章受章者
在アメリカ合衆国イギリス人
エルムブリッジ出身の人物
1935年生存命人物

 -『メリー・ポピンズ』(1964年)29歳と『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)30歳で、
 о“イギリス生まれの女優、歌手、 作家、演出家、ダンサー”
 о“1954年の上演作品『ボーイ・フレンド』でブロードウェイデビュー”
 о“両方ともトニー賞に彼女がノミネートされた『マイ・フェア・レディ』、『キャメロット』で世間の名声を得た”
 о“アンドリュースはディズニー映画『メリー・ポピンズ』(1964年)で長編映画デビュー”
 о“アカデミー主演女優賞を獲得”
 о“『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)では2回目のアカデミー賞ノミネートを果たし、ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞した”
 о“映画は現在でも最高興行収入を獲得した映画第3位である”
 о“1964年から1967年の間、『卑怯者の勲章』、『ハワイ』、アルフレッド・ヒッチコック監督作品『引き裂かれたカーテン』、『モダン・ミリー』などでも人気を得て、当時の世界で一番成功した映画スターとなった”
 о“彼女の4オクターブもの、非常に印象的な声域は、1997年の喉の手術によって失われてしまった”
 о“アンドリュースはアカデミー賞を1度受賞している他に、英国アカデミー賞を1度、ゴールデングローブ賞を5度、グラミー賞を3度、エミー賞を2度、そしてディズニー・レジェンドとケネディ・センター名誉賞の受賞経験がある”
 о“母親のバーバラ・ワード・ウェルズ(旧姓モリス)は、金属加工と木工の学校教師のエドワード・チャールズ・"テッド"・ウェルズと結婚した”
 о“アンドリュースは部屋に鍵をかけるようになった”
 о“ソプラノ歌手で声楽師でもあるマダム・リリアン・スタイルズ・アレンに学んだ。リリアンについてアンドリュースは「彼女は私に大きな影響を与えてくれました」、 「彼女は私の三人目の母のような存在で、私は世界中で一番たくさんの母親と父親がいます」と語っている”
 о“リリアンは「ジュリーの声の精度と音質には驚かされた。彼女にはすぐれた絶対音感の才能があった」と書いている”
 о“自身の声について、「私は混ざり気のない、きれいで、とても細く、4オクターブの声を持っていて、犬が数マイル離れていても呼べたほどでした」と語っている”
 о“彼女はまだ小さかったため、ビールの木枠の上に立ちマイクで歌った。「緊張して恐ろしかったですが、上手くいきました」”
 о“彼女の19歳の誕生日の前夜の1954年9月30日に、ジュリー・アンドリュースはロンドンで大成功したミュージカル『ボーイ・フレンド』のポリー・ブラウン役でブロードウェイデビューを果たす”
 о“『ボーイ・フレンド』の契約が切れる間際に、アンドリュースはブロードウェイの『マイ・フェア・レディ』のオーディションを受けてはどうかと勧められ、見事選ばれた1955年の11月に、彼女にとっては初めてのテレビ映画である『High Tor 』に出演する契約を交わしビング・クロスビーと共演した”
 о“1956年、彼女は『マイ・フェア・レディ』にレックス・ハリソンのヘンリー・ヒギンズ役に対し、イライザ・ドゥーリトル役として出演する”
 о“ロジャーズは『マイ・フェア・レディ』でのアンドリュースの才能に感心、彼女はロジャース&ハマースタインのテレビミュージカルである『シンデレラ』に出演した”
 о“『シンデレラ』はアルフレッド・アントニーニの音楽的な演出の下で1957年3月31日にCBSで放映され、人々を魅惑し、推定1億700万人が視聴した”
 о“1960年、ラーナーとロウは彼女をグィネヴィア王妃として、リチャード・バートンや、当時まだ新人だったロバート・グーレ『キャメロット』に出演させた”
 о“バートンは後に彼女のことを「彼女は僕の好きな共演者三人の中の一人で、他の二人はE.テイラーとP. オトゥールだ。彼女は僕が唯一、一緒に寝たことがない主演女優さ」などと語っている”
 о“ジャック・ワーナーは「私は自分の仕事上、誰が映画に利益を与えるかを知っている。オードリー・ヘプバーンが作品を赤字にさせるようなことは絶対にない」と語っている”
 о“ワーナーはアンドリュースのもう一つの当たり役『キャメロット』の映画化権も持っており、アンドリュースはインタビューで「もちろん『キャメロット』の映画化には出演したいと思いますわ。だけど、ワーナーさんが私にやらせてくれるかしら?」と述べており、最初は舞台のオリジナル・キャストで映画化が発表されたが、結局映画ではバネッサ・レッドグレーブがグィネヴィア王妃役を演じている”
 о“アンドリュースは1959年5月10日にサリーのウェイブリッジで舞台美術家であるトニー・ウォルトンと結婚した。アンドリュースと夫は1962年の9月にイギリスに戻り、娘のエマ・キャサリン・ウォルトンがロンドンで二ヶ月後に生まれた”
 о“1963年、アンドリュースはウォルト・ディズニー・ピクチャーズのミュージカル映画『メリー・ポピンズ』の撮影を始める。ウォルト・ディズニーは、『キャメロット』の公演を観てアンドリュースは「何をやっても完璧!」なイギリス人のナニーにぴったりだと思った”
 о“『メリー・ポピンズ』はディズニー史上、一番の興行成績をあげた”
 о“アンドリュースはこの映画で1964年のアカデミー主演女優賞、ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞した”
 о“『ポピンズ』の作詞・作曲を担当したリチャード・M・シャーマンがメリー・ポピンズらしい「かわいい仕返し」をしようと考え、アンドリュースはゴールデン・グローブ賞の受賞スピーチで「最後に、これを現実にしてくださったジャック・ワーナーさんに感謝したいと思います」マイ・フェア・レディは同じく賞にノミネートされていた”
 о“1965年、アンドリュースは『サウンド・オブ・ミュージック』に出演”
 о“その年の最高興行収入映画であり、20世紀フォックス史上最大のヒットとなった”
 о“2013年現在、これは今までの映画の中で三番目の興行収入をあげている”
 о“アンドリュースはこのマリア・フォン・トラップ役で、二つ目のゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞、アカデミー主演女優賞にもノミネートされたが、ダーリングのジュリー・クリスティに敗れてしまった”
 о“1966年、アンドリュースは『ハワイ』に出演”
 о“その年の最高興行収入映画になっている”
 о“同じ年にアルフレッド・ヒッチコック監督映画、『引き裂かれたカーテン』に出演”
 о“当時、『モダン・ミリー』と『引き裂かれたカーテン』はユニバーサル・ピクチャーズ史上、それぞれ一番と二番目のヒットであった”
 о“1991年、ABCのテレビ映画『君が眠る前に』でアン=マーグレットと共演、テレビドラマデビューを果たした”
 о“1995年、彼女は舞台ミュージカル版の『ビクター/ビクトリア』に出演する”
 о“アンドリュースは1997年のブロードウェイの終演間近、声が嗄声になり、ショーを辞めざるを得なくなった”
 о“彼女はニューヨークのマウントサイナイ病院で喉から非癌性の声帯結節を取り除く手術を受けた”
 о“1999年アンドリュースは喉の手術を行ったスコット・ケセラー氏とジェフリー・リビン氏を含むマウントサイナイ病院の医師を医療過誤で告訴した”
 о“アンドリュースは1997年の声帯から結節を取り除くための手術の失敗によってなくしたものは、戻ってこないことを認めている”
 о“有名な4オクターブのソプラノは虚弱なアルトに変わってしまった”
 о“2000年からマサチューセッツ総合病院の院長のスティーブン・M・ゼイトルズが彼女に4回手術をし話し声は戻ってきているものの、歌声までは戻っていない”
 о“2000年、アンドリュースは舞台芸術の功績でエリザベス2世よりバッキンガム宮殿で大英帝国勲章を受勲しデイム・コマンダー(司令官騎士 DBE)となる”
 о“2002年にはビバリー・ワイルシャー・ホテルで開かれた女王の在位50周年を記念するゴールデン・ジュビリーのハリウッドパーティでゲストの一人だった”
 о“2001年ケネディ・センター名誉賞を受賞する”
 о“2001年、アンドリュースは『プリティ・プリンセス』に出演”
 о“彼女はクラリス・レナルディ女王を演じ、その続編、『プリティ・プリンセス2/ロイヤル・ウェディング』(2004年)でも同役を演じた。『プリティ・プリンセス2』では喉の手術をおこなってから初めて映画で歌った”
 о“2004年、アニメ大ヒット作『シュレック2』(2004年)にリリアン王妃の声を担当し、『シュレック3』(2007年)、『シュレック フォーエバー』(2010年)の続編でも同役を担当する”
 о“2007年1月、映画俳優組合より生涯功労賞を受賞”
 о“2010年5月21日、映画『シュレック フォーエバー』が公開され、再度、女王役を演じた”
 о“2010年12月15日、アンドリュースの夫、ブレイク・エドワーズがカリフォルニア、サンタモニカの Saint John's Health Center で肺炎の合併症により死去した”
 о“1959年には幼なじみでデザイナーのトニー・ウォールトンと結婚”
 о“以降、2010年にエドワーズが亡くなるまでハリウッドのベストカップルとして知られた”
 -というから20世紀フォックスの救世主も偶然(奇蹟)ではなかったのだ。(つづく)<記20年7月13日>〈22,744Byte〉